(信濃の長久保宿)
歌川広重・渓斎英泉「木曽海道六拾九次之内」によれば、
(長久保の宿を出て和田宿にほど近い辺りを依田川が流れている。
広重の浮世絵は依田河畔の情景を描いたものであろう。
近景はこの辺りの人々の様子が着彩で描かれている。
子供たちが犬に乗って戯れる傍らを、仕事を終えた馬子が通り過ぎる。
馬子が見ているのは、昇ってきた満月。

(木曽海道69次之内「長久保宿」)
川岸の松から後方の景色は、シルエットで表現されている。
川に架かる橋(落合橋とされる)の欄干も濃淡の差異を持たせ手前と奥を描き分けている。
橋を通る馬子、天秤で荷物を運ぶ農夫をシルエットで見事に描いている。)と説明している。
歌川広重が天保8年頃の作品と言われる。
長久保を訪れた人には、「東海道中膝栗毛」の十返舎一九もいる。
十返舎一九は、文化八年(1811)取材を兼ねて、中山道を通って京阪へ旅をします。
そして、文化十一年(1814)に、
「鼻毛の延高(はなげののぶたか)」と「千久羅坊(ちくらぼう)」という二人の狂歌師が、
京から江戸へ向かう道中を描いた
「方言修行金草鞋(むだしゅぎょうかねのわらじ)」第五編「木曽街道之記」を刊行します。
(十返舎一九の「方言修行金草鞋」)
この中で、長久保宿は「たのしみはたびにこすものあら坂や
日もながくぼの春ののどけさ」と狂歌に唄われ、
「ばんにはながくぼのささやにしやうか」といって、
脇本陣の笹屋に宿をとる様子が描かれています。
また、嘉永六年(1853)黒船来航以来、
尊王攘夷論や公武合体論が台頭して、世情が不安定になります。
こうした中で、文久三年(1863)には、幕府の浪士組み234名が、
将軍上洛警護を目的として、江戸から中山道を通って京に向かいました。
このとき長久保宿に宿泊し、その宿割りの手配をしたのが、新撰組局長の近藤勇で、
他にも土方歳三、沖田総司が浪士組みの一員に加わっています。
その新撰組の近藤勇も、板橋宿の平尾宿(下宿)の外れで処刑され、
お墓があります。
さらに、元治元年(1864)には、水戸天狗党(水戸浪士が)、
内山峠越えに信濃に入り、中山道を通って京を目指しました。
このことは(茂田井の高札)のところで述べました。
十一月十九日に一行は、長久保宿を通過しますが、にわか雨に合ったため、宿内で休憩します。
流言飛語が飛んだためか、宿では婦女子を土蔵やむろの中に隠し、
火災を警戒して、火を消すなどしましたが、浪士一行の態度は礼儀正しいものであったと言います。
また、行軍中は小太鼓を打ちながら、「水戸の浪士と長州がなけりゃ、
今に日本は唐(から)になる。」と唄って行ったと伝えられています。(長和町教育委員会)
> シャクネツか、アカネツか、咳熱が出てきませんでした。
遅ればせながら差し替えさせていただきます。 ありがとうございました。
それに、水戸天狗党も泊まっていました。
いま、「西郷の首」伊東潤著を読んでいますが、加賀藩が水戸天狗党にかかわっています。彼らは惨たらしく処刑されました。
寒いときに冷たい話は余計冷えます。
自ら進むとなると、道を踏み違えないようにして欲しいですね。
それに気づいてすぐ修正できる人柄でありたいですね。
小学校の子供も返りは道草~雪の山の上を歩いて来ますよ~。
家の屋根ほどの上を・・・愉しいんでしょうね。
ただ滑って道路に落ちると危ないですが。
いつも ありがとうございます♪(*'-^)-☆
出向いています、郷土史を研究しています。
此処暫くは出向いていませんが車出なければいけないの
で。
お顔だし有り難うございます。
雪かきの 嫁の姿や 有難き
また外圧でしょうか?日本は外圧で
変わるのでしょうか?
おっしゃる通りです。
トップはトップとして当たり前の考えなのでしょうね。
ただ、一寸は理解してほしいかな?
有り難うございます。
この時代、世の中、日本を二分して、
共に日本に良かれと動いたのでしょうね。
文明開化の時期、庶民も武士も商人も、
皆平等を唱えた思想が受け入れられた。
これで明治維新が成った。
安倍首相の采配で、日本は立ち直るか?
世界が注目しているようです。
権力の終末は諸々入り乱れ、乱れを増すだけですね。
のどかな田園風景が癒すてくれますね。
坂本竜馬が生きていたらどんな策を考えだしたか…
新撰組…存在価値は…物語の題材…ばかりではないでしょうね。