芭蕉は、仙台に入って榴岡天満宮をお詣りした後、
おくのほそ道で、
「名取川を渡て、仙台に入る。あやめふく日也。
――中略――
日影ももらぬ松の林に入て、茲(ここ)を木の下と云うとぞ。
昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。
薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝みて、その日は暮れぬ。」とある。
――中略――
日影ももらぬ松の林に入て、茲(ここ)を木の下と云うとぞ。
昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。
薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝みて、その日は暮れぬ。」とある。
これを例によってボクの勝手な現代語訳では、
(陸奥国分寺跡は、仙台市若葉区木の下と言う所にあって、
陽の光も通らぬほど松の木が茂って、
露が多く垂れて、雨のように濡れるから、
これを昔の人は「みさぶらひみかさ」と詠んだのだ。
薬師堂・天神の社殿などを拝んで、その日は終わった。)となる。
「みさぶらひみかさ」の出典は、古今和歌集の和歌にある、
・みさぶらひ 御笠(みかさ)と申せ 宮城野の
木の下露は 雨にまされり
木の下露は 雨にまされり
から採ったものだ。
「みさぶらひみかさ」とは何だろうと疑問を持った。
解説を見ると、漢字で書くと理解しやすい、
つまり「御侍(みさぶらひ) 御笠(みかさ)」と書く、
「お侍、笠を」と言うことなのだ。
この当時の貴人のお共はお侍であったようで、
ボクの勝手な現代語訳では、
(宮城野の木の下の露は雨のように垂れるから、
お供のお侍さんよ、主人にお笠をお召くださいと言ってください。)となる。
さて木の下であるが、仙台市の地名であると同時に、
深い松林であったようで、現在も松林ではないものの、
ケヤキなどの鬱蒼とした木の下を歩いて行くと言う意味にもとれる。
その林の入り口に「史跡 陸奥国分寺跡」の石碑が見えた。
(陸奥国分寺跡の碑)
(木が重なり合って深い林)
(深い林の向こうに見える薬師堂)
(木の下にあやめも咲く)
陸奥国分寺は、
(正式には金光明四天王護国寺といい、天平13年(741)、
聖武天皇の発願により全国に建立された国分寺の一つで、
最北に位置しています。
その後、藤原秀衡によって堂宇僧坊の修復が行われましたが、
文治5年(1189)源頼朝の奥州侵攻の際に兵火で焼失しました。
これを伊達家が薬師堂などを建てて再興しました。
国分寺跡は、発掘調査で礎石のありさまから金堂を中心に福廊式回廊が巡らされ、
中門・南大門・講堂・鐘楼・経蔵・食堂などがあったと判っており、
その規模は奈良の東大寺と同規模であったと推定されています。)とある。
薬師堂は、国分寺金堂跡に慶長11年(1606)、
伊達政宗によって再建された。
厨子内には薬師如来像が安置されているようだ。
また薬師堂鐘楼の周りには、礎石が数多く観られ、
国分寺が大伽藍であったことが窺がえます。
その礎石を辿って行くと、薬師堂仁王門があり、
茅葺で江戸時代の建築様式が見られ、中の仁王様がにらみを利かせていた。
(薬師堂1)
(薬師堂2)
(薬師堂鐘楼)
(礎石が沢山観られる1)
(礎石が沢山観られる2)
(礎石が沢山観られる3)
(仁王門)
(仁王門の扁額)
(仁王門の阿形の仁王様)
(吽形の仁王様)
(仁王門前の国分薬師如来の石柱)
(仁王門から見た薬師堂)
さて、芭蕉の足跡は、この薬師堂の西側にある準胝(じゅんてい)観音堂の参道にある。
仁王門から左へ目をやると、準胝観音堂は林の中に朱塗りの姿を見せている。
(準胝観音堂は林の中に朱塗りの姿)
(準胝観音堂)
(準胝観音堂の参道脇に見える芭蕉句碑)
(芭蕉句碑)
(「あやめ草~」の句碑)
参道にある芭蕉句碑には、
・あや免草足尓 芭蕉翁
結ばん艸 鞋能緒
結ばん艸 鞋能緒
(あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒)と刻まれている。
おくのほそ道に、「あやめふく日也」と書きこんでいるが、
この俳句のの伏線であったと考えるのは考えすぎであろうか・・・・。
薬師堂西にあやめ草の一群が咲いていた。
碑陰には句碑建立の由来が書かれているらしいが、
ボクには読むことが出来なかった。
ただ、最後の一行に
・暮れかねて 鴉啼くなり 冬木立
とかろうじて読める程度であった。
(芭蕉句碑の裏面)
準胝観音堂の裏側に回ると、各種石造が立って居り、
中に延命地蔵さんがあった。
(延命地蔵尊など石造物1)
(延命地蔵尊など石造物2)
これら石造物も芭蕉が訪ねた頃より、何百年と風雨の中にある。
なるほど、漢字だと分かり易いですね。
陸奥国分寺は、奈良の東大寺と同規模とは、かなり広い敷地ですね。
江戸時代に、薬師堂が再建されたので、イメージがわきやすいです。
多賀城にも国分寺跡はありました。
全国に国分寺跡は沢山ありますが、
東京などは国分寺市と市になっていますし、駅もあります。
国分寺はやはり奈良の東大寺が一番ですね。
私は信濃国分寺跡を訪ねたことがあります。
ここも基礎石だけしか残ってませんでした。
現在の長野県は長野市と松本市を中心に栄えてますが
中世の鎌倉時代までは上田市付近が中心だったようです。
我が町・河内の国は国府跡は発掘されてますが
国分寺跡はどこにあったのかも不明だそうです。
陸奥の国の国府跡は確か多賀城の辺りでしたよね。
本当に芭蕉の文章は理解するのに苦労します。
故事来歴を引用した部分が多すぎます。
芭蕉そのものもかなりの書を読み自分のものにしていたように思います。
>俳句の現代語解釈も秀逸です
お褒めに預かり恐縮しております。
詩人杜甫が「国破れて山河あり城春にして草木深し」の雰囲気でもあります。
>「みさぶらひみかさ」とは何だろうと疑問を持った。
解説を見ると、漢字で書くと理解しやすい、
つまり「御侍(みさぶらひ) 御笠(みかさ)」と書く、
「お侍、笠を」と言うことなのだ。
なるほど。
ひらがなだとさっぱりわかりませんでしたが、漢字で書かれたら理解できました。(笑)
俳句の現代語解釈も秀逸です。
よいことをしてあげました。^^ 手間はかかっても気持ちが豊かになった気がします。
栄耀栄華は時の運と申しますが、 陸奥国分寺跡は時の権力者が国運を願って建てたお寺ですから、 寺の流派の流行り
というわけでもなさそうです。
かなり広い敷地だったのですね。 国分寺が大伽藍であったことがうかがわれ、 「夏草や兵どもが夢の跡」 な雰囲気です。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/8f755e44613186ac6b1a0d0cd815ad2c