楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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授業参観:道徳 (学校教育 4)

2006年10月24日 08時07分00秒 | つれづれなるままに考えること
(授業参観:道徳)
道徳、昔は修身といった。この時間にこんなことを教えていますと、
教育委員会が授業を公開している。その授業を参観した。
中学生の授業を参観する人の数は、保護者会などと違ってまばらであった。
1年から3年まであるのに10人に満たない。
親はどんな道徳教育をするのかほとんど関心がないようである。

学校に入ると受付があって、そこでサインをして、1~3年生のどのクラスの授業を参観してもよい。
スリッパを貸していただいて、校舎に入る。
1年は1階、2年は2階、3年は3階、年齢によって?危険防止のため?
どのように階層を決めているのか解らない。

騒いで取っ組み合いをしている人、飛び跳ねて追いかけっこをしている人、
黒板に訳の解らない落書きをしている者、本を読む人、かたまって雑談をしている人たち、いろいろである。
沢山の人たちの中、各学年でたった一人「こんにちは」と挨拶をする人がいた。
挨拶をしたのは都合3人だけ。
途中、何人かの大人に出会ったが、先生であろう、さすがどの方も
「いらっしゃいませ」と挨拶をされた。

1年生の授業。何時始まったか解らない。
教室の後ろの黒板に明日の注意事項が書かれている。
体育:運動着を忘れないように。
国語:(読めない字が羅列してある。)
社会:×××・・・

先生「明日の注意事項を忘れないように」
こんな言葉で授業は始まった。全員机に座っているが、
後向きになっておしゃべりしている子が二人いる。
注意事項といっても、何が書いてあるか分からない項目があるが
先生はお構いなし。後ろ向きでおしゃべりしている子がいても、
注意もしない。はたしてこれで良いの?不思議に思う。
道徳の授業以前に学ぶことはありそうである。

何が書いてあるか分からない項目にはかいた人を注意し、
書き直させるぐらいのことは必要だ。
他人とのかかわりを大切にする心構えを持たせるつもりなら。
後ろ向きでおしゃべりをしている子供にも注意をする必要がある。
教わるものの態度ではない。

ボクがサラリーマンになって十年後から毎年のことであったが、
新入社員教育で、部門の紹介と社員としての心構えなどを
話す講師を仰せつかった。持ち時間は1時間。
受講生の中には、学生生活の延長気分で、
この中学生と同じように後ろ向きになって話している人が毎年いる。
ボクは、話を始める前に、自分の立場をしっかり説明する。
その間に後ろ向きの人が態度を改めないと、話をやめてじっとその人を見つめることにしている。
ものの数秒のことである。
この場合、沈黙ほど注目を集める方法はないことを、ボクは良く知っている。
回りがシーンとなったのに気づいて、後ろ向きの人が姿勢を正したら次のように話す。
「過ぎ去った時間を取り戻すことが出来ないように、ボクの話を聞き漏らしたら、
二度と聞くこと出来ません。今後、会社内でいろいろな体験する中で、
聞いておいてよかったと思う人が、どんなに多いかをボクは知っています。
また、ボクは好きで講師を買って出たわけではないのです。
やりたくないけれど、会社のメイレイですから、ここに来ています。
この時間に本来の仕事をしていれば、この一時間で何百万の売り上げが出来るかわからないのです。
それを置いておいて、ここにいるのですから、少なくもその金額の値打ちはあるのです。
話すほうもしっかり話しますから、聞くほうも、しっかりお聞きください。」と。
まず姿勢を改めさせる。

その昔、ボクは教師になりたかった。大学で教職課程を専攻したが、
最初の一年で教師になることを断念した。
その理由は、教職課程の必修科目の中にある教育哲学がDであったからだ。
人にものを教える立場に立つ人の人生哲学があるいは教育哲学が、0点では、
教師の資格なしと自分で判断したからだ。

(その頃、100点以外は0点と考えていた。先生は絶対で採点も絶対間違いはないと思っており、
採点するのは人間で間違いを犯すのも人間であるという、疑いを持たなかった。
以前も以後もボクの人生哲学は変わっていないが、今でも間違っているとは思えない。)

人に物を教えるとき、真に必要とすることを教えるという立場を貫く。
話は面白くないかもしれないが、今後欠かすとサラリーマンとしてやっていけない内容だから、
静かに聴いてもらえる。
いつも午後1~2時の持ち時間が多い。なのに、居眠りをする人は誰もいない。
教育部の課長さんが講師の見張り役で聞いているのに、毎年同じような時間に、
講師をさせられたのは、話の内容が面白かったからに違いないと、
勝手に自負している。

さて、中学の道徳の授業であるが、何を言いたいのかさっぱり理解が出来なかった。
言いたいことを(教えたいことを)真綿に包んで、さらにその上に毛布をかけたような教材なのである。
小4の子供を持つ娘に話をすると、
今の教育は問題を提起して、子供たちに解決策を発想させる、そんなやり方だという。
ボクも頭は良いほうではないが、良くないボクには何を教えたいのか解らない、
まして子供にわかるはずがないのである。

授業後の生徒を捕まえて、何人かに
「今の授業で何を教わったの?」
と訊いたが、誰も回答できなかった。

娘いわく「そう思ったらそれを改善するように行動すればよいのでは?
パパらしくない」
たった一校、この一回の授業参観で結論を出すわけにもいかない。
すぐさま教育委員会を訪ねて、授業内容がさっぱりつかめない。
どんな教え方をしていて、何を教えたいのか?
教えたいことに相応しい教材なのか? 
質問した。
自治体の教育委員会では、1~3年生にわたって教えたいことは決めてあるが、
教材は各学校に一任してあるという。
それでは、教えたいことは同じでも、学校によって教材が違うから、
習熟度は学校によって変わるということになる。
わかりやすい教材を使って授業をしたところと、そうでないところに
格差は出来て当然だ。

そんないい加減なことでよいだろうか・・・


コメント
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