(授業参観 英語:単数と複数)
指折りの進学校の英語の授業に参観した。二クラスでともに中学一年生。
この時期、英語は習い始めて三ヶ月目(6月)のはずである。
内容としては、This is、These are、 That is、Those areの単数
複数形違いを表現する場面であった。机や椅子の絵を描いたカードを
見せて、This is a desk.These are desks.
あるいは、That is an umbrella.Those are umbrellas.
生徒は答える。次に先生は聞く、生徒もここからは始めてらしい。
What color is this unbrella?
生徒:茶色はなんて云います?
先生:This color is brown.
こんな会話を見て、「さすが、生徒は優秀だ」と思った。
茶色の英語を知らなくて、先生からbrownと教わって、
すぐ「That is brown.」と答えたからだ。
その中で「オヤッ」と思ったことがある。
この発音で果たして英語は通じるのだろうか?
その昔を思い出す。
今から60年前、どこかの学校の先生が、中学の英語教育の模範授業の
デモンストレーションを行うことになり、どういう訳か、
生徒は中学一年の僕たちのクラスが選ばれたことがある。
夏休み始まる直前のことのように記憶している。
挨拶から始まって、その先生は、全ての授業を英語で進めた。
聞きそびれてはならないと、必死で先生を見つめ話す内容を聞いた。
おおよそ進める授業の内容はわかったが、唐突に
「Are you human being?」と僕に質問が飛んできた。
僕は困った。「human being」の意味が解らなかったからだ。
沢山の英語教師が、授業参観に来ていて、返事に詰まったボク見て、
どっと笑った。それで恥ずかしい思いをしたことがある。
英語を習い始めて、たかだか三ヶ月。沢山の英単語を知っているわけではない。
笑われることによって、僕は混乱してどう返事をして良いか余計わからなくなった。
教育は、こうあってはならない。
わからない人には、解るように教えるのが教育である。
通じない言葉は、通じるようにしなければいけない。
たった一度、恥ずかしい思いをしただけであるが、
以来、ボクは解っていても、一度も手を挙げることはしなかった。
手を挙げた全員が間違っており、正解はこうなのにと分かっていても手を挙げたことはない。
解る人が居なくて、しーんと静まり返って先生が順番に指さして正解を求め、
順番がボクに回ってこない限り、回答はしない。
学校教育は、社会にでてから何が役に立つかは、具体的になかなかわからないものである。
ピタゴラスの定理なんかどこかで役に立っているのだろうか?
数学にあったリミットやら、インテグラル、シグマはどこかで知らぬ間に
役立ったのであろうか?
数学では、加減乗除、なんパーセント?何割?ということの方が役立つ。
役立つといえば、言葉は基本で一番役に立つ。
日本語をまともに使える。読める、書ける、話せる、の基本が
出来ていることが最も重要である。
社会に出てこれくらい役に立つものはない。
書き言葉を話し言葉で使うのは奇妙であるし、話し言葉を書き言葉で
使うのは見苦しい。
つぎに外国語。
日本人のほとんどが英語を習う。
しかし、きちんと使える人は極めて少ない。
日本では、高等学校を卒業する人は全人口の98%という。
中高一貫して英語は必修科目であるから、
(日本人のほとんどは、英語を六年間も勉強する。
だからほとんどの人が英語はわかります。)
と外国人に話すと、一様に(嘘だぁ)という顔つきをする。
日本人にそう話したって、同じ顔をする。
どうしてこうなるかというと、島国の日本には英語を使う機会がほとんどないからである。
ユーラシア大陸では、国と国が隣接しているから、他国人と接する機会が多く、
どうしても英語を使う機会が増える。
ミャンマーやフィリッピンあるいはインドの飢えに苦しむ人たちが
(学校教育を受けたのだろうかと思われるような人たちが)、
テレビカメラの前で、窮状を訴える英語をぺらぺら話す。
日本人は教育を受けているのに、このようには話せない。
それでも最近は昔より英語を話せる人が増えた。
外国に出て使わざるを得ない人たちが増えたからだ。
あるいは外国に出かけていって英語を勉強するからである。
ボクはどうゆうわけか、外国人に道を聞かれることが多い。
最初は彼らが言っていることが解らなかったが、慣れるとたいしたことはない。
それでも時々外国人同士が、道を尋ねておいて、
「この日本人英語が話せるんだ」と話しているのが耳に入ることがあるのは、心外に思うが、
それほど日本人は英語を使える人が少ないということだ。
それでも、英語が読める。書ける。話せる人の数は、人口の割に、
また 教育制度の割には、きわめて少ない。
その一因に、学校教育での英語が,
使っても通じないところに一因があると思われる。
指折りの進学校の英語の授業に参観した。二クラスでともに中学一年生。
この時期、英語は習い始めて三ヶ月目(6月)のはずである。
内容としては、This is、These are、 That is、Those areの単数
複数形違いを表現する場面であった。机や椅子の絵を描いたカードを
見せて、This is a desk.These are desks.
あるいは、That is an umbrella.Those are umbrellas.
生徒は答える。次に先生は聞く、生徒もここからは始めてらしい。
What color is this unbrella?
生徒:茶色はなんて云います?
先生:This color is brown.
こんな会話を見て、「さすが、生徒は優秀だ」と思った。
茶色の英語を知らなくて、先生からbrownと教わって、
すぐ「That is brown.」と答えたからだ。
その中で「オヤッ」と思ったことがある。
この発音で果たして英語は通じるのだろうか?
その昔を思い出す。
今から60年前、どこかの学校の先生が、中学の英語教育の模範授業の
デモンストレーションを行うことになり、どういう訳か、
生徒は中学一年の僕たちのクラスが選ばれたことがある。
夏休み始まる直前のことのように記憶している。
挨拶から始まって、その先生は、全ての授業を英語で進めた。
聞きそびれてはならないと、必死で先生を見つめ話す内容を聞いた。
おおよそ進める授業の内容はわかったが、唐突に
「Are you human being?」と僕に質問が飛んできた。
僕は困った。「human being」の意味が解らなかったからだ。
沢山の英語教師が、授業参観に来ていて、返事に詰まったボク見て、
どっと笑った。それで恥ずかしい思いをしたことがある。
英語を習い始めて、たかだか三ヶ月。沢山の英単語を知っているわけではない。
笑われることによって、僕は混乱してどう返事をして良いか余計わからなくなった。
教育は、こうあってはならない。
わからない人には、解るように教えるのが教育である。
通じない言葉は、通じるようにしなければいけない。
たった一度、恥ずかしい思いをしただけであるが、
以来、ボクは解っていても、一度も手を挙げることはしなかった。
手を挙げた全員が間違っており、正解はこうなのにと分かっていても手を挙げたことはない。
解る人が居なくて、しーんと静まり返って先生が順番に指さして正解を求め、
順番がボクに回ってこない限り、回答はしない。
学校教育は、社会にでてから何が役に立つかは、具体的になかなかわからないものである。
ピタゴラスの定理なんかどこかで役に立っているのだろうか?
数学にあったリミットやら、インテグラル、シグマはどこかで知らぬ間に
役立ったのであろうか?
数学では、加減乗除、なんパーセント?何割?ということの方が役立つ。
役立つといえば、言葉は基本で一番役に立つ。
日本語をまともに使える。読める、書ける、話せる、の基本が
出来ていることが最も重要である。
社会に出てこれくらい役に立つものはない。
書き言葉を話し言葉で使うのは奇妙であるし、話し言葉を書き言葉で
使うのは見苦しい。
つぎに外国語。
日本人のほとんどが英語を習う。
しかし、きちんと使える人は極めて少ない。
日本では、高等学校を卒業する人は全人口の98%という。
中高一貫して英語は必修科目であるから、
(日本人のほとんどは、英語を六年間も勉強する。
だからほとんどの人が英語はわかります。)
と外国人に話すと、一様に(嘘だぁ)という顔つきをする。
日本人にそう話したって、同じ顔をする。
どうしてこうなるかというと、島国の日本には英語を使う機会がほとんどないからである。
ユーラシア大陸では、国と国が隣接しているから、他国人と接する機会が多く、
どうしても英語を使う機会が増える。
ミャンマーやフィリッピンあるいはインドの飢えに苦しむ人たちが
(学校教育を受けたのだろうかと思われるような人たちが)、
テレビカメラの前で、窮状を訴える英語をぺらぺら話す。
日本人は教育を受けているのに、このようには話せない。
それでも最近は昔より英語を話せる人が増えた。
外国に出て使わざるを得ない人たちが増えたからだ。
あるいは外国に出かけていって英語を勉強するからである。
ボクはどうゆうわけか、外国人に道を聞かれることが多い。
最初は彼らが言っていることが解らなかったが、慣れるとたいしたことはない。
それでも時々外国人同士が、道を尋ねておいて、
「この日本人英語が話せるんだ」と話しているのが耳に入ることがあるのは、心外に思うが、
それほど日本人は英語を使える人が少ないということだ。
それでも、英語が読める。書ける。話せる人の数は、人口の割に、
また 教育制度の割には、きわめて少ない。
その一因に、学校教育での英語が,
使っても通じないところに一因があると思われる。