(栗橋宿から中田宿へ)
(JR栗橋駅)

前回は昨年【2014年5月)栗橋駅前の静御前の墓を訪ねた。
今日はその栗橋駅から旧日光・奥州街道を歩く。
駅を出て、左へ静御前の墓の前を通り旧日光街道に向かう。
(栗橋駅入り口)の信号が旧街道である。
(栗橋駅入口の信号)

(利根川の堤防が先に見える)

信号を左折すると、利根川の土手が道路先に見える。
土手の手前左に神社があるはずである。
土手に近づくと左に見える神社の手前、道路脇に案内杭が見える。
杭が削ってあり白地に薄れた文字で「栗橋関所跡碑」に右矢印が書いてある。
案内地図では、左手に八坂神社、右手の土手に栗橋関所跡があるはずである。
(栗橋関所跡碑と左に見える神社)

(八坂神社の石碑)

(八坂神社本殿)

普通神殿の前は狛犬であるが、ここには一対の鯉が鎮座している。
それも台座に(招福の鯉)と刻まれている。
八坂神社の縁起によると・・・
「慶長年間、中利根川で洪水があった時に、多数の鯉と泥亀に囲まれて神像が流れてきた。
村人が引き上げてみると、この神像は元栗橋の天王(注)だった。
これは神意に違いないとこの地に祀った。」とある。
(注)天皇とは牛頭天王を指し、単に天王と言うこともある。
(神殿前の招福の鯉)

八坂神社を出て、栗橋関所跡がある利根川の堤防の方に進む。
立派な木が茂っていて、その下に栗橋関所跡の碑がある。
埼玉県指定旧跡になっている。
(栗橋の関所跡)

久喜市教育委員会の説明板によると、
「栗橋関所 址 {房川渡(ぼうせんわたし)中田・関所}
江戸幕府は、交通規制と治安維持のために、
主要な街道が国境山地や大河川を越す用地に関所を設け、
特に「入り鉄砲と出女」を取り締まった。
栗橋関所は、日光街道利根川を越す用地に「利根川通り乗船場」から
発展した関所の一つで「房川渡し中田・関所」と呼ばれた。
東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで重要な関所であった。
関所の位置は、堤防の内側で利根川のほとりにあり、
寛永年中に関東代官頭の伊那備前守が番士四人を置いた。
以後、明治二年関所廃止までの二百五十年間、
番士は代々世襲で勤めた。
関所跡の記念碑は大正十三年に旧番士三家・本陣・宿名主の発起で、
町内の有志により、徳川家達の揮毫で旧堤上に建碑されたが、
数度の堤改修により現在地に移設された。」とある。
房川渡しとは、栗橋村にあった宝泉寺と言う法華坊があり、
「坊前の渡し」と呼んだことから坊前が房川と記され、
川と渡しの名になったという。
(徳川家達揮毫による「栗橋関所址」の碑)

現在は利根川橋が架かっており、日光街道は堤防登って橋を渡る。
橋を渡ると中田宿で、関所は中田宿にあったが、後に栗橋側に移転された。
(利根川の堤防を上る)

(利根川橋)

(茨城県古河市はここから)

利根川橋を渡ると、茨城県古河市である。
橋を渡って旧日光街道は左方向へ行くが、
堤防を下って右側に曲がる角に、中田・関所はあったと言うが、
今は色あせて文字も読めない説明板が建っているだけである。
(自動車の向こう側にあったと言う中田関所跡)

(房川渡し中田宿側の関所跡の読めない説明板)

すぐ、(利根川堤)の信号に出るが、信号の向こう側に
中田宿の説明板があり、
この辺りが中田宿であったことを教えてくれるだけで、
宿場町の俤も残っていない。
(利根川堤の信号)

(中田宿の説明板がある)

しばらく歩くと左手に鶴峯八幡神社がある。
鎌倉時代頼朝が鶴岡八幡宮の宮司を呼んで建てたと言われる。
伝わる太太神楽があり県指定無形文化財となっているそうです。
(鶴峯神社)

(神殿)

この先に真宗大谷派の光了寺があるはず。
(JR栗橋駅)

前回は昨年【2014年5月)栗橋駅前の静御前の墓を訪ねた。
今日はその栗橋駅から旧日光・奥州街道を歩く。
駅を出て、左へ静御前の墓の前を通り旧日光街道に向かう。
(栗橋駅入り口)の信号が旧街道である。
(栗橋駅入口の信号)

(利根川の堤防が先に見える)

信号を左折すると、利根川の土手が道路先に見える。
土手の手前左に神社があるはずである。
土手に近づくと左に見える神社の手前、道路脇に案内杭が見える。
杭が削ってあり白地に薄れた文字で「栗橋関所跡碑」に右矢印が書いてある。
案内地図では、左手に八坂神社、右手の土手に栗橋関所跡があるはずである。
(栗橋関所跡碑と左に見える神社)

(八坂神社の石碑)

(八坂神社本殿)

普通神殿の前は狛犬であるが、ここには一対の鯉が鎮座している。
それも台座に(招福の鯉)と刻まれている。
八坂神社の縁起によると・・・
「慶長年間、中利根川で洪水があった時に、多数の鯉と泥亀に囲まれて神像が流れてきた。
村人が引き上げてみると、この神像は元栗橋の天王(注)だった。
これは神意に違いないとこの地に祀った。」とある。
(注)天皇とは牛頭天王を指し、単に天王と言うこともある。
(神殿前の招福の鯉)

八坂神社を出て、栗橋関所跡がある利根川の堤防の方に進む。
立派な木が茂っていて、その下に栗橋関所跡の碑がある。
埼玉県指定旧跡になっている。
(栗橋の関所跡)

久喜市教育委員会の説明板によると、
「栗橋関所 址 {房川渡(ぼうせんわたし)中田・関所}
江戸幕府は、交通規制と治安維持のために、
主要な街道が国境山地や大河川を越す用地に関所を設け、
特に「入り鉄砲と出女」を取り締まった。
栗橋関所は、日光街道利根川を越す用地に「利根川通り乗船場」から
発展した関所の一つで「房川渡し中田・関所」と呼ばれた。
東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで重要な関所であった。
関所の位置は、堤防の内側で利根川のほとりにあり、
寛永年中に関東代官頭の伊那備前守が番士四人を置いた。
以後、明治二年関所廃止までの二百五十年間、
番士は代々世襲で勤めた。
関所跡の記念碑は大正十三年に旧番士三家・本陣・宿名主の発起で、
町内の有志により、徳川家達の揮毫で旧堤上に建碑されたが、
数度の堤改修により現在地に移設された。」とある。
房川渡しとは、栗橋村にあった宝泉寺と言う法華坊があり、
「坊前の渡し」と呼んだことから坊前が房川と記され、
川と渡しの名になったという。
(徳川家達揮毫による「栗橋関所址」の碑)

現在は利根川橋が架かっており、日光街道は堤防登って橋を渡る。
橋を渡ると中田宿で、関所は中田宿にあったが、後に栗橋側に移転された。
(利根川の堤防を上る)

(利根川橋)

(茨城県古河市はここから)

利根川橋を渡ると、茨城県古河市である。
橋を渡って旧日光街道は左方向へ行くが、
堤防を下って右側に曲がる角に、中田・関所はあったと言うが、
今は色あせて文字も読めない説明板が建っているだけである。
(自動車の向こう側にあったと言う中田関所跡)

(房川渡し中田宿側の関所跡の読めない説明板)

すぐ、(利根川堤)の信号に出るが、信号の向こう側に
中田宿の説明板があり、
この辺りが中田宿であったことを教えてくれるだけで、
宿場町の俤も残っていない。
(利根川堤の信号)

(中田宿の説明板がある)

しばらく歩くと左手に鶴峯八幡神社がある。
鎌倉時代頼朝が鶴岡八幡宮の宮司を呼んで建てたと言われる。
伝わる太太神楽があり県指定無形文化財となっているそうです。
(鶴峯神社)

(神殿)

この先に真宗大谷派の光了寺があるはず。