楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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     ・おくのほそ道を歩く

高館義経堂(奥の細道を歩く 59)

2015年01月19日 08時50分52秒 | 芭蕉の旅
(平泉4)
芭蕉は、各地を歌を詠みながら歩いた西行法師を慕い、
和歌に詠まれた歌枕(名所旧跡)を訪ね、
悲劇の武将 義経を慕って歩いている。
ここ平泉は、壇ノ浦やヒヨドリ越えの戦で名を馳せた義経の最期の場所である。

奥州の藤原秀衡が造った無量光院跡を見学して北上し、
義経終焉の地「高館義経堂」を訪ねている。

芭蕉は「奥の細道」で次のように記している。

「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。
秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。
先ず高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也。
衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
(中略)
さても義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、
笠打ち敷きて、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。

・夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

 ・卯の花に 兼房みゆる 白毛(しらが)かな  曽良」

(芭蕉句碑:上部に俳句、下部に「奥の細道」の一節が載る)
(「夏草や・・」の芭蕉句碑)

高舘義経堂横に義経主従の供養塔がある。
兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた義経は、
藤原氏三代 秀衡に庇護されていましたが、
文治五年四月三十日、頼朝の圧力に耐えかねた秀衡の子・泰衡の急襲に遭い、
この地で妻子とともに自害したと伝えられている。
天和三年(1683)仙台藩主 伊達綱村が義経を偲んで建てたのが義経堂です。

(高館義経堂入口の階段、この上にもう一つ階段がある)
(義経堂までのもう一つの階段)
(義経堂)

運命に翻弄され、この地で31歳の短い人生を終えた義経と、
その義経を信じて戦い抜いた弁慶、それぞれの生涯に思いを馳せ、
昭和61年建立された義経主従供養塔が義経堂の横にある。

(横にある義経主従供養塔)

(高舘展望の図)
(高舘から見る開けた景色:奥に束稲山が見える)
(高舘から見える北上川)

「吾妻鑑」によれば、
(義経は「衣河舘(ころもがわのたち)」に滞在しているところを襲われたとあるが、
今は「判官の館」と呼ばれるこの地が「衣河舘」であったろうか。)とある。

自害の後、義経の首は塩詰めにして鎌倉に送られたと言われているが、
時は夏、平泉から鎌倉に着くまでに、
顔は崩れて義経かどうか判別出来たかどうか解らない。

そのためか、次のような伝説が残るという。
「義経北行き伝説」
(悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、
文治五年(1189)四月、
平泉の高舘において31歳を一期として自刃したが、
短くも華麗だったその生涯を想い
”義経はその一年前にひそかに平泉を脱出し北を目指して旅に出た”
と言う伝説を作り上げた。
世に言う「判官びいき」であろう。

その伝説では
”文治五年、この館で自刃したのは、
義経の影武者【杉目太郎行信】であって、
義経はその一年前に弁慶等を伴い館を出て、
束稲山を越え長い北への旅に出たのであろう”
と伝えられている。(佐々木勝三著「義経は生きていた」)
(岩手県観光協会)
そしてモンゴルに渡り「ジンギスカン」として名を馳せた、
と一関学院の生徒さんの解説であった。

(伝説の看板)

この伝説はただの伝説ではない。
「奥の細道」の第一級の解説書と言われる「おくのほそ道菅菰抄」は、
次のように注釈(筆者の要約)をつけている。少し長いが紹介しておきたい。

「義経追討の事、ある説に言う。

秀衡 病にて将に死なんとするとき、三人の子供に遺言して言うには、

(鎌倉将軍 頼朝の人となりは信用に足りない。
義経を滅ぼし、その上わが所領をも奪おうとする計画を持っているように思う。
けれども、私が存命であるが故に、未だ手を出すことができないでいる。
私が死んだら、必ず義経を討つだろう。
そうなるとお前たちの身にも危険が迫るだろう。
私の死後には、国衡(錦戸太郎)泰衡(伊達次郎)は、
偽って義経の討手となるよう願い出なさい。
忠衡(和泉三郎)は、義経に従って、仮にも討手を防ぎ、
義経、および義経の近臣を皆蝦夷(エゾ)に逃がすように)

と言いつけて、秀衡は死んでしまった。

父親が言った通り、いくらも経たない内に、
鎌倉より義経追討のニュースが聞こえてきた。

秀衡の子供たちは、父の遺命をよく守り、国衡・泰衡は高館を攻め、
忠衡は義経に代わり自殺して焼死し、誰であるか分からなくしてしまった。
また近臣の亀井、片岡、弁慶をも、各人に変えて別人を戦死させ、
義経をこれら近臣者とともに蝦夷へ送ってしまった。
その後、國衡・泰衡も最後には頼朝のためにほろばされた。

義経は中華にわたり列候となり、義行王といった。
(中略)
当時の中華は韃靼人(モンゴル人)の世で、これを清という。
これは義経を祖とする清和源氏の「清」を採り「清(しん)」としている。
今、清朝王の城下の家々には、義経の画像を門柱に貼るという。」とある。

義経の中国大陸への脱出伝説は、この解説書によるところが大きい。
江戸時代の解説書ですから、現代文にするには少々手間取りました。

*「奥の細道菅菰抄(すがこもしょう)」は「奥の細道」の100年後に、
簑笠庵梨一(さりゅうあんりいち)によって書かれたもの。
すぐれた芭蕉研究家で、芭蕉の足跡をほぼ実地に歩き、
奥の細道の解説書を十年かけて完成させた。
和・漢・仏に渡る123部の引用書目を駆使して、
精細で正確な注釈をした。(岩波文庫「おくのほそ道」より)


高館義経堂の階段を下りて、すぐ右折し線路わきを進むと、
「卯の花清水」の石柱と平泉観光協会の説明碑がある。
曽良の読んだ俳句「卯の花・・」の説明碑は見事で紹介しておきたい。

(文治五年うるう四月、高舘落城のとき、主君義経とその妻子の、
悲しい最後を見届け、死力を尽くして奮闘し、
敵将もろとも燃え盛る火炎の中に飛び込んで消え去った
白髪の老臣、兼房、齢六十六。
元禄二年五月、芭蕉が、門人曽良とこの地を訪れ、
「夏草」と「卯の花」の二句を残した。

白く白く卯の花が咲いている、
ああ、老臣兼房奮戦の面影が、ほうふつと目に浮かぶ。
古来、ここに霊水がこんこんと湧き、里人、
いつしか、「卯の花清水」と名付けて愛用してきた。

行きかう旅人よ、この、妙水をくんで、心身を清め、
渇きをいやし、そこ、「卯の花」の句碑の前にたたずんで、
花に涙をそそぎ、しばし興亡夢の跡をしのぼう。
昭和五十年卯月三十日 平泉町観光協会建之)とある。

(卯の花清水)
(卯の花清水の説明碑)

義経堂を出て、東北本線のレールに沿って進み踏切を渡ると、
(中尊寺)の信号に出る。
その信号脇に「弁慶の墓」がある。

(中尊寺の信号)



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