楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

観明寺―板橋平尾宿

2018年02月14日 03時58分00秒 | ひとり歩き旅
(板橋宿のアーケード)

旧中山道 板橋宿のアーケードを過ぎると、
右側に観明寺の石柱と覆屋の中に保護された庚申塔が見えてくる。

(観明寺の石柱と覆屋)


観明寺は真言宗豊山派の寺で、正式には如意輪山観明寺という。
明治六年、当時の住職が街の繁栄祈祷のために、
千葉県成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請しました。
現在も出世不動と呼ばれて親しまれている。
この寺の前の通りの不動堂通りの名は、
このお不動様に由来している。(板橋区教育委員会)

観明寺の石柱脇に覆屋に入った庚申塔がある。

(覆屋の中の庚申塔)


この庚申塔は、わざわざ覆屋があるほどで、
寛文元年(1661)の製造で、
青面金剛像が彫られたものとしては東京都最古のもので、
板橋区の指定有形文化財に指定されています。(板橋区教育委員会)

覆屋の中にカメラを入れて写してみる。

(青面金剛像の上にある右側に「月」と左側に「太陽」がある)

(青面金剛像)

青面金剛像が立っているさらに下には三猿がいるのが解りますでしょうか。

青面金剛像の足元の両脇には2童子を従えて、

(足の下には邪鬼を踏みつけている)


庚申信仰では、庚申の日の夜は寝ないで過ごすので、
「月」の出た夜から日が昇る朝までを現わして「太陽」が刻まれている。
青面金剛像は帝釈天(たいしゃくてん)の使者の金剛童子と言われ、
身体は青色で、手は六本(または二本、四本)、
怒りの形相をとる。
足元に邪鬼を踏まえ、両脇に2童子、4鬼神を従える、
また庚申(かのえさる)の日から三猿も従えるらしいが、
製作者の意向で彫られたり彫られなかったりする。
安直に「庚申塔」の文字だけの場合も多い。

話がそれてしまったが、観明寺の石柱の奥に赤い門が見える。

(赤い山門)


この赤い門は、東大の赤門と並び称されるもので、
東京大学は加賀藩上屋敷にある門で御守殿門と言われ、
奥方の通用門であるが、
ここ板橋宿には加賀藩の下屋敷にこの赤門はあったものとされ、
下屋敷では奥方の通用門であったと思われる。

(六地蔵)

(観明寺の本堂)


先の述べたように成田山新勝寺から分身した不動明王があるため、
出世不動と呼ばれているが、春の花見の頃が解りやすいので、
古い写真と切り絵を載せて置きたい。

(不動明王の本堂)

(観明寺切り絵)


その観明寺を出て隣にある、昔は「〇〇銀行」だった古い建物、
その先の路地を右折する。

(「〇〇銀行」だった古い建物)


(以前はここに「花の湯」と言う古い銭湯があったので、
目印に銭湯の手前を右折と案内出来たが、
今はないのが残念、板橋区ではどこかに移設するという話があるが、
真偽は不明である。
昔撮った写真(2004年撮影)と切り絵をここに載せて置く。)

(花の湯)

(花の湯切り絵)


右折して少し歩くと、近藤勇が留置されていた平尾宿脇本陣 豊田家跡に出る。
現在では脇本陣跡の碑しか残って居ないが、ご近所の方の話によると、
脇本陣は、ここより向こうの道路まであった大きな屋敷で、
座敷の周りは縁側であったと言う。
当時の面影が切り絵に残って居るので乗せて置く。

(豊田家脇本陣の図)

(板橋宿平尾町脇本陣跡の碑)


さて、平尾宿脇本陣跡から路地を出てくると、
道路の向こう側に中山道宿場案内がある。

(つづく)


コメント (6)
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旧中山道板橋宿の平尾宿(東光寺)

2018年02月10日 05時02分26秒 | ひとり歩き旅
さて、近藤勇の墓所を出て東に少し歩くと信号にぶつかる。
この信号の左右が旧中山道で、右が日本橋方向、
左へ行くと東側が板橋宿である。

(墓所から東へ続く道、先に信号がある)

(交差点から見て右側が板橋の平尾宿に)


信号から中山道を見ると右側から板橋区で、
この先にあるJR埼京線の踏切まで左側に北区が続く。
この信号の向こう角に浮世絵にある平尾の一里塚があった。

(右側平尾の一里塚の浮世絵)


(旧中山道 この右手に一里塚はあった)

(JR埼京線の踏切)

(赤羽線中仙道踏切)


ご覧のようにJR埼京線踏切でなく、赤羽線中仙道踏切になって居るのは、
当初、この線路が山手線池袋駅と東北本線赤羽駅を結ぶ線路であったので赤羽線と言った。
埼京線は、赤羽駅から先が埼玉につながるようになってからの名前だ。

踏切の先は両側とも板橋区で、
踏切を渡り終えた左手が板橋駅(西口)である。

(ロータリーの奥に板橋駅西口が見える)


駅前は東口と同じようにロータリーになって居り、
西口には提灯ならぬ三本のケヤキが植えられていて、
「結びのケヤキ」と名付けられている。
また、三本のケヤキは、
板橋宿の平尾宿ー仲宿ー上宿の3宿を現わしていると言う。

(むすびのけやきの提灯)


この先旧中山道は商店街になって居り、平尾宿の旗がひらめいている。
実は、平尾宿の平尾と言う名前は、
この先で旧中山道が国道17号線と交わる手前にある交番にしか残って居ない。

(平尾宿の旗がある商店街)

(平尾宿の旗)

(旧中山道が国道17号との交差点が先に見える)

(交差点手前に残る板橋警察平尾交番)


国道17号の現在の中山道を交番前で信号を渡る。
渡った先が板橋宿の旧中山道のアーケードが待っているが、
そこを通る前に、信号を渡ってレストラン脇の狭い道路を直進する。
右手に瀟洒なお寺さんが見える。
丹仙山薬王樹院東光寺(たんせんざんやくおうじゅいんとうこうじ)と言う。

(交差点を渡った先にある板橋宿の門)

(瀟洒なお寺さん)

(東光寺門前)


東光寺は、加賀藩前田家の下屋敷が板橋移転に伴って、
現在地に移転してきました。
移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町家が並び、
賑やかであったようですが、明治初期の大火や関東大震災、
太平洋戦争など火災を経て、区画整理が進み現在では、
往時の姿を伺うことが出来ません。
境内には板橋区の有形文化財にして登録された寛文二年(1662)の
庚申塔石造地蔵菩薩坐像、明治になって子孫が供養のために建立した
宇喜多秀家の墓などがあります。(板橋区教育委員会)
(寛文二年の傘付の庚申塔)

(石造り地蔵菩薩坐像)

(宇喜多秀家の墓)


宇喜多秀家の供養塔がどうして東京都板橋区にあるかと言うと、
宇喜多秀家はもともと備前岡山城主であった。
成人して加賀藩前田家の娘と結ばれたが、
関ヶ原の戦いで西軍について敗れ、八丈島に遠島となる。

加賀藩前田家の上屋敷は今の東京大学、
中屋敷は現在の六義園からJR巣鴨駅にまたがる地にあったが、
これを返納して、板橋宿に約22万坪(東京ドーム15個分の広さ)の下屋敷を拝領し、
板橋宿に加賀藩前田家の下屋敷が移転して来た。

(板橋区内の加賀藩下屋敷図)


加賀藩前田家では、娘の夫 宇喜多秀家が遠島になった八丈島に、
米など食料品を長年送っていたが、秀家は八丈島で83歳で没する。

明治になって恩赦により前田家一族は江戸に戻り、
秀家と妻との関連で加賀藩前田家下屋敷内の一部を与えられ、
農業に携わったが気候が合わず八丈島へ戻ってしまったが、
宇喜多秀家の墓は東光寺に残された。

東光寺を出て、旧中山道を進みます。

(板橋宿のアーケード)


すぐ板橋宿のアーケードがあり、左側に今はりそな銀行があるが、
昔はここが追分であり、右に中山道、左は川越街道に分かれて行った。
そしてこの分かれ道の真ん中に、東光寺の石造り地蔵菩薩坐像があったと言われる。
また、りそな銀行の所に旧板橋警察署があった。

(旧板橋警察署の当時の模様を切り絵で)

この切り絵で見るように、
旧板橋警察署は右に中山道左に川越街道に挟まれているのが解る。
右旧中山道を進むと右手に観明寺の門柱と
覆屋の中にある庚申塔が見えてくる。

(To be cotinued)




コメント (8)
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庚申信仰のいわれ

2018年02月07日 13時25分00秒 | つれづれなるままに考えること
(庚申塔)


庚申塔について、お話をしたいと思います。
庚申とは干支の組み合わせで、甲乙丙丁戊己庚・・・の十干と、
子丑寅辰己午未申・・・の十二支の組み合わせで、
昔は年月日を干支で現わしていた。
阪神球場の甲子園は甲子(きのえね)の年に当たる大正十三年に完成したので、
甲子園と呼ばれる。

話がそれてしまったが、
庚申信仰は道教の教えで、
平安時代には貴族階級の間で信仰されたが、
江戸時代になって庶民の間でにまで広がり、
庚申(かのえさる、こうしん)の日には、
人の体内に居る三尸(さんし)の虫が、
夜中に本人が眠っている間に体内から抜け出して、
その人の悪行を天帝に告げ口をする。
天帝はその告げ口により、人の寿命を短くすることが信じられていた。

それならば、夜寝ないでいれば、三尸の虫が体内から抜け出さない、
と言うことで、
平安時代には詩歌管弦で夜を明かしたが、
江戸時代になり、庚申の日には庶民の間では、
飲食物を持ち寄り、どんちゃん騒ぎをして夜を明かした。

この信仰が神仏に結びつき、庚申塔を建て、その周りに集まり夜明かしをした。
庚申塔に刻まれた像は仏教のお寺では青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)、
神道の神社では猿田彦神像が刻まれている。

村はずれや宿場の端にこの庚申塔が建てられたが、
明治になって庚申信仰は迷信であるとされ放置された。
コメント (7)
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新選組局長 近藤勇の墓所

2018年02月03日 04時22分01秒 | ひとり歩き旅
新選組局長だった近藤勇は、
千葉県流山で捕獲され板橋の平尾宿脇本陣 豊田家に留置され、
政府軍の大本営があった伊勢孫(200人が宿泊できた板橋宿の旅籠)で、
取り調べを受けたのち板橋の刑場で処刑された。
その刑場は板橋 平尾の一里塚の近くにあったとされるが、
場所は特定されていない。

もっとも、板橋の刑場も、小塚原の刑場も、鈴ヶ森の刑場など、
どの刑場も昔は村はずれの辺鄙な荒野であったように思われる。

今はJR埼京線、昔は赤羽線 板橋駅の(東口)は、
別名で(滝野川口)と言っているように、出てきた改札は板橋駅でも、
地図の上では東京都北区滝野川である。
板橋区はこのお墓の前の通りを東に向かって突き当った所から始まる。

(板橋駅滝野川口)


駅前のロータリーの向こう側にある近藤勇の墓所の看板の裏には、
寿徳寺とあるが寿徳寺の境外墓地で住所は北区。
さらに、余談ですが、線路に沿って西に下がると豊島区になり、
3区が重なる所でもある。

(寿徳寺)


前置きはそれくらいにして、

墓地に入ると正面に「近藤勇 土方歳三」の供養塔が目に入る。
左に眼を移すと、「永倉新八」の立派な墓が見える。
北海道まで転戦して生き残った永倉新八が
「近藤勇と土方歳三」の供養塔を建設した。

(正面の近藤勇、土方歳三の供養塔)

(新選組 永倉新八墓)


右手を見ると近藤勇、土方歳三、永倉新八の顔が並んでいる。

(新選組を代表する三人)


近藤勇の供養塔右横に近藤勇像が置かれており、
この像の後ろに処刑直後に置かれた最初の近藤勇の墓石が置かれている。

(近藤勇像)

(処刑後の最初の墓石)


新選組局長の近藤勇の処刑は、出自が農民であったことから、
武士としての切腹は許されず、斬首の刑に処せられた。
切り落とした首は塩漬けにされて京に送られ首実験の後、
京都三条河原でさらし首になった。

近藤勇の胴体は、その日の内に親族に依って運び出され、
三鷹市の龍源寺に埋葬された。

と言うことは、この墓石の下には勇の身体は何処にもなく、
斬首された時に流れた勇の血だけがしみ込んでいることになる。

近藤勇と土方歳三の供養塔であるが、
正面には「近藤勇 冝昌、土方歳三義豊 之墓」とあり、
左右側面には百十名の新選組隊士の名が刻まれ、
裏面には「近藤明治元年辰四月二十五日 土方明治二年己五月十一日」
と命日が記されていたが、現在は読みにくくなって居る。

(供養塔正面)

(供養塔裏面)

(冝昌の諱)


ここで近藤勇 冝昌と刻まれているが、
勇(=通称名)の諱(いみな=実名)は昌冝であった。
どうしてこのようになったかは不明とのこと。(北区教育委員会)

新選組諸隊士供養祭は毎年、近藤勇命日、四月二十五日に近い日曜日に行われる。
2018年の供養祭は四月二十二日に行われる予定。

さて、このお墓を出て東に少し歩くと信号にぶつかる。
この信号の左右が旧中山道で、板橋区はここから始まる。


コメント (9)
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