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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

「万葉の旅」をたどる ⑦ 檜隈大内陵(野口王墓古墳)

2015-12-30 01:57:17 | 文学をたどる
飛鳥駅から国営飛鳥公園の前を横切って、橘寺、川原寺へ向かう途中の右手の丘の上にこんもりとした森が見えてくる。天武天皇と持統天皇を埋葬したとされる古墳である。一般には野口王墓古墳と呼ばれており、また宮内庁により、天武・持統天皇檜隈大内陵として治定されている。宮内庁が治定している天皇陵の中で数少ない被葬者が確実な天皇陵だとして知られている。

 

 天武天皇と持統天皇については、日本の古代国家の成立に重要な役割を果たしており、天皇という称号も、天武天皇の時代にできたと考えられている。そして文化史上の区分である白鳳文化もこの二人の天皇の御代に花が咲いたのである。そして、この野口王墓古墳にはついては、鎌倉時代の記録である「阿不幾乃山陵記」に内部の記録があり、古墳の中のある横穴式石室の中には、格狭間の金銅製の棺台があり、その上には夾紵棺が乗せられており、またその横には金銅製の桶(蔵骨器か?)が置かれていたと記されている。日本書紀等の記録によれば、持統天皇は死後天皇として初めて火葬に付されたという記録もあり、おそらく天武天皇は土葬であったろうから、古墳の中の状況と一致していることになる。

 古墳の規模は、東西径38m、南北径45m、高さ9mとされるが、先の「阿不幾乃山陵記」では、八角形墳で5段築造であると記載されている。一般的には、同じ飛鳥にある中尾山古墳などと同様に八角形墳であるとされている。
 樹々の間から見える墳形は、急な傾斜になっていて、塚というよりは塔のようにも見える。

 

 ちなみに、この古墳が天武、持統天皇の合葬陵であると治定される前は、見瀬丸山古墳が天武、持統天皇の合葬陵として治定されていた。見瀬丸山古墳も、横穴式石室に合葬されているのだがともに家型石棺に埋葬されておるので、日本書紀などの記述とは一致していないことになる。

 

 「万葉の旅」では、檜隈大内陵という題のもと、持統天皇の歌を取り上げている。

 やすみしし 我が大君の 夕さされば 見したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岡の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見したまわし その山を 振りさけ見つつ 夕されば あやにかなしみ 明け来れば うらさび暮らし あらたへの 衣の袖は 乾(ふ)る時もなし
              ― 持統天皇 ―

 天武天皇の崩御の時、殯宮で持統天皇が詠んだ歌であると伝えられる。
 持統天皇の天武天皇への思慕の想いを切々と歌い上げた歌である。天武天皇と持統天皇の間には、細やかな愛情の交歓があったのであろう。

 

 そして、この天武・持統天皇の二人が眠るこの古墳は、天皇陵として治定されている古墳の中でも、古墳のある風景が、非常に美しい。僕の中では№1である。丘陵の一部を整地して造られており、周囲をゆったりと見渡せる位置にあり、周りも開発があまりなされていず、田んぼや柿の木やミカンの木があり、稲が実る時、それらの樹々に実がつける時が、日本らしい風景を見せる。この風景だけは、「万葉の旅」が書かれたときとそう変わっていないように思える。陵前の道は、幾分か拡張されているはずである。

 

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