休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

二条天皇陵

2014-05-06 12:43:22 | 史跡を歩く
 GW後半、大学で集まりがあり、せっかくの機会なので、学生時代にはまだなかったJR円町駅からぶらぶらと大学へ向かって歩くことにした。
 西大路通、一本中の通をぶらぶら歩いて行くと、嵐電と呼ばれる京福電鉄の線路に出くわす。踏切を渡って線路側に歩くと、住宅の間に塚が見える。近寄ってみると堀河天皇火葬塚と書かれている宮内庁のおなじみの標識を見つける。
 
 

 堀河天皇とは、白河天皇がこの天皇に天皇の位を譲って、上皇となり政務を掌握したことにより院政が始まった。おそらくその始まりの動機は、白河天皇が、皇位を自分の皇統に継がせるために行ったことなのだろうが、結果として院政という新しい政治の形式を産み出したことになる。そして、このことが長年続いた摂関政治を終焉に導くことになった。

 堀河天皇については、白河上皇の圧倒的な個性の前に、全く影の薄い存在であり、天皇に在位のままで、1107年、29歳で亡くなっている。その後、皇統は、息子の鳥羽天皇に引き継がれることになり、院政も鳥羽上皇として白河上皇から引き継ぐことになる。

 ちなみに、堀河天皇の陵墓は、龍安寺の裏山に、後圓教寺陵として治定されている。

 

 火葬塚とは、火葬を行った場所を記念して塚などを築いたものであり、天皇やその近親者のみができるものなのだそうだ。京都市内をぶらぶら歩いていると住宅街の中にときどき見かけることがある。

 せっかくなので、友人の下宿などがあったところなどを見て回っているうちに、今度は、二条天皇陵香隆寺陵を、衣笠の高級住宅街の中にポツンとあるのを見つけた。

 

 二条天皇というのは、後白河天皇の後を継いだ天皇であり、この天皇が、美福門院の猶子になっていなかったら、大天狗と呼ばれた後白河法皇は誕生していなかったかもしれない。
 最近では、平治の乱は、後白河法皇の院政派と二条天皇の親政派の対立が引き起こしたものと言われている。二条天皇も結局、後白河法皇の圧倒的な個性のもと影の薄い存在であり、在位7年、1166年に23歳で亡くなっている。しかしながら、日本史としては、平氏が台頭するなどターニングポイントではあった。

 ともに、堀河天皇、二条天皇とも、圧倒的な父親の個性のもと、早逝した天皇という共通点があったりして、その廻りあわせに対し、少し不思議な気持ちがしたりする。

 この二条天皇陵については、平家物語の中で「額打論」と言われる話の中に出てくる。この辺りに葬られたのは事実なようである。昔、来た時、陵の中に天井石というか石塔の土台らしきものが見えていた気がするのだが・・・。今回は、木々がうっそうと茂り、全くわからなかった。覗き込んでいると、近くでサッカーの練習をしている少年から不審な人物に思われそうだったのでやめた。

 

 その後、懐かしの母校へ。いつの間にかグラウンドがなくなり、校舎が建っていた。時代は流れているのである。

 

 

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