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20日、奈良にある郡山城で天守台の発掘調査に伴う現地説明会が開かれた。
最近、現地説明会に参加するのも面白いなあと思い始め、機会があれば行ってやろうと思っていたところ、うまい具合に網にかかったのがこの説明会である。ネット社会さまさまで、こういう情報を最近、自治体がちゃんとHPに載せるようになったので、開催情報が手に入れやすくなったなあ改めて思う。ありがたいことである。自治体関係者として、情報提供の大切さを肝に銘じるところである。
当日、今にも雨が降りそうな中、お昼すぎに会場に行ってみると、すでに大勢の人が集まって説明を聞いていた。なんでも前日には、約700人を超える人が集まったそうだ。
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私も一緒に説明を受ける。郡山城は、はじめ1580年、筒井順慶が築城し、入城する。しかし、わずか4年後1584年に筒井順慶が死去。その後定次が家督を継ぐも、翌年1585年に国替えとなり、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が入封。郡山城の骨格は、この豊臣秀長は整えたと考えられる。
実際に、今回の発掘調査にあたって、豊臣期大坂城と同笵と考えられる軒丸瓦や聚楽第に類例のある軒平瓦などが出土している。
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また、金箔が張られた丸瓦も出土していたことから、天守台の上に建てられた建物は、金箔が使用されていたと考えられる。大坂城や伏見城などと同様に豊臣系の城郭の特徴を示しているのであろう。それだけ郡山城が重視されていたということが言えるのかもしれない。
城郭自体かなり短期間(豊臣秀長は、1591年1月に亡くなっている。)で造られたものであるため、いろいろなところから石材を集めたようで、ところどころに、墓石やその石仏の台座らしきもの、あるいは寺社の礎石らしきものが石組みの中に見て取れる。
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その中には、平城京の羅城門の礎石であると伝えられるものや石仏がそのままに使われているものもある。
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色が赤茶けている石が、羅城門から持ってきた石だという。上下がさかさまになっている。
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写真は、天守台の石垣にある逆さ地蔵である。郡山城の石垣は、野面積みという工法で作られており、自然石を加工することなくそのまま積み上げている。しかし、8.5mもの高さに積み上げたよなあと当時のことを考えるとすごいもんだなあとちょっと感動を覚えてしまう。
市役所の方の名調子による解説も聞いたところで、いよいよ天守台に登ることになるのだが、場所が狭いため、10名づつのグループ単位で登っていくことになる。
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石段は、かなり足場が悪く、登ることを断念される方もいたが、間近で石垣を見ると威圧感というかその迫力にびっくり。
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途中石垣に沿って90度に折れ曲がる。この石段は、天守台の建築当初にはなく、明治になってから新たに造られたものであるらしい。石段の眼下には付櫓台が見ることができる。
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付櫓については、天守閣に付属する施設であり、説明によれば、付櫓と天守閣はつながっており、それ以外に直接外部からの出入り口はないのだそうだ。また付櫓についても、地下からの出入り口が発掘されていることから(写真の左上)、ここから外に出入りをしていたのではないかとのこと。当時の御殿が現在の柳沢神社が建てられている場所にあったとすれば、御殿、付櫓、天守閣がつながっていたと考えられそうである。
そして、いよいよ天守台にあがることになる。
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左手に入り口の遺構がある。ここにも転用石が使われており、梵字が書かれたような石を見ることができる。ここで付櫓と連結していたとのこと。
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そして、天守台である。東西に3列礎石が並んでいるのがわかる。また、注意深くみると、南北にも2列礎石が並んでいるようである。中央に南北2室に間仕切りされた柱間3×4間の身舎があり、その周りを2間幅で通路状に武者走が廻っている構造が想定されている。石垣の一杯まで建物の壁があった考えられている。ちなみに、建物の母屋にあたる主体部分のことを身舎といい、その外側の廊下にあたる部分を武者走というのだそうだ。
礎石がかなり大きくてしっかりしていることからかなり高い建物が建っていたと考えられるそうで、言い伝えにある5階の天守閣が建っていたということもあながちウソではないようである。郡山城の天守閣、そのことを示した文献も少ないため、実際にあったのかどうかもわからなかったらしい。
この天守台は、建物の廃絶後に人為的に埋められたのだそうだ。
そして、今後は、改めて、引き続き整備事業が行われることから、今回発掘された遺構は埋め戻されることになるとのこと。整備事業と言っても、よくある改めて天守閣を復元して建てるということはなく、石垣を補修して、安心して登れるようにするのが整備の目的ということである。
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説明会の後、柳沢文庫のある毘沙門曲輪から天守台の写真を撮ってみた。これはこれで、陳腐な言い回しだけれど天空の城みたいでかっこよい風景だった。
帰りに昭和の後半になって復元された追手門や追手櫓を通った。
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そのあたりにかつては、武家屋敷などもあったんだろうかなどと、昔に想いを馳せながら帰ることにした。
最近、現地説明会に参加するのも面白いなあと思い始め、機会があれば行ってやろうと思っていたところ、うまい具合に網にかかったのがこの説明会である。ネット社会さまさまで、こういう情報を最近、自治体がちゃんとHPに載せるようになったので、開催情報が手に入れやすくなったなあ改めて思う。ありがたいことである。自治体関係者として、情報提供の大切さを肝に銘じるところである。
当日、今にも雨が降りそうな中、お昼すぎに会場に行ってみると、すでに大勢の人が集まって説明を聞いていた。なんでも前日には、約700人を超える人が集まったそうだ。
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私も一緒に説明を受ける。郡山城は、はじめ1580年、筒井順慶が築城し、入城する。しかし、わずか4年後1584年に筒井順慶が死去。その後定次が家督を継ぐも、翌年1585年に国替えとなり、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が入封。郡山城の骨格は、この豊臣秀長は整えたと考えられる。
実際に、今回の発掘調査にあたって、豊臣期大坂城と同笵と考えられる軒丸瓦や聚楽第に類例のある軒平瓦などが出土している。
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また、金箔が張られた丸瓦も出土していたことから、天守台の上に建てられた建物は、金箔が使用されていたと考えられる。大坂城や伏見城などと同様に豊臣系の城郭の特徴を示しているのであろう。それだけ郡山城が重視されていたということが言えるのかもしれない。
城郭自体かなり短期間(豊臣秀長は、1591年1月に亡くなっている。)で造られたものであるため、いろいろなところから石材を集めたようで、ところどころに、墓石やその石仏の台座らしきもの、あるいは寺社の礎石らしきものが石組みの中に見て取れる。
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その中には、平城京の羅城門の礎石であると伝えられるものや石仏がそのままに使われているものもある。
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色が赤茶けている石が、羅城門から持ってきた石だという。上下がさかさまになっている。
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写真は、天守台の石垣にある逆さ地蔵である。郡山城の石垣は、野面積みという工法で作られており、自然石を加工することなくそのまま積み上げている。しかし、8.5mもの高さに積み上げたよなあと当時のことを考えるとすごいもんだなあとちょっと感動を覚えてしまう。
市役所の方の名調子による解説も聞いたところで、いよいよ天守台に登ることになるのだが、場所が狭いため、10名づつのグループ単位で登っていくことになる。
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石段は、かなり足場が悪く、登ることを断念される方もいたが、間近で石垣を見ると威圧感というかその迫力にびっくり。
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途中石垣に沿って90度に折れ曲がる。この石段は、天守台の建築当初にはなく、明治になってから新たに造られたものであるらしい。石段の眼下には付櫓台が見ることができる。
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付櫓については、天守閣に付属する施設であり、説明によれば、付櫓と天守閣はつながっており、それ以外に直接外部からの出入り口はないのだそうだ。また付櫓についても、地下からの出入り口が発掘されていることから(写真の左上)、ここから外に出入りをしていたのではないかとのこと。当時の御殿が現在の柳沢神社が建てられている場所にあったとすれば、御殿、付櫓、天守閣がつながっていたと考えられそうである。
そして、いよいよ天守台にあがることになる。
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左手に入り口の遺構がある。ここにも転用石が使われており、梵字が書かれたような石を見ることができる。ここで付櫓と連結していたとのこと。
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そして、天守台である。東西に3列礎石が並んでいるのがわかる。また、注意深くみると、南北にも2列礎石が並んでいるようである。中央に南北2室に間仕切りされた柱間3×4間の身舎があり、その周りを2間幅で通路状に武者走が廻っている構造が想定されている。石垣の一杯まで建物の壁があった考えられている。ちなみに、建物の母屋にあたる主体部分のことを身舎といい、その外側の廊下にあたる部分を武者走というのだそうだ。
礎石がかなり大きくてしっかりしていることからかなり高い建物が建っていたと考えられるそうで、言い伝えにある5階の天守閣が建っていたということもあながちウソではないようである。郡山城の天守閣、そのことを示した文献も少ないため、実際にあったのかどうかもわからなかったらしい。
この天守台は、建物の廃絶後に人為的に埋められたのだそうだ。
そして、今後は、改めて、引き続き整備事業が行われることから、今回発掘された遺構は埋め戻されることになるとのこと。整備事業と言っても、よくある改めて天守閣を復元して建てるということはなく、石垣を補修して、安心して登れるようにするのが整備の目的ということである。
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説明会の後、柳沢文庫のある毘沙門曲輪から天守台の写真を撮ってみた。これはこれで、陳腐な言い回しだけれど天空の城みたいでかっこよい風景だった。
帰りに昭和の後半になって復元された追手門や追手櫓を通った。
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そのあたりにかつては、武家屋敷などもあったんだろうかなどと、昔に想いを馳せながら帰ることにした。
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