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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

叡福寺と聖徳太子御廟

2012-11-13 00:59:11 | 史跡を歩く
 先日、車を買い替えたので、初ドライブということで、太子町にある叡福寺と聖徳太子御廟へ行った。

 叡福寺については、寺伝によると聖徳太子(厩戸皇子)のお墓を守るため、推古天皇が土地建物を寄進したのが始まりとされる。その後、聖武天皇により、叡福寺として整備されたといわれるが、実際は平安時代まで下るのではないかといわれている。

 


 境内にある多宝塔は、江戸時代初期に建てられたものであり、国の重要文化財に指定されている。

 そして、このお寺の裏山に聖徳太子御廟といわれる叡福寺北古墳がある。
 
 


 古墳は、直径55mの円墳といわれており、横穴式石室を持ち、内部に3つの棺があり、中央の石棺には、聖徳太子の母、穴穂部間人皇后が、そして左右の乾漆棺には、聖徳太子本人とその妃膳部菩岐々美郎女が葬られているとされており、明治時代までは自由に見ることができたが、今はコンクリートで塗り固められていて見ることはできないそうである。

 


 写真のように、覆屋が建てられている。

 また、その周囲を、ぐるりと結界石と呼ばれる石をならべて、2重に囲んでいる。奥が弘法大師建てたものとして伝えられ、手前が江戸時代のものとのこと。奥の方は、摩滅して文字を読み取ることが難しくなっている。

 

 
 


 また、その東側には、後嵯峨天皇の中宮姞子の分骨所があったりします。

 


 鎌倉時代後期の人なので、そのころには信仰の対象になっていたことが伺われる。
 
 ただし、この叡福寺北古墳については、近年、宮内庁書陵部の調査により、55mよりも小さいのではないかともいわれている。

 この古墳については、従来、ほぼ埋葬者が確実な古墳といわれていたのだが、これもかなり揺らいでいる。
 確かに、叡福寺の創建が、飛鳥時代をかなり下回ると思われること。また古墳の形態から考えると、このころの蘇我氏と関係のある主要な大王墓は、方墳であると言われている。そうすると、この古墳が円墳であることは、違和感を感じる。さらに、この時代は、石棺に埋葬されるのが、通常であると考えられるが、聖徳太子とその妃は乾漆棺に葬られており、聖徳太子が生きていた時代と合わないことなどをあわせると、僕自身は、確実に聖徳太子のお墓と考えるのは疑問を持っている。

 とはいうものの、叡福寺は、鎌倉時代には、聖徳太子信仰の中心のお寺にはなっていたのであろう。そういえば、八尾市にある大聖勝軍寺も鎌倉時代の創建をさかのぼるものではないとされる。
 鎌倉時代というのが、聖徳太子信仰のひとつのピークだったのかもしれない。

 信仰といえば、叡福寺の前の道を挟んで、西方院という小さなお寺が建っている。そこには、聖徳太子の乳母で、聖徳太子の死後出家した3人のお墓と伝えられるものがある。

 


 お墓は覆屋の中に、建っており、これも聖徳太子への信仰を感じさせる。近くには蘇我馬子のお墓と伝えられる塔もあるらしい。

 


 叡福寺から西方院へ向かう道にある石橋。なんとはなしに趣がある。 
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