飛鳥坐神社がある丘の西南部の平坦地に小さい、いわゆるポケットパークがあるのだが、そのポケットパークを横断する溝の横に飛鳥東垣内遺跡と書かれた小さな看板がある。ここで、7世紀中ごろまでさかのぼる運搬用と考えられる幅10メートルもある運河の跡が見つかっている。周辺でも飛鳥池遺跡の東側でも同様に南北に繋がる溝が検出されており、また、奥山久米寺跡の周辺でも同様に溝の跡が発掘されている。これらの溝は、一本につながっており、最終的には、酒船石遺跡に繋がっていくと想像されている。
77世紀中盤で、運河的なものと考えると、斉明天皇の時代に狂心渠と呼ばれる運河を香具山の西から石上山まで開削し、石上山から船を200艘浮かべて、石を運び、宮の東の山まで石を重ねて垣としたという記述が日本書紀にあり、時代、場所が重なることから、この狂心渠と名づけられた運河にあたるのではないかと考えられている。
現地の写真で見るとちょうど東屋が建てられている辺りにあったような感じである。
この東垣内遺跡のすぐ横には飛鳥坐神社があり、古くの由緒ある神社である。折口信夫の祖父がこの神社の宮司から出ていると思う。
また、すぐ横の道は、大原の里に続く道である。
ちょっとしたところにも遺跡があるのが飛鳥なんだなあ。
でも、少し前までは、斉明天皇の狂心渠の記述も伝説の域を出ないと考えられていたと思うけど、いろいろなことが発掘調査などで見つかって、歴史がどんどん書き換えられていくことを実感する。今日この頃である。
77世紀中盤で、運河的なものと考えると、斉明天皇の時代に狂心渠と呼ばれる運河を香具山の西から石上山まで開削し、石上山から船を200艘浮かべて、石を運び、宮の東の山まで石を重ねて垣としたという記述が日本書紀にあり、時代、場所が重なることから、この狂心渠と名づけられた運河にあたるのではないかと考えられている。
現地の写真で見るとちょうど東屋が建てられている辺りにあったような感じである。
この東垣内遺跡のすぐ横には飛鳥坐神社があり、古くの由緒ある神社である。折口信夫の祖父がこの神社の宮司から出ていると思う。
また、すぐ横の道は、大原の里に続く道である。
ちょっとしたところにも遺跡があるのが飛鳥なんだなあ。
でも、少し前までは、斉明天皇の狂心渠の記述も伝説の域を出ないと考えられていたと思うけど、いろいろなことが発掘調査などで見つかって、歴史がどんどん書き換えられていくことを実感する。今日この頃である。
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