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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

奈良のきたまち散歩④ ~五刧院・空海寺・東大寺転害門~

2020-01-01 02:23:55 | 史跡を歩く

 今在家のバス停から、少し東へ入っていくと五刧院という小さな華厳宗のお寺がある。このお寺は、鎌倉時代東大寺の再興に尽力を尽くした重源が開基。ご本尊は、五刧思惟阿弥陀仏坐像である。五刧思惟阿弥陀というのは、あまり聞きなれないが、阿弥陀仏がまだ、宝蔵菩薩であったころ、人々を救おうと菩薩行に励み、五刧という非常に長い期間、修行をされ、ついに菩薩から阿弥陀如来になられたときの姿を表現しているものである。ちなみに一刧という時間は、43億2千万年だそうです。気の遠くなるような時間である。残念なことに五刧院のご本尊は、予約しないと見れないので、この日は見ることができなかった。五刧思惟阿弥陀仏というとアフロヘアをしたユーモラスな造形をしている仏様で、金戒光明寺の石像が有名である。

 

 境内には、「見返り地蔵」「朝日地蔵」と呼ばれる石仏がある。

 

 よく見ると、右のお地蔵さんは、少し後ろを振り返っている姿をしておられる。後ろを振り返りながら、人々を置き去りにしていないか気にしているお姿なんだそうだ。

 この奥に墓地があり、奥に、江戸時代、東大寺の大仏殿の再興に尽力した公慶上人の立派なお墓が残っている。

 

 公慶は、1705(宝永2)年、江戸で客死し、奈良まで遺骸が運ばれて、この五刧院に埋葬されたそうだ。この五刧院の本堂の横には、万葉歌人山上憶良の歌碑がある。

 

 歌碑には、「水沫なす もろき命も 栲縄の 千尋にもがと 願い暮らしつ」と刻まれている。はかない命ではあるが、楮の縄のように長いものであってほしいということを願っている歌である。山上憶良は、正確な没年はわからないが、当時としては長命な70余歳で生涯を終えている。万葉歌人としては、社会的な問題に目を向けた稀有な歌人として存在感を示している。

 

 五刧院を出て、東へ少し行くと、もう東大寺の裏山というべきところであり、観光客の姿をほとんど見ることがない。本当に静かな佇まいである。

 そんなこんなで空海寺という小さなお寺を見つけた。名称の如く弘法大師空海が開いたお寺で、現在は東大寺の末寺になっている。門前に、平城宮の保存活動に尽力した楠田嘉十郎氏のお墓がある。どうした因縁でここにお墓があるのかはわからないけれど、楠田氏が私財を投げうって、平城宮の保存を実現してくれたおかげで、我々は、平城宮の発掘調査などを楽しむことができるのである。合掌。

 

 小さい境内の本堂には、本尊地蔵菩薩石像が安置されており、秘仏とされており、普段は目にすることができない。ただ、伝わるところでは、空海が、この地に草庵を営み、地蔵菩薩の石像を自ら刻んだのだという。

 また、本堂の前には、矢田寺から移設された矢田地蔵がある。

 

 境内の奥には、東大寺の歴代の僧侶のお墓がある。

 

 空海寺からは、正倉院の裏を通って、東大寺の中で奈良時代の建築物として、現存している転害門へ向かう。

 途中、講堂が、素晴らしく立派な奈良市立鼓阪小学校があり、校門の前を鹿が悠々と歩いていた。ちなみに鼓阪小学校は、明石家さんまさんの母校だそうである。

 

 東大寺の転害門は、一条大路と東京極大路の交差点にある門で、現在、国宝に指定されている。本瓦葺き、三間一戸の八脚門である。

 転害門は、東大寺の鎮守、手向山八幡宮の御旅所になっていて、門の基壇中央に、神輿を置くための石が四つある。しかし、転害門という不思議な名称がなぜついたかについては、縁起の良い場所にあり、害を転ずることに由来すると言ったものや行基が菩提僧正を手招きした時の手のしぐさがてで掻いているようにみえるからなど諸説あり、結局のところ分からないようだ。

 

 平景清が、源頼朝を打つためにこの門に潜んでいたという逸話から景清門という名称もある。

 この門については、何回も取り上げている気がするのでこの辺にしておくが、本当に姿がよく、千年の古さを感じさせてくれる建築物である。

 この後は、近くの子規の庭などを見学して、帰路に就くことにしよう。

 

 


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