法隆寺へ、西里の集落の中を通って、法隆寺の門としては比較的小さな西門から入る。西里の集落は、通る人もあまり居ない落ち着いた街並みである。この集落は、法隆寺の作事にかかわる大工さんたちが住んでいた所だという。古めかしい土塀が続く街並みは、いつ通ってもいいなあと思う。非常に奈良を感じさせてくれる場所でもある。
ここから、法隆寺の五重塔も仰ぎ見ることができる。日常の生活の中に五重塔が溶け込んでいるような気がする。
西里の集落を抜けると、法隆寺の西門がこじんまりと建っている。西門から入ると、道の両側に白い法隆寺の子院や塔頭の築地塀が続く、しばらく歩くと左手に、三経院・西室と呼ばれる鎌倉時代の建物が建っている。非常に奥行きのある建物で、もともとは僧坊として建てられたものであったようだ。三経は、法華経、維摩経、勝鬘経のこと。聖徳太子が残したと言われる三経義疏にちなんだものなのだろうか。この日は、真っ赤に色づいた紅葉が映えて美しく見える。
ちなみに、西院伽藍を挟んで、東側には、聖霊院・東室と呼ばれる同じように南北に長い建物が建っている。やはり聖徳太子にちなんだものである。
件の會津八一の歌碑はというと、真っ赤に色づいた紅葉の横にひっそりと建っている。歌碑には、「ちとせ あまり みたび めぐれる ももとせを ひとひ の ごとく たてる このたふ」と刻まれている。
歌の意味は、法隆寺の五重塔が建てられてから、千年に余ること三百年という長い年月を経ているが、まるで一日のことであるかのように五重塔が建っているという意味だろうか。五重塔の姿が美しいまま、朽ち果てる様子もなくすっと建っている様子が浮かんでくるような歌である。
歌碑のある位置からも、五重塔を望むことができるのだが、境内の樹木の枝にさえぎられて、上手く写真に撮ることができなかった。
法隆寺の五重塔は、飛鳥時代の様式を今に伝えている日本最古の木造建築物の一つであり、国宝に指定されている。會津八一が、この地を訪れた時は、聖徳太子の千三百年忌で盛り上がっていた時期のこと。大正10年(1921)のことだから、もう百年近くの時が経っているのである。その時は、樹木の枝ももう少し短かったかもしれないなあ。
法隆寺には、近年、夢殿にも近隣の住宅から移築された會津八一の歌碑があるのだが、この日は、他に行きたいところがあったのでスルー。また、後日チャレンジすることにしよう。
ここから、法隆寺の五重塔も仰ぎ見ることができる。日常の生活の中に五重塔が溶け込んでいるような気がする。
西里の集落を抜けると、法隆寺の西門がこじんまりと建っている。西門から入ると、道の両側に白い法隆寺の子院や塔頭の築地塀が続く、しばらく歩くと左手に、三経院・西室と呼ばれる鎌倉時代の建物が建っている。非常に奥行きのある建物で、もともとは僧坊として建てられたものであったようだ。三経は、法華経、維摩経、勝鬘経のこと。聖徳太子が残したと言われる三経義疏にちなんだものなのだろうか。この日は、真っ赤に色づいた紅葉が映えて美しく見える。
ちなみに、西院伽藍を挟んで、東側には、聖霊院・東室と呼ばれる同じように南北に長い建物が建っている。やはり聖徳太子にちなんだものである。
件の會津八一の歌碑はというと、真っ赤に色づいた紅葉の横にひっそりと建っている。歌碑には、「ちとせ あまり みたび めぐれる ももとせを ひとひ の ごとく たてる このたふ」と刻まれている。
歌の意味は、法隆寺の五重塔が建てられてから、千年に余ること三百年という長い年月を経ているが、まるで一日のことであるかのように五重塔が建っているという意味だろうか。五重塔の姿が美しいまま、朽ち果てる様子もなくすっと建っている様子が浮かんでくるような歌である。
歌碑のある位置からも、五重塔を望むことができるのだが、境内の樹木の枝にさえぎられて、上手く写真に撮ることができなかった。
法隆寺の五重塔は、飛鳥時代の様式を今に伝えている日本最古の木造建築物の一つであり、国宝に指定されている。會津八一が、この地を訪れた時は、聖徳太子の千三百年忌で盛り上がっていた時期のこと。大正10年(1921)のことだから、もう百年近くの時が経っているのである。その時は、樹木の枝ももう少し短かったかもしれないなあ。
法隆寺には、近年、夢殿にも近隣の住宅から移築された會津八一の歌碑があるのだが、この日は、他に行きたいところがあったのでスルー。また、後日チャレンジすることにしよう。
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