摩湯山古墳から観音寺山遺跡までは、北東の方角をだらだらと緩やかな登り道を30分ほど歩くことになる。途中、府道和泉中央線を越えたあたりから坂が急になると同時に周りの風景が一変する。どちらかと言えば農村めいた光景から、一気に現代の新興住宅地へと様変わりする。この住宅地のある辺りの地名を弥生町というのは、おそらく観音寺山遺跡などの様に弥生時代の遺跡があったことにちなんでいるのであろう。
急な坂道を、ふうふう言いながら登っていくと、住宅と企業の社宅の間に、遺跡公園が見えた。観音寺山遺跡である。
観音寺山遺跡は、弥生時代の後期の高地性集落と呼ばれる集落の跡である。標高60m~65mの丘の上に120軒ほどの竪穴住居が検出されている。
周囲との高低差が25mというので、かなりの高台に集落が築かれており、竪穴住居にあたる部分は、丸や四角の形にくぼんでいる。
観音寺山遺跡は、周辺の住宅開発に伴い、1968年に同志社大学の森浩一教授を中心に発掘調査が行われている。開発のための工事が行われる中、大変厳しいものだったらしい。(そのため、出土品については、同志社大学の歴史資料館で見ることができる。)
遺跡については、3つの地区にわかることができ、それぞれに環濠があったと考えられている。観音寺山遺跡として保存させているのは、その中の一番上にあったものだけであり、そのほかの遺跡は、住宅として開発されてしまったようだ。
土地開発と遺跡保存の難しさを感じさせられる。高度成長期の開発で、この部分だけでも残っただけ僥倖であったのかもしれない。
この遺跡からは、サヌカイト製の石鏃や中型の尖頭器、投弾などが見つかっており、軍事施設という面も想定される。
実際、観音寺山遺跡にある説明板にも、軍事的なものとして、魏志倭人伝にも出てくる「倭国大乱」との関係を説いている。ただ、魏志倭人伝に出てくる「倭国大乱」の時期としては、2世紀の後半と考えられているのだが、この観音寺山遺跡は、倭国大乱よりも早い時期に成立しており、遺跡の成立年代と文献の年代がズレていると考えられている。
このことから、高地性集落自体の評価も、これまでは「倭国大乱」と呼ばれる畿内や瀬戸内海地方の動乱との関係が重視されていたのだが、軍事的な緊張関係の下に成立したものというよりは、むしろ平常時も生活が営まれていた集落であったという見方になっているようである。
これも考古学上の研究の発展が、歴史の見方を変えたという例なのかもしれないですね。
この遺跡のある場所から、すぐ北は崖の様になっており、和泉市の市街地を一望できた。
ここからは、泉北高速鉄道和泉中央駅に向かって、20分ほど歩いた。
この日の行程は、これで終了。歩行距離は、8kmほどよく頑張った(笑)
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