休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

駒塚古墳&調子丸古墳

2013-07-03 08:00:56 | 史跡を歩く
 国道25号線沿いに歩くと、中宮寺跡の付近にちょっとこんもりとした丘が見える。これが、聖徳太子の愛馬を埋葬したと伝えられる駒塚古墳である。全体が写真のようにフェンスで囲まれているため、墳丘に足を踏み入れることもままならない状態である。金網ごしに墳丘上に、いくつかの石碑が建てられているのが見えるが、詳細は不明。

 

 斑鳩町のHPによると、全長約49mの前方後円墳であるとのこと、ただし前方部がかなり破壊されていることから、実際の大きさは不明なんだそうだ。築造は4世紀後半ということで、実際に聖徳太子が活躍したであろう時代から、200年程前に造られたものになる。
 発掘調査は、行われているが、埋葬施設等は確認されていない。

 

 また、駒塚古墳の近く、田んぼに囲まれて、調子丸古墳があった。古墳のそばへ行くには、田んぼの畦を通って行かないといけない。

 

 調子丸古墳については、全長15m程の円墳で、聖徳太子の舎人を務めていた調子丸(調子麻呂)を埋葬したといわれるものである。

 古墳については写真の通りかなり荒れ果てた状態であった。

  

 そしてともに斑鳩町の史跡に指定されている。

 調子麻呂については、山岸涼子の「日出る処の天子」で、聖徳太子の愛馬の世話をする舎人でありながら、厩戸皇子のボディガードをする役割を与えられていた作中の重要人物のひとりである。実際は、「日本書記」等の資料にはなく、平安時代に書かれた「聖徳太子伝補闕記」に初めて登場している。聖徳太子の薨去の後、出家したと伝えられている。また鎌倉時代には、調子麻呂の子孫を名乗る人が法隆寺におり、その人物が調子麻呂の造形化に努めたようだ。(詳しくは、中公新書の武田清子著「信仰の王権 聖徳太子」に書かれています。)
 駒塚古墳は、聖徳太子に殉死した愛馬黒駒を葬ったという伝説がある。そういえば、黒駒の像は、橘寺にもあったと思う。

 現地を訪れて、もう少し整備したらいいのにと思う反面、整備されすぎた藤の木古墳を思い起こすとこのままでもいいのかなとも思う。せめて案内板ぐらいは欲しいというところですね。

 古墳の近くに、来々軒というラーメン屋があった。最近、ちょっと気に入っているのだが、同じような味のラーメン店で魁力屋というのもある。この2つの違い(なんで店名が違うのかなど)が少し気になる。どっちも京都のこってりとしたラーメンなのだが・・・。

 法隆寺の観光センターの裏の駐車場にこんな古墳があった。

 

 「古墳です」という看板があるだけで、詳細は全く不明だった。

 

 
 
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