前回の「京都の伝説を歩く【15】船岡山」で、源為義の処刑のことに触れたので、そのつながりで京都の七条七本松にある源為義の墓所について取り上げることにした。
源為義のお墓は、たまたま少し前、京都平安京の大極殿跡から大阪まで自転車で行ってみようとママチャリを一生懸命漕いでいる時に偶然七条通の商店街を走っている時に見つけたものである。
梅小路公園から西へ、JR 線の下をくぐる道を探している途中、商店街が切れる場所があり、そこから小さな路地に入る所に源為義公墓と書かれた道標を見つけた。
こんなところでこんな源平時代の史跡を見つけるとはラッキーということで喜び勇んで、自転車を押して路地を入っていった。
右手に、六条判官源為義公塚と刻まれた石標と説明板があった。残念ながら、門が閉まっていて近くに行くことはできなかったが、門越しでも十分に観察することができた。
墓所には、石の笠塔婆と五輪塔、その間に小さな石塔が置かれてる。説明板によると五輪塔の方が為義の供養塔のようだ。
もともとが、この場所になく、この場所からもう少し北の堂ノ口という場所にあったのだが、旧国鉄の線路や京都駅の拡張により、この場所に移設されたものであるとのことである。
しかし、当時の記録によれば、源為義は京都の船岡山で処刑されたと言われるが、なぜこの地にあるのだろうか。源為義の最後については、「保元物語」では別の話が載っている。
為義の息子である源義朝は、自らの忠賞に替えても命を助けるといい、為義を東山の庵室へ誘う。為義も従うが、何と為義を載せた輿車は、東山へは向かわず、七条朱雀へ赴いた。そしてこの地で、為義は、「あはれ、親の子を思ふやうに、子は思はざりけるよ。」といい、義朝により、首を落とされることになったと伝えている。
史実とは異なり、この七条朱雀において斬られる設定となったのだろうか?七条朱雀という地じたい、当時、処刑等が行われるような場所であったし、ここが怨霊を鎮圧する境界と考えられていたということもあるのだろう。
崇徳上皇同様、為義も怨霊となれば、都の外で防がなければならない。このようなことからこの地が処刑地として設定され、後に供養塔が造られることになったのではないだろうか?
とはいいつつも、為義の場合は、崇徳上皇とは違い、その子孫は平家を滅ぼし、天下を取ったので、怨霊になることはなかったかもしれないけど。ただ、小さい子どもたちも犠牲になっているので、そう思うとつらい話ではある。(小さい石塔は、子どもたちの供養塔なんだろうか。)
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