大浜公園から利晶の杜に向かう。大浜公園から国道まっすぐ東へ向いてを歩くと10分ほどで着く。
利晶の杜は、昨年の3月にオープンした堺にちなむ千利休と与謝野晶子をメインに堺の文化や歴史に触れる施設で、1階が、堺市の観光展示室と千利休の茶の湯館、2階が与謝野晶子記念館になっている。考えると堺のまちがこの2人を生んだということは、堺のまちのイメージや文化的なグレードをかなり上昇させているような気がする。府下の自治体関係者としては羨ましい限りである。こういうものは作ろうとしても作れないからね。この2人の残した有形、あるいは無形な歴史的、文化的財産はほんと大きいよなあ。ただ、そういったものの価値になかなか気付くかどうかはまた別問題でもあるのだけれど。
昔、学生時代、芸術論を受け持っていた木津川先生が、与謝野晶子の短歌を取り上げて、もはや歌に歌われたような光景がなく、海は埋め立てられ、コンクリートで覆われてしまった状況を悲しんでおられたなあ。
話は、利晶の杜に戻る。
千利休の茶の湯館は、入ってみると住吉祭礼図屏風を使って、中世の堺のまちや当時の風俗がわかるようになっている。タッチパネルで画面に触れると説明が出るようになっているのだが、不思議とタッチパネルと相性が悪い体質のため、うまく動かなかった。ちょっと悲しい。
屏風を見て思うのは、今でこそ住吉と堺は大和川できれいに分断されているけれど、それまでは陸続きで、一つの世界を形成していたということである。それから、お茶の世界をのぞいてみて、少し前に流行った「おもてなし」の原点は、ここにあるんだろうなあとなんてことを思ったりした。
2階には、与謝野晶子記念館。与謝野晶子という人については、歌集「みだれ髪」とか詩「君死に給うことなかれ」ぐらいしか知らなかったのだけど、記念館の中で与謝野晶子語録を見た時に、うわー、カッコええなあ、男前やなと思わず感嘆の声を挙げてしまった。明治、大正といった時代に、男女同権とか反戦とか自己実現みたいなことを堂々と公の場で述べているのがスゴイ。一歩間違えば、社会的に抹殺されるかもしれない時代である。一本柱の通った人だったんだろうなあ。
それは、恋愛等について詠んだ歌を見てもわかるけどね。
記念館に中には、与謝野晶子の生家を復元したものもある。実家は、もともとは和菓子屋さんで老舗だったようだ。鳳という姓を名乗っていたみたい。当時としては珍しく、子どもを女学校に通わせたくらいだから、結構、大店だったんだろうな。
利晶の杜の建物の西側に与謝野寛、晶子の文学碑が立っている。また、碑に刻まれている晶子の言葉がまた、いいよね。
ここまで言われたら男冥利に尽きるという感じ。一度は言われてみたいなあ。夫婦お互いの才能を認め合っているというのはうらやましい。
利晶の杜を出て、すぐのところに千利休の屋敷跡と伝わっているところがある。
椿の井戸と大徳寺の山門の古い部材で造られた井戸の屋形がある。ちょうどこの時雨が降ってきたので、早々にして近くにある与謝野晶子の生家跡へ向かうことにした。
チンチン電車が走っている道路沿いに歩いていくと、歩道の上にある。生家は碑のあるところから道路にかけてあったらしい。
そして、碑には「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家」と刻まれており、碑の形は、晶子の実家の姓「鳳」にちなんで鳳凰が翼を広げているイメージらしい。
この石碑からほどなくの所に関口神社がある。境内に念仏寺という神宮寺が建てられ、「大寺」とも呼ばれている。
式内社というから、創建はかなり古い古いようで、奈良時代にはすでにあったようで、念仏寺については、行基の開祖と伝えられている。
境内は、泉陽高校の発祥の地という石碑がある。
ちなみに与謝野晶子もこの高校の出身だそうで、著名人では女優の沢口靖子も卒業生だそうだ。
(石碑のうらの発起人の名前沢口靖子の名前が見える。)
そして、その横にも与謝野晶子の歌碑が建っている。
建てられたのが、平成28年の5月というから、ほんとごく最近である。
碑には「少女(をとめ)たち開口(あぐち)の神の樟(くす)の木の若枝さすごとのびて行けかし」と刻まれている。今のところ、一番新しい歌碑である。
その石碑の足元にも小さい歌碑があり同じ歌を刻んでいる。
そうこうしているうちに雨も小降りになってきた。今のうちに電車に乗って帰ろうということで、チンチン電車の「宿院駅」から電車に乗った。何か新型の電車が走っていた。
利晶の杜は、昨年の3月にオープンした堺にちなむ千利休と与謝野晶子をメインに堺の文化や歴史に触れる施設で、1階が、堺市の観光展示室と千利休の茶の湯館、2階が与謝野晶子記念館になっている。考えると堺のまちがこの2人を生んだということは、堺のまちのイメージや文化的なグレードをかなり上昇させているような気がする。府下の自治体関係者としては羨ましい限りである。こういうものは作ろうとしても作れないからね。この2人の残した有形、あるいは無形な歴史的、文化的財産はほんと大きいよなあ。ただ、そういったものの価値になかなか気付くかどうかはまた別問題でもあるのだけれど。
昔、学生時代、芸術論を受け持っていた木津川先生が、与謝野晶子の短歌を取り上げて、もはや歌に歌われたような光景がなく、海は埋め立てられ、コンクリートで覆われてしまった状況を悲しんでおられたなあ。
話は、利晶の杜に戻る。
千利休の茶の湯館は、入ってみると住吉祭礼図屏風を使って、中世の堺のまちや当時の風俗がわかるようになっている。タッチパネルで画面に触れると説明が出るようになっているのだが、不思議とタッチパネルと相性が悪い体質のため、うまく動かなかった。ちょっと悲しい。
屏風を見て思うのは、今でこそ住吉と堺は大和川できれいに分断されているけれど、それまでは陸続きで、一つの世界を形成していたということである。それから、お茶の世界をのぞいてみて、少し前に流行った「おもてなし」の原点は、ここにあるんだろうなあとなんてことを思ったりした。
2階には、与謝野晶子記念館。与謝野晶子という人については、歌集「みだれ髪」とか詩「君死に給うことなかれ」ぐらいしか知らなかったのだけど、記念館の中で与謝野晶子語録を見た時に、うわー、カッコええなあ、男前やなと思わず感嘆の声を挙げてしまった。明治、大正といった時代に、男女同権とか反戦とか自己実現みたいなことを堂々と公の場で述べているのがスゴイ。一歩間違えば、社会的に抹殺されるかもしれない時代である。一本柱の通った人だったんだろうなあ。
それは、恋愛等について詠んだ歌を見てもわかるけどね。
記念館に中には、与謝野晶子の生家を復元したものもある。実家は、もともとは和菓子屋さんで老舗だったようだ。鳳という姓を名乗っていたみたい。当時としては珍しく、子どもを女学校に通わせたくらいだから、結構、大店だったんだろうな。
利晶の杜の建物の西側に与謝野寛、晶子の文学碑が立っている。また、碑に刻まれている晶子の言葉がまた、いいよね。
ここまで言われたら男冥利に尽きるという感じ。一度は言われてみたいなあ。夫婦お互いの才能を認め合っているというのはうらやましい。
利晶の杜を出て、すぐのところに千利休の屋敷跡と伝わっているところがある。
椿の井戸と大徳寺の山門の古い部材で造られた井戸の屋形がある。ちょうどこの時雨が降ってきたので、早々にして近くにある与謝野晶子の生家跡へ向かうことにした。
チンチン電車が走っている道路沿いに歩いていくと、歩道の上にある。生家は碑のあるところから道路にかけてあったらしい。
そして、碑には「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家」と刻まれており、碑の形は、晶子の実家の姓「鳳」にちなんで鳳凰が翼を広げているイメージらしい。
この石碑からほどなくの所に関口神社がある。境内に念仏寺という神宮寺が建てられ、「大寺」とも呼ばれている。
式内社というから、創建はかなり古い古いようで、奈良時代にはすでにあったようで、念仏寺については、行基の開祖と伝えられている。
境内は、泉陽高校の発祥の地という石碑がある。
ちなみに与謝野晶子もこの高校の出身だそうで、著名人では女優の沢口靖子も卒業生だそうだ。
(石碑のうらの発起人の名前沢口靖子の名前が見える。)
そして、その横にも与謝野晶子の歌碑が建っている。
建てられたのが、平成28年の5月というから、ほんとごく最近である。
碑には「少女(をとめ)たち開口(あぐち)の神の樟(くす)の木の若枝さすごとのびて行けかし」と刻まれている。今のところ、一番新しい歌碑である。
その石碑の足元にも小さい歌碑があり同じ歌を刻んでいる。
そうこうしているうちに雨も小降りになってきた。今のうちに電車に乗って帰ろうということで、チンチン電車の「宿院駅」から電車に乗った。何か新型の電車が走っていた。
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