休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

久米仙人と久米寺

2015-06-21 17:13:13 | 史跡を歩く
 近鉄の橿原神宮駅を下車。南口を出てしばらく歩くと久米寺という看板を見つける。看板にしたがって行くと、公民館らしき建物に裏側に「来目邑伝承地」と書いた石碑が建っている。

 

 「日本書紀」の垂仁天皇の条に、是歳、来目邑に屯倉を興すという記述があることから、これにちなんで建てられたものなのだろうか。そういえば、この辺りは古代の軍事氏族であった久米氏の拠点とも言われているところであった。久米氏については、瓊瓊杵尊が、高天原から降臨するときに、大伴氏の祖と一緒に下ってきた天久米命をはじめとする一族であり、大伴氏とともに軍事的な役割を果たしてきたと言われる豪族であった。

 その公民館がある公園の道を挟んで東側には、久米御縣神社が建っている。この神社は、久米氏の祖、天久米命他二神を祀っているという。一時は久米寺の鎮守社となっていたのだが、明治の神仏分離令により久米寺から分離し、久米御縣神社となったのだという。

 

 また、公民館が建っている公園には、神社の向かい側に、何となくいわれのありそうな大きな岩と土地の高まりがある。

 

 周りを見ても特に何かあると書かれたものがないので、何もないのかもしれないが、適当に寺院の基壇跡といっても信じてもらえそうな雰囲気はある。

 久米御縣神社を横に北へ向かう。すると、久米寺の山門が見える。

 

 聖徳太子霊蹟とあるのを見て、この日珍しく同行している奥さんが、「来目皇子」と関係があるのかと尋ねるので、「よくわかったな」と返すと、「(山岸涼子の)「日出処の天子」での学習の成果ですわ。」自慢げに語る。久米寺の創建については、おおむね三つの説がある。①聖徳太子(厩戸皇子)の弟である来目皇子の創建と伝えるもの、②久米の仙人の伝説によるもの、③久米氏の氏寺というもの。普通に考えると③が正しいということになりますかね。

 久米寺が実際に、いつ建てられたかは不明。ただし、山門を入ってすぐのところに、巨大な塔の心礎があり、出土した瓦から奈良時代の初めごろに建てられたのではないかと言われている。

 

 少なくとも、平安時代初めごろにはすでに建てられていた様子で、空海が撰文した「益田池碑銘并序」には来目精舎として出てくるという。空海とのかかわりも深い様子で、調べると大日経を初めて説いた場所であるそうな。

 境内に、久米の仙人の石象が建っている。
 久米の仙人については、「今昔物語集」や「徒然草」などの書物に出てくる有名な説話である。詳しくは、橿原市のHP「かしはら探訪ナビ」などを参照。
 「徒然草」では、吉田兼好が、「世の人の心まどわす事、色欲にはしかず。」と述べ、久米の仙人の話を引いて、「久米の仙人の、物洗ふ女の脛の白きを見て通を失ひけんは、…(中略)…さもあらんかし」と書いている。男ってのは仕方ないちゃねという話になるのだけど、残念ながら、この話を奥さんにしたところで、フンと言われるだけの話である。

 

 本堂には、本尊の薬師如来の他に久米の仙人像が祀られているそうだ。
 その他境内には、京都の仁和寺から移築したと言われている多宝塔がある。この多宝塔は、国の重要文化財にも指定されているのだが、それよりも吉田兼好も仁和寺のつながりもあり、偶然ではあるのだが、その縁の不思議を思うばかりである。

 

 多宝塔のたもとには、アジサイがきれいに咲いていた。

 

 珍しい光景では、お寺のすぐ裏側を近鉄電車が走っており、境内地の中を走っているように見える。

 

 以前、ブログで書いた南河内の澤田八幡宮のような光景であった。

 

 でも反対から見たら、ギリギリセーフでしたね。
 

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