休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

高取町の古墳 ⑤ 束明神古墳

2015-06-13 17:42:45 | 史跡を歩く
 いよいよ高取町での古墳めぐりも束明神古墳で最後となった。岡宮天皇陵を過ぎて北へ250mほど行き、案内板したがって佐田の集落をに入っていく、しばらく行くとまた、写真のように階段を登ることになる。この日は一体何段ぐらい登ったのだろう。また階段かあと心の中で思いながら墓地の横の階段を登っていく。



 春日神社の社域に入っていくと、階段の左手に束明神古墳の解説板が建っている。束明神古墳というと明日香村にあるようなイメージがあるのだが、実は行政区分でいうと高取町なのである。

 

 解説板にも高取町教育委員会と書いてある。
 
 束明神古墳については、発掘されたときは結構大ニュースであったという記憶がある。調べてみると昭和59年5月のことである。ついでに言うと私はすでの高校生ではあったのだが、この時分は歴史よりもむしろSF小説に夢中になっていて、筒井康隆や星新一を卒業して、第2世代的な、かんべむさしや山田正紀などに夢中になっていた頃である。(先日、本棚を整理していたら、前述した作家たちの本が大量に発掘された。)話が少し横道にそれてしまった。
 束明神古墳の発掘で何よりも注目を浴びたのが、その特異な石室の構造であった。
 
 凝灰岩を段上に積み上げて横口式石槨を作っており、これまで発見されたことにない形の石室であった。この石室は現在埋め戻されており、全く見ることはできない。(参考までにこの石槨は、TV番組の中で復元され、それが橿原市考古学研究所付属博物館に保存展示されている。)この時は連日束明神古墳のニュース。この古墳にも大勢の人が訪れたのだろう。現在は訪れる人も少なくひっそりとした佇まいであった。

 古墳自体は、直径約18m、高さ3mほどであり、一見すると小さな古墳である。後世の改変をかなり受けているようで、もとは八角形墳であったようだ。

 

 束明神古墳の作られている地形について、南側の丘陵の尾根を切り取って平坦地とし、その中に束明神古墳が作られているという当時の八角形墳の地形上の特徴を踏まえている。

 

 束明神古墳については、終末期古墳の一つであり、築造は7世紀後半から末であるとされる。発掘調査に出土したものに、乾漆棺の破片と被葬者のものと思われる歯が見つかっている。歯については鑑定結果30歳前後の男性のものだという。草壁皇子が28歳で亡くなっていること。乾漆棺自体が、当時の皇族級の人物に使われていたことを合わせると、束明神古墳の被葬者を草壁皇子と考えるのが妥当であるようである。

 

 もともと、この古墳の被葬者が草壁皇子であるという伝承があり、明治初年の陵墓治定にあたって、治定されないように村の人たちで破壊したのだという。
 ちなみに、束明神という名称は、古墳の目前にある石灯籠に由来する。なぜ束明神という名称がつけられたのかについて、発掘調査にあたっていた河上邦彦氏は、万葉集にある草壁皇子の歌、「大名児(おおなご)が 彼方(おちかた)野辺に 刈る草の の間も 我が忘れめや」に由来するのだという。
 将来を嘱望されながら、早逝した皇子の存在を村人たちが忘れずに伝えてきたのかもしれない。

 草壁皇子については、奈良時代の天皇のほとんどが、この人物の子孫あるのだが、意外と影の薄い存在である。草壁皇子を皇位につけようとして、大津皇子を死に追いやったこともその理由のひとつであろう。付け加えると、先に歌は、大津皇子と争った石川郎女に送ったとされる歌である。大津皇子と草壁皇子の恋のさや当てはどうやら大津皇子の勝ちに終わったようであり、この辺りも草壁皇子の人気が薄い理由なのかもしれない。歌からは、繊細な優しい人物であったような印象を受ける。

 

 束明神古墳は、春日神社の社域の隅でひっそりと存在している。それは、皇位につくことなく、早逝した薄幸の皇子の生涯を象徴しているような気がした。

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