後堀河天皇陵から元来た道に戻り、さらに奥へ進んでいくと、江戸時代最後の天皇、孝明天皇と英照皇太后後月輪東北陵がある。
孝明天皇については、その在位期間のほとんどが、幕末の動乱期と重なり、その政局において、重要な役割を演じていた人物である。徳川家、特に「一会桑」と呼ばれる一橋慶喜、松平容保への信頼は厚く、佐幕的な姿勢を貫いたとされる。
1867(慶応4年)突然の天皇の死により、幕末の政局は、「一会桑」の政権が瓦解し、薩長を中心とした倒幕派に回天した。
天皇の死があまりに突然であったため、毒による暗殺説がまことしやかに語られている。
天皇の死後、江戸時代の歴代天皇の墓所がある月輪陵、後月輪陵の東北の山中に墳丘を築いて埋葬されている。当時は、文久の修陵などの影響もあり、天皇の葬儀についても、復古的な論調もあり、天皇の墓所についても、新たな場所という話もあったらしい。ただ、これまでの九重宝塔による墓から、古代の天皇と同様に墳丘を築き、その中に石櫃を設け、遺体を埋葬している。孝明天皇から、埋葬については、古代の天皇に倣うようになり、この流れは、次の明治天皇に引き継がれ、現在に至っている。
ちなみに、葬儀については、孝明天皇については、仏式で行われており、最後の仏式で葬儀が行われた天皇であるとも言えそうである。
英照皇太后については、1897年(明治30年)に崩御した後、同所に埋葬された。
孝明天皇陵については、参道を突き当たりに、拝所(?)があり、固く扉が閉じられていた。玉垣の奥を眺めてみると、二つ墳丘らしきものがあることがわかる。中に参道もあり、実際の御陵は、この山中にあるのだろう。
調べてみると、天皇陵の正式な参道は、月輪陵の奥にあるようである。
孝明天皇の崩御から古代神話の復活と共に、少しずつ近代天皇制が築かれ始めたと言えそうでもある。天皇の墓所までの参道は、訪れる人も少なく、この春の時期は、鶯のさえずりも聞こえ、清々しい気持ちになる場所であった。
孝明天皇が生きた時代とは、全く違う、閑静な空間であったのである。ここからは、参道を引き返し、御寺泉涌寺に行ってみることにしよう。
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