WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

ピアノの響きが素晴らしい

2014年11月10日 | 今日の一枚(K-L)

☆今日の一枚 379☆

Keith Jarrett
Standards, Vol.1

 このアルバムをよく聴いていた頃、ひとりの女の子と出合った。彼女は高校生で僕は大学生だった。夏休みの帰省中に暇を持て余し、史跡見学にかこつけて原付バイクで近隣の田舎町を訪れ、道を尋ねたのがきっかけだった。おばあさんの乗った車いすをおしていた彼女は、岩手県の田舎町には似つかわしくない、白いワンピースを着ていた。可愛らしい女の子だった。その町のことをいくつか尋ね、ほんの少しだけ世間話をして別れたのだが、数日後、その町のスーパーマーケットで再びばったり出会ったのだ。数日前のお礼を述べ、自己の素性を明かしてとりとめのない話をしているうちに、日を改めてその町を案内してもらえることになった。結局、その夏休みには彼女と5~6回ほど会い同じ時間を過ごすことになった。それだけだ。まっすぐに物事を見る、素直で誠実な女の子だった。けれど、どこかアンニュイな雰囲気をもった女の子だった。彼女とは次に会う約束もしていたが、私に急用ができて東京に帰らねばならなくなり(ほんとに切羽詰まった大切な用事だったのだ)、約束をすっぽかす形になってしまった。まだ携帯電話などなかった時代の話だ。連絡先をちきんときいておかなかったのがいけなかった。約束を破ってしまったことを詫びることもできず、彼女とはそれっきりになってしまった。冬休みに帰省した時に、一度だけその町をぶらぶらしてみたが、彼女と出会うことはできなかった。苦い思い出だが、今でも私の中では、その夏休みの記憶は彼女とともにある。

 キース・ジャレットの1983年録音作品、『スタンダーズ第一集』である。キースがスタンダードに取り組んだ最初の作品である。もちろん、ベースはゲーリー・ピーコック、ドラムスはジャック・ディジョネットである。スタンダードの解釈や演奏の構築はもちろんだが、何といっても音の響きが素晴らしい。私にとっては美しいピアノの響きがすべてだ。硬質で想像力をかきたてるような響きだ。①Meaning Of The Blues の静謐で深淵な出だしを聴くと、私はいつもあの夏の日に出合った女の子のことを思い出す。彼女のように、素直で誠実で、どこかアンニュイな響きに聴こえる。

 田舎町には似つかわしくない洋服を着たその女の子は、自分はこの町が本当に好きだと語った。けれども、やはりこの町からでてみたいのだとも語った。私から東京の話を聞き、ちょっと照れくさそうに、けれども真剣な口調で、足腰の悪いおばあさんが心配ではあるが、それでもやはり一度はこの町の外を見てみたいのだと語った。もう彼女の顔をはっきりと思い出すことはできない。記憶には白い半透明のベールがかけられているようだ。それでもこのアルバムを聴くと彼女のことを思い出す。あの夏休みの記憶はこのアルバムのサウンドとともにある。このアルバムを聴いて以後、私はキース・ジャレットのフォロワーになっていったが、もしかしたらそれはあの夏の想い出と関係があるのかもしれない。

 素直で誠実で、どこかアンニュイな女の子。彼女ももうすぐ50代になるはずだ。彼女と出会ったのは、このアルバムがリリースされた翌年のことだった。