WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

「不敬」である

2021年10月31日 | 今日の一枚(C-D)
◎今日の一枚 554◎
Cedar Walton & Ron Carter
Heart & Soul
 秋篠宮の長女眞子さんが結婚したようだ。この間、相手男性とその母親の金銭問題や対応の仕方を契機として、webには彼らの人間性に対する批判的な言葉が溢れ、その結婚を止めようとしない眞子さんその人に対しても、批判的な物言いが数多く見られた。そこには、ほとんど罵詈雑言といっていいものも数多く含まれていた。戦前なら、不敬罪だろう。私は、残念ながら天皇主義者でも皇室崇拝者でもないが、このような状況に対してははっきり「不敬」だと思う。
 ところで、すでに幾人が指摘したことであるが、このよな「不敬な」言説の多くが、リベラル派や左派と目される人たちではなく、右派や自称保守と思われる人々から発せられていることは記憶に留めておかなければならない。(ここで「自称保守」と記したのは、webにあふれる保守を名のる人々の言説の多くが、原理的に到底保守とは呼びえないことに起因する。)
 「不敬な」言説は、本来、皇室を敬愛し尊崇することを主義とする人々から発せられた罵詈雑言なのである。このことは、右派や自称保守の皇室への尊崇・敬愛が、アプリオリに、すなわち如何なる場合にも無条件で自然発生的に抱かれるものではないことを表している。ある一定の条件の下でのみ作動するような尊崇・敬愛なのである。一定の条件とはもちろん、自分たちの考えに合致するような皇室ということになる。
 したがって、自分たちの考えに合致するような皇室である限り尊崇・敬愛するが、そうない場合には批判的な言説を浴びせ、時として罵詈雑言すら発するわけだ。このことから、右派や自称保守にとって、皇室とは政治的な道具であるということができる。彼らにとって敬愛すべき皇室とは、自分たちに都合のいい皇室でなければならないということだ。その意味では、右派・自称保守派の皇室への尊崇・敬愛とは政治的なフィクションなのであり、明治維新以来の「玉」の思想は今日も生き続けているといえる。その論理を延長すれば、皇室は何色でもない無色透明の、自分たちの色に染まりやすい存在であった方がいい。皇室の権威を利用し、自分たちの政治的な野望を達成することができるからだ。
 内田樹『街場の天皇論』の次のような記述は記憶に留めておくべきであろう。
なぜ、改憲派は天皇への権力集中を狙うのか。それは戦前の「天皇親政」システムの「うまみ」を知っているからです。まず天皇を雲の上に祭り上げ、「御簾の内」に追い込み、国民との接点をなくし、個人的な発言や行動も禁じる。そして、「上奏」を許された少数の人間だけが天皇の威を借りて、「畏れ多くも畏き辺りにおかれましては」という呪文を唱えて、超憲法的な権威を揮う。そういう戦前の統帥権に似た仕組みを安倍政権とその周辺の人々は作ろうとしています。彼らにとって、天皇はあくまで「神輿」に過ぎません。

 今日の一枚は、シダー・ウォルトン & ロン・カーターの1991年作品、『ハート & ソウル』である。もっと以前に、学生時代頃に聴いたように思っていたが、1990年代の作品だったようだ。記憶とは全く不確かなものだ。シダー・ウォルトンのピアノは相変わらず美しい。村上春樹氏は、このピアニストについて「知的で端正ではあるが、そのくせ鋼のように鋭いタッチ」と述べているが、確かに美しい旋律を構成する一つ一つのタッチからはある種の強靭さを感じることができる。ベースとのデュオ形式ということで、そういったウォルトンの資質をより身近にリアルに感じることができる。