斉藤仁さん、肝内胆管がんで死去…54歳早すぎる別れ/柔道(サンケイスポーツ) - goo ニュース
昨日20日全日柔道連盟(全柔連)の斉藤仁氏(54才)が肝内胆管胆管がんのため急逝したそうです。
同氏はロス、ソウル五輪で連続の金メダルを獲得し不調の重量級の面目を保つ活動をされました。
近年は助成金の不正処理や女子選手に対するセクハラ問題で揺れる全柔連で強化委員長に就き組織立て直しに活動されていました。
セクハラ騒動が13年11月、翌年14年早くにはがんが告げられたそうですかあ治療より仕事を優先した様です。
一部マスコミでは激やせした写真を載せていますが「がん顔」ですね。
前日息子さんが「ここに居ようか」と聞くと「(柔道の)稽古に行け」と答えたそうですから意識はしっかりしていたのでしょうね。
奥さんと育ち盛りの息子さん2人を残して斉藤さんも心残りだったと思います。
まあそれほど全柔連が大変な状態だとも見て取れます。
謹んでご冥福をお祈りいたします。 合掌
写真:ソウル五輪優勝の斉藤氏
サンケイスポーツ:
1984年ロサンゼルス、88年ソウル両五輪の柔道男子95キロ超級で、同競技初の2連覇を果たした斉藤仁(さいとう・ひとし)氏が20日午前2時56分、肝内胆管がんのため、大阪・東大阪市の病院で死去した。54歳。柔道日本が五輪で初の金メダルなしの危機に陥ったソウルで、金メダルを獲得、“お家芸”を守った。引退後は指導者として2004年アテネ五輪男子100キロ超級金の鈴木桂治氏(34)らを育て、近年は全日本柔道連盟(全柔連)強化委員長として再建に力を入れていた。
54歳。あまりにも早すぎる。五輪2大会連続の金メダリストで、引退後は全柔連強化委員長として柔道日本の復権に尽力していた斉藤仁氏が20日未明、生涯を終えた。
「柔道ひと筋で生きてきた人ですから。人生に悔いはないと思います。最後はおだやかに、苦しむことなく、旅立っていきました」
東大阪市内の病院で長男・一郎さん(16)、次男・立(たつる)さん(12)とともに、看取った夫人の三恵子さん(50)が最期の様子を大阪市内の自宅で明かした。
1年前に医師からがんを宣告されていた。昨年11月の講道館杯に姿を見せた際には「やることが山積みだから、やせちゃったよ」と話していたが、年末に体調が悪化、入院していた。
責任感の強さを貫き通した。ソウル五輪では日本男子が6階級で敗れる中、最終日の95キロ超級で金メダルを獲得。“お家芸”の危機を救った。ロサンゼルス五輪に続いての連覇で重責を果たし「これで日本に帰れる」と感極まった。
全日本選手権で9連覇した山下泰裕・現全柔連副会長とはライバル関係だったが、8戦全敗。全日本王者になる前に優勝したロス五輪では「エベレストに登るより富士山に登る方が難しい」という名言も残した。
引退後は母校の国士大監督、男子日本代表監督を務め、2004年アテネ五輪では鈴木桂治氏、08年北京五輪で石井慧氏、大学での教え子2人を最重量級覇者へ導いた。12年ロンドン五輪で日本男子は初の金メダルなし。その後、全柔連強化委員長に就任。再建に乗り出していた。
13年1月、女子日本代表選手に対する暴力指導問題が発覚。現場へ頻繁に足を運んだ。関係者から、休職を進言されたこともあったが、山下副会長は「『療養しろ』といえば『クビにしてください』というはず」と職責を全うさせようとした。
最後の言葉は前日の昼。見舞いに来た2人の息子が「ここにいようか?」というと、「(柔道の)稽古にいけ」-。最後まで柔道への情熱を持ち続けた人生だった。
(引用終わり)
昨日20日全日柔道連盟(全柔連)の斉藤仁氏(54才)が肝内胆管胆管がんのため急逝したそうです。
同氏はロス、ソウル五輪で連続の金メダルを獲得し不調の重量級の面目を保つ活動をされました。
近年は助成金の不正処理や女子選手に対するセクハラ問題で揺れる全柔連で強化委員長に就き組織立て直しに活動されていました。
セクハラ騒動が13年11月、翌年14年早くにはがんが告げられたそうですかあ治療より仕事を優先した様です。
一部マスコミでは激やせした写真を載せていますが「がん顔」ですね。
前日息子さんが「ここに居ようか」と聞くと「(柔道の)稽古に行け」と答えたそうですから意識はしっかりしていたのでしょうね。
奥さんと育ち盛りの息子さん2人を残して斉藤さんも心残りだったと思います。
まあそれほど全柔連が大変な状態だとも見て取れます。
謹んでご冥福をお祈りいたします。 合掌
写真:ソウル五輪優勝の斉藤氏
サンケイスポーツ:
1984年ロサンゼルス、88年ソウル両五輪の柔道男子95キロ超級で、同競技初の2連覇を果たした斉藤仁(さいとう・ひとし)氏が20日午前2時56分、肝内胆管がんのため、大阪・東大阪市の病院で死去した。54歳。柔道日本が五輪で初の金メダルなしの危機に陥ったソウルで、金メダルを獲得、“お家芸”を守った。引退後は指導者として2004年アテネ五輪男子100キロ超級金の鈴木桂治氏(34)らを育て、近年は全日本柔道連盟(全柔連)強化委員長として再建に力を入れていた。
54歳。あまりにも早すぎる。五輪2大会連続の金メダリストで、引退後は全柔連強化委員長として柔道日本の復権に尽力していた斉藤仁氏が20日未明、生涯を終えた。
「柔道ひと筋で生きてきた人ですから。人生に悔いはないと思います。最後はおだやかに、苦しむことなく、旅立っていきました」
東大阪市内の病院で長男・一郎さん(16)、次男・立(たつる)さん(12)とともに、看取った夫人の三恵子さん(50)が最期の様子を大阪市内の自宅で明かした。
1年前に医師からがんを宣告されていた。昨年11月の講道館杯に姿を見せた際には「やることが山積みだから、やせちゃったよ」と話していたが、年末に体調が悪化、入院していた。
責任感の強さを貫き通した。ソウル五輪では日本男子が6階級で敗れる中、最終日の95キロ超級で金メダルを獲得。“お家芸”の危機を救った。ロサンゼルス五輪に続いての連覇で重責を果たし「これで日本に帰れる」と感極まった。
全日本選手権で9連覇した山下泰裕・現全柔連副会長とはライバル関係だったが、8戦全敗。全日本王者になる前に優勝したロス五輪では「エベレストに登るより富士山に登る方が難しい」という名言も残した。
引退後は母校の国士大監督、男子日本代表監督を務め、2004年アテネ五輪では鈴木桂治氏、08年北京五輪で石井慧氏、大学での教え子2人を最重量級覇者へ導いた。12年ロンドン五輪で日本男子は初の金メダルなし。その後、全柔連強化委員長に就任。再建に乗り出していた。
13年1月、女子日本代表選手に対する暴力指導問題が発覚。現場へ頻繁に足を運んだ。関係者から、休職を進言されたこともあったが、山下副会長は「『療養しろ』といえば『クビにしてください』というはず」と職責を全うさせようとした。
最後の言葉は前日の昼。見舞いに来た2人の息子が「ここにいようか?」というと、「(柔道の)稽古にいけ」-。最後まで柔道への情熱を持ち続けた人生だった。
(引用終わり)