二の丸は藩主の居宅で十数棟からなる平屋の立派な建物であったとされる。忍城内最大の建物で、明治四年(1871)八月忍藩主松平忠敬は東京に移るにあたり、三度にわたって千四百人からなる家臣を招き別離に宴を催したというので一度に五百人近くが座れる部屋を有していたのだという。そしてよく明治五年(1872))忍城の建物はすべて取り壊しを命じられ姿を消している。
行田史石碑は多くは昭和五十年代に建てられ、通りに建っているが二の丸跡石碑は忍中学校の敷地内にある。直接見る機会はなかなかなく、子供の忍中学校入学式の際目にすることができた。また忍中学校校舎北側窓には「二の丸跡の誇りにかけて」というスローガンが郷土資料館を訪れた人々に向け書かれている。もちろん誇りにかけて培うのは「自治・共同・勤勉」の精神だ。
めぐりあわせか、私がこの世に生まれたのは、忍城廃城取り壊しの後百年後のことだった。