ほしちゃんの「続・なるようにしか、ならん」。

安くてウマいもんと料理と旅行と音楽と競馬が好きなサラリーマンの暮らしを、ありのままに綴ります。

年賀状は、確実に廃れる気がする…

2018-01-05 20:00:00 | 思うこと
今年も、いただくべき方からの年賀状はほぼいただけたと思う。
こちらが送っていないのに下さった方には必ず返信しているが、こちらが送っても返信いただけない方は年々増えており、回収率は年々下がっているように思われる。
今月8日以降投函分は10円値上げになるので、駆け込みの投函が多いとなれば今年の分はほぼ終了だろう。

最近増えたのは、人生の先輩からの
「来年以降は、年始のご挨拶を控えさせていただきます」
という、言わば終了宣言だ。
私も最後に顔を合わせて四半世紀以上経った人でも年賀状だけはやり取りしているが、終了宣言されると生存確認すら出来なくなってしまう。
しかしこれも、あくまで個人の意志なので仕方がない。こちらがとやかく言う問題ではない。

大学生と高校生の子どもらには、もう本当に来なくなった。
今年は共に友人からのものはゼロで、あとは祖母からのものと企業からばかりだ。
メールというものが定着して20年ほどになるが、彼らの世代において年賀状というものはほぼ滅んだ、と思って差し支えない状況だ。
これだけ無料の通信手段があるなかで、わざわざカネを払って、しかも他にせねばならない事が沢山ある中でわざわざ送る事に価値を見い出せないのだろう。

昔から私は、年賀状に凝る方であった。
30年ほど前からは「プリントゴッコ」(懐かしいっ!)を駆使し、21世紀に入ってからは毎年写真をふんだんに使ってパソコンで自作している。
子どもの写真しか載せない人も少なくないなかで、私は必ず家族1人あたり最低1枚はネコを含め載せるようにしている。

ただ、その昔は
「せめて送り先ぐらいは手書きにしたい…」
と思い頑張ってきたが、そのうち言ってられなくなり住所録ソフトのお世話になるようになってしまった。
この時期にしか買わないプリンタのインクも、バカにならないという域を遥かに超えて高すぎる。

そのうち、年賀状を送る行為すらも「言ってられない」と、やめてしまう時が来るのだろうか…?
子どもらも社会に出て、職場で否応なしに得意先宛の年賀状を書かされるだろう。
入社してしばらくはそうでも、子どもらの世代が職場の中心になる頃には、年賀状はほぼ廃れているかもしれない。

ただ有料無料の違いで言えば、電報は立派に生き残っている。
披露宴での祝電・告別式での弔電は少なくとも名前は読み上げられるが、メールは読まれないというふうに明確に線引きされている。
私なんぞ、結婚祝いから昇進祝いから父が旅立った時の弔電から、全て大切に保管している。
安くても千円、高くて数千円にもなる電報は、まさに人生の節目の贈り物だ。

何年か前、日本郵便のCMで嵐の二宮和也が
「年賀状は、贈り物だと思う。」
と語っていたのは、歴史に残る名コピーだ。
果たして年賀状は、電報のように「贈り物」として残るのだろうか…?