原発事故をめぐるネット上の情報は、さまざまな立場の者同士がその垣根を超えて発信した。発信した情報を共有できる環境が構成されたなかで、ボトムアップによるある種の「集合知」が形成される可能性が生まれた。ただし、まだ可能性のレベル、萌芽の段階にとどまる。
デジタルネットワーク上に「集合知」が生成されるための課題は何か。
(1)情報格差
「集合知」が形成されるにはさまざまな社会的条件があって、ことに一定のメディアリテラシーの存在は根源的条件だ。
現実には、(a)インターネットのなかの有益な情報を検索し、立体的に情報を編集できる社会層と、(b)新聞やテレビなどから情報を主な情報源とする社会層に分化する傾向が見られる。
社会的な規定因(文化資本、階層、年齢層など)の違いが、メディア接触の行動の相違を生み出している可能性が高い。
<例>ホットスポット地域では、(a)この問題に敏感でネットを通じてさまざまな情報にアクセスし、収集した情報を仲間と共有して行動している市民と、(b)そうではない層とに分化し、さまざまな対立が生じた。
(2)集団分極化
原発事故をめぐるネット上の議論には「集団分極化」がみられた。(a)政府や「御用学者」、それを伝えるマスメディアは嘘をついている、とする立場。(b)そうした見方は必要以上に不安を煽っている、としてマスメディアの情報を受容しつつ議論しようとする立場・・・・に。
政府発表を無批判に流し続けた、と視聴者に認識されたマスメディアに対して、それに代わるオルタナティブな情報がネットに流れたわけだが、それは「集団的分極化」の観点からすれば、特定の社会層においてのみ成立した複数の「集合知」のなかの一つだった。
当然ながら、社会的議論を行い、社会的な意思決定を行う際には、異なる異質な意見を聞き、専門家や市民の意見や行政側の主張も聞き、判断を保留して熟慮するような場と機構が必要だ。異なる主張を持つ者たちの討議空間としての「公共性」と「集合知」との関係が改めて議論されなければならない。
(3)情動の増幅
情報の伝達と深く関わる。プライベートな空間からプライベートな「私」の内部にダイレクトに届くリアリティの感覚を創り出す可能性がある。
<例>福島県内の学校施設の除染問題をめぐる映像が、官僚/役人に向かって市民から発せられた野次や怒号、市民から鋭い質問の矢が浴びせかけられるシーンなど、テレビではめったに映し出されない映像。
ネット動画特有のメディア特性が生み出すリアリティだ。テレビメディア特有のステレオタイプ化した報道の演出スタイルからは到底伝わらない臨場感と緊迫感をネット動画は伝える。
つまり、ネット空間では、従来の情報伝達以上に、その場の雰囲気、映し出された人物の感情や熱意や信念がダイレクトに伝わる。情報の受け手においても、情動を喚起するような情報が増幅されやすい。断片的な情報だからこそ、訴求力が強く、プライベートなかたちで次々と伝播する。瞬時に情動が喚起される。ネットに特有の情報様式だ。したがって、(a)風評やデマとして現れる場合もあれば、(b)「2011年アラブの春」に見られるような集合的行動が巻き起こり、多数の市民が参加する民主革命として現れることもある。
ネットの情報は、ネット情報だからこそ生まれる「負」「正」相互反転の特異な特性を帯びている。
原発事故をめぐる情報の流れにおいて、ネットが存在感を示した背景とその効果にはさまざまな側面がある。
①フリーのジャーナリストによる機敏な取材によって、既存メディアが伝える情報の「質」の相対化が進んだ。
②既存メディアが提供するのは「編集」された情報だ。他方、ネットでは「現場」から「第一次情報」をそのまま伝える。このネット上の情報は、既存メディアのステレオタイプ化した表現様式を相対化させた。
③従来はマスメディアが選択した形式(情報を多くの市民が消費する)だ。これとは異なり、ネットでは立場の異なる多様な市民の声がアップされ、ネットワーク化される技術的な条件が準備されることで、ボトムアップ型の「集合知」が成立する基盤が生まれた。ネット上の情報は、既存メディアを相対化する重要な契機となりつつある。
以上、伊藤守『ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか』(平凡社新書、2012)の「第7章 情報の「共有」という社会的価値」に拠る。
【参考】「【原発】社会的境界を横断するネット型の情報 ~3・11後の構造的変化~」
「【原発】「情報の価値」は「所有」か「共有」か」
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デジタルネットワーク上に「集合知」が生成されるための課題は何か。
(1)情報格差
「集合知」が形成されるにはさまざまな社会的条件があって、ことに一定のメディアリテラシーの存在は根源的条件だ。
現実には、(a)インターネットのなかの有益な情報を検索し、立体的に情報を編集できる社会層と、(b)新聞やテレビなどから情報を主な情報源とする社会層に分化する傾向が見られる。
社会的な規定因(文化資本、階層、年齢層など)の違いが、メディア接触の行動の相違を生み出している可能性が高い。
<例>ホットスポット地域では、(a)この問題に敏感でネットを通じてさまざまな情報にアクセスし、収集した情報を仲間と共有して行動している市民と、(b)そうではない層とに分化し、さまざまな対立が生じた。
(2)集団分極化
原発事故をめぐるネット上の議論には「集団分極化」がみられた。(a)政府や「御用学者」、それを伝えるマスメディアは嘘をついている、とする立場。(b)そうした見方は必要以上に不安を煽っている、としてマスメディアの情報を受容しつつ議論しようとする立場・・・・に。
政府発表を無批判に流し続けた、と視聴者に認識されたマスメディアに対して、それに代わるオルタナティブな情報がネットに流れたわけだが、それは「集団的分極化」の観点からすれば、特定の社会層においてのみ成立した複数の「集合知」のなかの一つだった。
当然ながら、社会的議論を行い、社会的な意思決定を行う際には、異なる異質な意見を聞き、専門家や市民の意見や行政側の主張も聞き、判断を保留して熟慮するような場と機構が必要だ。異なる主張を持つ者たちの討議空間としての「公共性」と「集合知」との関係が改めて議論されなければならない。
(3)情動の増幅
情報の伝達と深く関わる。プライベートな空間からプライベートな「私」の内部にダイレクトに届くリアリティの感覚を創り出す可能性がある。
<例>福島県内の学校施設の除染問題をめぐる映像が、官僚/役人に向かって市民から発せられた野次や怒号、市民から鋭い質問の矢が浴びせかけられるシーンなど、テレビではめったに映し出されない映像。
ネット動画特有のメディア特性が生み出すリアリティだ。テレビメディア特有のステレオタイプ化した報道の演出スタイルからは到底伝わらない臨場感と緊迫感をネット動画は伝える。
つまり、ネット空間では、従来の情報伝達以上に、その場の雰囲気、映し出された人物の感情や熱意や信念がダイレクトに伝わる。情報の受け手においても、情動を喚起するような情報が増幅されやすい。断片的な情報だからこそ、訴求力が強く、プライベートなかたちで次々と伝播する。瞬時に情動が喚起される。ネットに特有の情報様式だ。したがって、(a)風評やデマとして現れる場合もあれば、(b)「2011年アラブの春」に見られるような集合的行動が巻き起こり、多数の市民が参加する民主革命として現れることもある。
ネットの情報は、ネット情報だからこそ生まれる「負」「正」相互反転の特異な特性を帯びている。
原発事故をめぐる情報の流れにおいて、ネットが存在感を示した背景とその効果にはさまざまな側面がある。
①フリーのジャーナリストによる機敏な取材によって、既存メディアが伝える情報の「質」の相対化が進んだ。
②既存メディアが提供するのは「編集」された情報だ。他方、ネットでは「現場」から「第一次情報」をそのまま伝える。このネット上の情報は、既存メディアのステレオタイプ化した表現様式を相対化させた。
③従来はマスメディアが選択した形式(情報を多くの市民が消費する)だ。これとは異なり、ネットでは立場の異なる多様な市民の声がアップされ、ネットワーク化される技術的な条件が準備されることで、ボトムアップ型の「集合知」が成立する基盤が生まれた。ネット上の情報は、既存メディアを相対化する重要な契機となりつつある。
以上、伊藤守『ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか』(平凡社新書、2012)の「第7章 情報の「共有」という社会的価値」に拠る。
【参考】「【原発】社会的境界を横断するネット型の情報 ~3・11後の構造的変化~」
「【原発】「情報の価値」は「所有」か「共有」か」
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