既存メディアは、ボトムアップ型ネット情報によって相対化されることで、その弱点を露わにした。
(1)取材力の決定的な欠如
「ただちに健康に影響はない」との政府発表を垂れ流す一方で、自社の社員には「危ないから入るな」と指示する自己矛盾のなかでテレビは放送し続けた。
(a)3・11から1週間、テレビ各局は、未曾有の非常事態(原発事故)に対してそれに見合う取材態勢で臨んだはずだ。しかし、政府機関の取材を通して、避難区域の設定の根拠は何か、政府内部でどのような議論がなされたか、が伝えられることはなかった。住民の避難に向けた政府の対応、各自治体の連携状況など具体的な情報を伝えることで、官房長官の会見や政府発表の内容を相対化し、別の角度から批判的に検証する作業は不十分だった。
(b)避難住民や屋内退避地域の住民が経験した混乱や困難(食糧や医療品の途絶など)もほとんど報道されなかった。
(c)情報の大部分は、原発の破損状況に関する専門家の解説で占められ、避難民の姿はわずかな時間しか報じられなかった。
(d)「ホットスポット」の存在も報道しなかった。
(e)土壌の核種分析などを使えば、東電や政府が隠す炉心溶融はもっと早く喝破できたはずだが、科学者と連携した積極的な取材は、一部の例を除いては、まったく行われなかった。
(f)3・11から1週間の期間に限っても、テレビがSPEEDIに言及したのは、テレビ朝日で3月14日11時52分、解説者の斉藤正樹・東京工大教授が「放射性物質の拡散モデルを使ったシミュレーション」なる発言のみだった。これ以外、NHK科学文化部の記者・解説者を含めて、テレビ局側の記者の誰一人SPEEDIの存在に言及した者はいなかった。もし、文科省への取材すら行っていなかったとすれば、テレビの不作為の責任も問われる。SPEEDIの結果の公開の遅れは、政府・文化省の責任とともにメディア側にも責任があった。
(g)関係機関への取材のみならず、避難住民への取材も不十分だった。放射能汚染問題が顕在化した4月に起きた「福島県内の学校施設の汚染問題」は、テレビ局の取材の「浅さ」を鮮明に示す事態だった。単に政府発表をなぞる報道は、報道する側がもつべき問題関心の欠如、政府発表に対する批判的検証能力、鋭い嗅覚といったものの欠如を示す。もっとも問題が先鋭化し、対立点が明瞭に浮かびあがる地点での取材が、決定的に欠如していた。
(2)科学コミュニケーションの失敗
原発事故の報道において、わけても今後の課題とすべきは科学者/専門家とテレビ局との関係だ。現代社会は、ウルリッヒ・ベックのいわゆるリスク社会だ。科学者、科学技術の専門家の社会的責任はきわめて大きい。さらに、事故が起きた場合には、リスク管理と事態への迅速な対応に向けて、科学者が果たす役割が格段に大きい。今回の原発事故に関して、いくつかの基本的な問題を指摘できる。
(a)科学の特性上、「このデータからすれば、今後このようになる可能性は20%だ」といったかたちでの発言にならざるをえない。自然現象の解明でも社会現象のの解明でも、その点は全く変わらない。しかし、今回の原発事故の際に科学者により多用された「可能性」の言説は、前記の「可能性」とは言葉の使用法が異なっていた。「可能性」を語るに2通りの使い方がある。
①「事態が『炉心溶融』になっている可能性がきわめて低いと判断されるけれども、その可能性はゼロではなく、10%程度だ」
②「事態が『炉心溶融』になっている可能性がきわめて高いと判断される場合でも、実際に炉心を開けてみなければ本当はわからないのだから、『炉心溶融』は起こりうる(あるいは現に起きている)事態の一つの可能性にすぎない」
原発事故を解説する専門家の一部の発言は、まさに②の意味で行われていた。科学者の職業倫理に照らしてまことに不適切な発言だ。この種の発言は、事態を直視することを妨げるからだ。
(b)「『炉心溶融』になっている可能性は本当に低いと信じて(a)-①の意味で語ったとしたら、発言に問題はないか。そうは言えない。最悪の事態に至る可能性がゼロではなく、ある確率をもって生起することが予想できるならば、その最悪の事態を想定して「何が起こるか」という点に言及し、放射性物質の飛散から住民を最大限守るために採りうる選択肢は何か、積極的な発言を行うべきだった。しかし、そうした発言もなかった。
(c)一部の科学者が、自身の専門外の問題について容易に答えてしまう、という問題が見られた。原子炉工学が専門の科学者が、「偏西風が吹いているから、放射能の飛散についてはそれほど問題にはならない」といった発言は、科学者による科学コミュニケーションの失敗の典型的事例だ。
一人の専門家が専門家として語りえることなど、ごく一部にすぎない。メディアを通じた科学コミュニケーションの未成熟が顕わになった。
かかる問題は、テレビ側にも大きな責任があった。
①テレビは、科学の性格や科学者の発言の限界、巨大な科学技術が抱える政治性や政治的文脈を十分理解せずに、強引に自己解釈して「安全なんですね」と結論づけてしまうケースが見られた。
②もっと重要な問題だが、科学的根拠に基づく「起こりうる事態に関する可能性」の判断と、「採りうる選択肢の幅」と、「ある選択をした際のリスク」を科学者が語りうるとしても、その先の「では実際に、どの選択肢を採用するか」という問題は、科学を超えた「社会的な意思決定」の問題であるという点を、テレビは十分に自覚していなかった。
②の問題が鮮明なかたちで現れたのが「福島県内の学校施設の除染問題」だ。現時点で科学は、この問題について十分に答えることができない。科学によって問うことはできるが、科学によって答えることはできない。トランスサイエンスの問題の典型的な事例だ。年間20mSvを基準にするのか、より健康被害の恐れを回避するために基準を下げるか。こうしたトランスサイエンスの問題は、「社会的な意思決定」の問題として対応せざるをえない。メディアは論点を明確に伝える必要がある。場合によっては、係争点が浮き彫りになる空間自体をメディアが創り出すことも求められる。このいずれの点でも、既存のメディアは十分な機能を発揮しなかった。
以上、伊藤守『ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか』(平凡社新書、2012)の「第7章 情報の「共有」という社会的価値」に拠る。
【参考】「【原発】社会的境界を横断するネット型の情報 ~3・11後の構造的変化~」
「【原発】「情報の価値」は「所有」か「共有」か」
「【原発】ネット上の課題 ~「集合知」が生成されるために~」
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(1)取材力の決定的な欠如
「ただちに健康に影響はない」との政府発表を垂れ流す一方で、自社の社員には「危ないから入るな」と指示する自己矛盾のなかでテレビは放送し続けた。
(a)3・11から1週間、テレビ各局は、未曾有の非常事態(原発事故)に対してそれに見合う取材態勢で臨んだはずだ。しかし、政府機関の取材を通して、避難区域の設定の根拠は何か、政府内部でどのような議論がなされたか、が伝えられることはなかった。住民の避難に向けた政府の対応、各自治体の連携状況など具体的な情報を伝えることで、官房長官の会見や政府発表の内容を相対化し、別の角度から批判的に検証する作業は不十分だった。
(b)避難住民や屋内退避地域の住民が経験した混乱や困難(食糧や医療品の途絶など)もほとんど報道されなかった。
(c)情報の大部分は、原発の破損状況に関する専門家の解説で占められ、避難民の姿はわずかな時間しか報じられなかった。
(d)「ホットスポット」の存在も報道しなかった。
(e)土壌の核種分析などを使えば、東電や政府が隠す炉心溶融はもっと早く喝破できたはずだが、科学者と連携した積極的な取材は、一部の例を除いては、まったく行われなかった。
(f)3・11から1週間の期間に限っても、テレビがSPEEDIに言及したのは、テレビ朝日で3月14日11時52分、解説者の斉藤正樹・東京工大教授が「放射性物質の拡散モデルを使ったシミュレーション」なる発言のみだった。これ以外、NHK科学文化部の記者・解説者を含めて、テレビ局側の記者の誰一人SPEEDIの存在に言及した者はいなかった。もし、文科省への取材すら行っていなかったとすれば、テレビの不作為の責任も問われる。SPEEDIの結果の公開の遅れは、政府・文化省の責任とともにメディア側にも責任があった。
(g)関係機関への取材のみならず、避難住民への取材も不十分だった。放射能汚染問題が顕在化した4月に起きた「福島県内の学校施設の汚染問題」は、テレビ局の取材の「浅さ」を鮮明に示す事態だった。単に政府発表をなぞる報道は、報道する側がもつべき問題関心の欠如、政府発表に対する批判的検証能力、鋭い嗅覚といったものの欠如を示す。もっとも問題が先鋭化し、対立点が明瞭に浮かびあがる地点での取材が、決定的に欠如していた。
(2)科学コミュニケーションの失敗
原発事故の報道において、わけても今後の課題とすべきは科学者/専門家とテレビ局との関係だ。現代社会は、ウルリッヒ・ベックのいわゆるリスク社会だ。科学者、科学技術の専門家の社会的責任はきわめて大きい。さらに、事故が起きた場合には、リスク管理と事態への迅速な対応に向けて、科学者が果たす役割が格段に大きい。今回の原発事故に関して、いくつかの基本的な問題を指摘できる。
(a)科学の特性上、「このデータからすれば、今後このようになる可能性は20%だ」といったかたちでの発言にならざるをえない。自然現象の解明でも社会現象のの解明でも、その点は全く変わらない。しかし、今回の原発事故の際に科学者により多用された「可能性」の言説は、前記の「可能性」とは言葉の使用法が異なっていた。「可能性」を語るに2通りの使い方がある。
①「事態が『炉心溶融』になっている可能性がきわめて低いと判断されるけれども、その可能性はゼロではなく、10%程度だ」
②「事態が『炉心溶融』になっている可能性がきわめて高いと判断される場合でも、実際に炉心を開けてみなければ本当はわからないのだから、『炉心溶融』は起こりうる(あるいは現に起きている)事態の一つの可能性にすぎない」
原発事故を解説する専門家の一部の発言は、まさに②の意味で行われていた。科学者の職業倫理に照らしてまことに不適切な発言だ。この種の発言は、事態を直視することを妨げるからだ。
(b)「『炉心溶融』になっている可能性は本当に低いと信じて(a)-①の意味で語ったとしたら、発言に問題はないか。そうは言えない。最悪の事態に至る可能性がゼロではなく、ある確率をもって生起することが予想できるならば、その最悪の事態を想定して「何が起こるか」という点に言及し、放射性物質の飛散から住民を最大限守るために採りうる選択肢は何か、積極的な発言を行うべきだった。しかし、そうした発言もなかった。
(c)一部の科学者が、自身の専門外の問題について容易に答えてしまう、という問題が見られた。原子炉工学が専門の科学者が、「偏西風が吹いているから、放射能の飛散についてはそれほど問題にはならない」といった発言は、科学者による科学コミュニケーションの失敗の典型的事例だ。
一人の専門家が専門家として語りえることなど、ごく一部にすぎない。メディアを通じた科学コミュニケーションの未成熟が顕わになった。
かかる問題は、テレビ側にも大きな責任があった。
①テレビは、科学の性格や科学者の発言の限界、巨大な科学技術が抱える政治性や政治的文脈を十分理解せずに、強引に自己解釈して「安全なんですね」と結論づけてしまうケースが見られた。
②もっと重要な問題だが、科学的根拠に基づく「起こりうる事態に関する可能性」の判断と、「採りうる選択肢の幅」と、「ある選択をした際のリスク」を科学者が語りうるとしても、その先の「では実際に、どの選択肢を採用するか」という問題は、科学を超えた「社会的な意思決定」の問題であるという点を、テレビは十分に自覚していなかった。
②の問題が鮮明なかたちで現れたのが「福島県内の学校施設の除染問題」だ。現時点で科学は、この問題について十分に答えることができない。科学によって問うことはできるが、科学によって答えることはできない。トランスサイエンスの問題の典型的な事例だ。年間20mSvを基準にするのか、より健康被害の恐れを回避するために基準を下げるか。こうしたトランスサイエンスの問題は、「社会的な意思決定」の問題として対応せざるをえない。メディアは論点を明確に伝える必要がある。場合によっては、係争点が浮き彫りになる空間自体をメディアが創り出すことも求められる。このいずれの点でも、既存のメディアは十分な機能を発揮しなかった。
以上、伊藤守『ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか』(平凡社新書、2012)の「第7章 情報の「共有」という社会的価値」に拠る。
【参考】「【原発】社会的境界を横断するネット型の情報 ~3・11後の構造的変化~」
「【原発】「情報の価値」は「所有」か「共有」か」
「【原発】ネット上の課題 ~「集合知」が生成されるために~」
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