語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【原発】リスクとデインジャーを混同する野田首相 ~国際社会から「バカ」にされる日本~

2012年07月27日 | 震災・原発事故
 国際関係論では、危険をリスク(risk)とデインジャー(danger)に使い分ける。 
  (1)リスク
    マネージしたり、コントロールしたり、ヘッジしたりできる危険。
    <例>サッカーの試合で、残り時間5分で1点のビハインド。
  (2)デインジャー
    予防できない危険。まさかそんなことが起こるとは誰も予測しなかったために、マニュアルもガイドラインもない事態。
    <例>サッカースタジアムにゴジラが来襲して人々を踏みつぶし始める。

 原発事故は、(2)だ。いつ、どういう様態で、どのような被害をもたらすか、予測が立たない。
 原発事故の(2)に対する備えとは、事故が起きたときにどうやって人命を守るかという対症的措置のことだ。住民の避難経路の確保、収容施設の設置、事故対策のための施設や機材を全原発に配置・・・・それができる最大限だ。

 原発が停止したままでは電力が不足する、というのは(1)だ。想定されるシナリオ(停電頻発、電力料金高騰、医療機関におけるキュア困難、製造業の生産拠点海外移転)は、いずれもカネの話、カネで解決できる話だ。
 ただ、カネを出したくない人にとっては(2)より大事な案件だ。「命よりカネが大事だ」というのが、再稼働を進めた人のロジックだ。あまりに長きにわたり平和と繁栄になじんだせいで、年収を増やすことが生きる目的となり、経済競争に勝利することが国家目的だ、と信じるに至った人(国民の一部)が選択したロジックだ。

 必ず原発事故は起きる、とは言えなくても、ひとたび起きたときに日本が被る被害は、
  (a)国土の汚染や国民の健康被害。
  (b)「(2)というものがこの世にありうることを知らない国民」=「幼児」=「バカ」・・・・として国際社会から遇される。
 (b)がもたらす厄災は、電気料金や製品単価によってトレードオフされるようなものではない。

 大飯原発再稼働のとき、野田首相は「国民生活の安全を守る」という同じ一つの言葉で、(2)への備えと(1)への備えとを混同するカテゴリー・ミステイクを犯した。のみならず、「(2)より(1)を重く見る」という倒錯的な判断を下した。

 野田首相と原発再稼働推進派の人々は、目先の銭金を失うことを恐れて、「福島第一原発以外に新たな(2)は生じない(生じるかもしれないけれど、われわれの生きている間にはたぶん生じないだろう)」という楽観的希望に国運を賭けた。
 これほど視野の狭い面々が、国際社会(今後混迷の度を深めるはず)の舵取りをできるはずはない。

 以上、内田樹「野田首相は「リスク」と「デインジャー」を混同! それを許す国民を国際社会は「バカ」と見なす」(「SAPIO」2012年8月1・8日号)に拠る。
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