(1)国立国際美術館
大阪市北区中之島4-2-55
(2)展覧会
(a)「エル・グレコ」展 ⇒ 作品リスト
(b)宮永愛子「なかそら ~空中空~」展
(c)国立国際美術館コレクション
(3)特別企画展の会期
(a)2012年9月29日(土)~2013年1月6日(日)
(b)、(c)2012年10月13日(土)~12月24日(月)
(3)観覧料
(a)当日:一般 1,500円
(b)+(c)当日:一般 420円
(4)エル・グレコ
ドメニコス・テオトコプーロス、通称エル・グレコは、1541年、ヴェネツィア共和国支配下のクレタ島の首都イラクリオンに生まれ、1614年、フェリペ2世治下のスペインはトレドに没っした。
エル・グレコが描くところの人物は、自分の存在を他人に押しつけていない。「この人物は他人を傷つけないだろう」と感じさせられる。例えば、その目。対抗したり、他人のあら探しをする目ではない。この世から少し距離を置くまなざしだ。
写真は、「聖家族と聖アンナ」(1595年頃、油彩・画布)。
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(5)宮永愛子
1974年京都市・生/第22回五島記念文化賞美術新人賞受賞の2011年から米国・在住。
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(a)主催者による「なかそら ~空中空~」展の紹介(要旨)
宮永作品は時間と共に変化していく。<例>2003年発表の「靴」を題材とした作品で用いられているナフタリンは常温で昇華するため、最初の形が保たれない。その作品は「シンデレラ」と名づけられた【注1】。童話「シンデレラ」の作中で自ら崩れゆくガラスの靴を直喩すると同時に、戻ることのない時間の非情な流れを象徴的に示した【注2】。
作品「シンデレラ」の次の段階では、窯から出た焼物が長期間きれぎれに奏でる微かな音(貫入)をテーマとした作品を試みた。事物の形姿が変化する様が聴覚を通して認識される体験を、美術作品という枠組で普遍化しようとした。
変化し続ける自分の作品を念頭に、宮永は「なかそら」という言葉を紡ぎ出した。古語「なかぞら」は、どっちつかずで心が落ち着かない状態を意味する。宮永の「なかそら」もそれに近似して、未だに揺らぎがあることを示す言葉だ。おそらく、万物は全て変化し続けながら存在している、ということを象徴する宮永の作品は、全て「なかそら」の状態にあるのかもしれない。
【注1】「展示作品」の7。
【注2】<ナフタリンで象られた靴は一瞬だけ固有の時を留め、結晶を結びはじめるでしょう。>と宮永自身は語る(リーフレット「beginning of the landscapes MIYANAGA Aiko」、ミヅマアートギャラリー)。
(b)浅田彰(京都造形芸術大学大学院長)「エル・グレコから宮永愛子まで」(要旨)
「なかそら ~空中空~」展では、白いナフタリンでかたどられた日常のオブジェが儚く消滅していく。
宮永作品は淡雪のように儚く消えていくところがいかにも「日本的」であり「女性的」だと言われる。確かにそういう繊細な美しさをもつ。他方、モノが消滅していくのではなく、形を変えて存在し続ける過程を厳密に観察しようとするものでもある。
①展覧会に入口近くに置かれた細長い透明なケース(15m前後)には、奥に行くにつれ、ナフタリンの結晶が霜のように析出している。最初につくられたオブジェが順々に消滅していく・・・・のではなく、ケースに貼りついた結晶に形を変えて存在し続けていくのだ。モノは消滅することなく、ただ変化し続ける。そのようなヴィジョンのきわめて明確な表現だ(そこでの強調点は、エントロピーの不可逆的増大よりも、「空中空」が示唆する可逆性と質量の保存にある)。
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②次に進むと、今度は天井と床を垂直に結ぶ透明パイプの中に糸でつくられた梯子が吊られてある。そこにもまたナフタリンの結晶が少しずつまとわりついていく。生成変化する物質=エネルギーの循環が世界を網の目のように貫いていることのメタファーと言えようか。
③さらにその次に置かれているのは、椅子をまるごとナフタリンでかたどってアクリルの中に封じ込めた大作だ。少しずつアクリルを固めていった過程が積層として読み取れる(途中で混入した泡もあえてそのまま残してある)。ここでもまた、テーマはモノではなくコト・・・・生成変化の過程なのだ。椅子の脚の下にある小さなシールに注目すれば、その点がいっそうはっきり見て取れる。小さな空気穴を封じたそのシールを剥がすとき、作品は呼吸を始め、椅子型のナフタリンは長い時間をかけて揮発していくだろう。消滅ではなく別の形での存在に向かって。「waiting for awakening」と題するこの作品は、まさにそのような覚醒(消滅の開始ではない)の時をじっと待っているのだ。
④その次の展示室(蝶の森)は、邪魔な柱が気にならないよう、あえて柱や梯子の林立する森のように構成され、そこここに蝶をナフタリンでかたどったオブジェがはめこまれている【注3】。空間構成への強い意志は買うが、いささか煩雑な印象を禁じ得ない。
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⑤しかし、④のおかげで④を抜けたところにある吹き抜けの空間がいっそう広やかに感じられる。そこには、無数の金木犀の葉から葉脈だけを残したものをつなぎあわせた織物が、光を透かして静かに輝いているのだ【注4】。東北大震災の年にこつこつとつくられたこの織物は、その年のミズマアートギャラリーでの展覧会で見る者の目を奪ったのだが、いまや2倍にも3倍にも及ぶスケールに成長して観客を圧倒する。といっても、量感によって息詰まる印象を与えるのではなく、風通しのいい透明感によって自由な呼吸を促すのだ。
宮永愛子には、「あいちトリエンナーレ2010」で多くの観客を魅了した「結」【注5】のように、糸や綱を水に浸して塩を析出させる作品もあり、大阪でもかつてアートコートギャラリーで展示された「境 大川 2008」はギャラリ―の前を流れる川の汽水域に浸した糸を空間いっぱいに張り渡したダイナミズムが印象的だった。対して、今回はあくまで金木犀の織物を主役とし、やはり美術館の近くの堂島川の水20リットルに浸した糸が脇にさりげなく添えられている。余白を大きくとることで、観客がゆっくりと呼吸できるようにしている。見事な展示だ。
【注3】「展示作品」の5。
【注4】「展示作品」の1~3。
【注5】<インスタレーション「結(ゆい)」は、名古屋市街に流れる堀川から着想しました。堀川は400年前、名古屋城築城と同時に造られた輸送路としての運河です。木曽の山奥から檜が、木曽川を下り、海-川を上がりお城へやってきた道。森に生まれた木々が送った景色はどんなものだったのでしょう。>と宮永自身は語る(リーフレット「beginning of the landscapes MIYANAGA Aiko」、ミヅマアートギャラリー)。
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大阪市北区中之島4-2-55
(2)展覧会
(a)「エル・グレコ」展 ⇒ 作品リスト
(b)宮永愛子「なかそら ~空中空~」展
(c)国立国際美術館コレクション
(3)特別企画展の会期
(a)2012年9月29日(土)~2013年1月6日(日)
(b)、(c)2012年10月13日(土)~12月24日(月)
(3)観覧料
(a)当日:一般 1,500円
(b)+(c)当日:一般 420円
(4)エル・グレコ
ドメニコス・テオトコプーロス、通称エル・グレコは、1541年、ヴェネツィア共和国支配下のクレタ島の首都イラクリオンに生まれ、1614年、フェリペ2世治下のスペインはトレドに没っした。
エル・グレコが描くところの人物は、自分の存在を他人に押しつけていない。「この人物は他人を傷つけないだろう」と感じさせられる。例えば、その目。対抗したり、他人のあら探しをする目ではない。この世から少し距離を置くまなざしだ。
写真は、「聖家族と聖アンナ」(1595年頃、油彩・画布)。
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(5)宮永愛子
1974年京都市・生/第22回五島記念文化賞美術新人賞受賞の2011年から米国・在住。
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(a)主催者による「なかそら ~空中空~」展の紹介(要旨)
宮永作品は時間と共に変化していく。<例>2003年発表の「靴」を題材とした作品で用いられているナフタリンは常温で昇華するため、最初の形が保たれない。その作品は「シンデレラ」と名づけられた【注1】。童話「シンデレラ」の作中で自ら崩れゆくガラスの靴を直喩すると同時に、戻ることのない時間の非情な流れを象徴的に示した【注2】。
作品「シンデレラ」の次の段階では、窯から出た焼物が長期間きれぎれに奏でる微かな音(貫入)をテーマとした作品を試みた。事物の形姿が変化する様が聴覚を通して認識される体験を、美術作品という枠組で普遍化しようとした。
変化し続ける自分の作品を念頭に、宮永は「なかそら」という言葉を紡ぎ出した。古語「なかぞら」は、どっちつかずで心が落ち着かない状態を意味する。宮永の「なかそら」もそれに近似して、未だに揺らぎがあることを示す言葉だ。おそらく、万物は全て変化し続けながら存在している、ということを象徴する宮永の作品は、全て「なかそら」の状態にあるのかもしれない。
【注1】「展示作品」の7。
【注2】<ナフタリンで象られた靴は一瞬だけ固有の時を留め、結晶を結びはじめるでしょう。>と宮永自身は語る(リーフレット「beginning of the landscapes MIYANAGA Aiko」、ミヅマアートギャラリー)。
(b)浅田彰(京都造形芸術大学大学院長)「エル・グレコから宮永愛子まで」(要旨)
「なかそら ~空中空~」展では、白いナフタリンでかたどられた日常のオブジェが儚く消滅していく。
宮永作品は淡雪のように儚く消えていくところがいかにも「日本的」であり「女性的」だと言われる。確かにそういう繊細な美しさをもつ。他方、モノが消滅していくのではなく、形を変えて存在し続ける過程を厳密に観察しようとするものでもある。
①展覧会に入口近くに置かれた細長い透明なケース(15m前後)には、奥に行くにつれ、ナフタリンの結晶が霜のように析出している。最初につくられたオブジェが順々に消滅していく・・・・のではなく、ケースに貼りついた結晶に形を変えて存在し続けていくのだ。モノは消滅することなく、ただ変化し続ける。そのようなヴィジョンのきわめて明確な表現だ(そこでの強調点は、エントロピーの不可逆的増大よりも、「空中空」が示唆する可逆性と質量の保存にある)。
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②次に進むと、今度は天井と床を垂直に結ぶ透明パイプの中に糸でつくられた梯子が吊られてある。そこにもまたナフタリンの結晶が少しずつまとわりついていく。生成変化する物質=エネルギーの循環が世界を網の目のように貫いていることのメタファーと言えようか。
③さらにその次に置かれているのは、椅子をまるごとナフタリンでかたどってアクリルの中に封じ込めた大作だ。少しずつアクリルを固めていった過程が積層として読み取れる(途中で混入した泡もあえてそのまま残してある)。ここでもまた、テーマはモノではなくコト・・・・生成変化の過程なのだ。椅子の脚の下にある小さなシールに注目すれば、その点がいっそうはっきり見て取れる。小さな空気穴を封じたそのシールを剥がすとき、作品は呼吸を始め、椅子型のナフタリンは長い時間をかけて揮発していくだろう。消滅ではなく別の形での存在に向かって。「waiting for awakening」と題するこの作品は、まさにそのような覚醒(消滅の開始ではない)の時をじっと待っているのだ。
④その次の展示室(蝶の森)は、邪魔な柱が気にならないよう、あえて柱や梯子の林立する森のように構成され、そこここに蝶をナフタリンでかたどったオブジェがはめこまれている【注3】。空間構成への強い意志は買うが、いささか煩雑な印象を禁じ得ない。
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⑤しかし、④のおかげで④を抜けたところにある吹き抜けの空間がいっそう広やかに感じられる。そこには、無数の金木犀の葉から葉脈だけを残したものをつなぎあわせた織物が、光を透かして静かに輝いているのだ【注4】。東北大震災の年にこつこつとつくられたこの織物は、その年のミズマアートギャラリーでの展覧会で見る者の目を奪ったのだが、いまや2倍にも3倍にも及ぶスケールに成長して観客を圧倒する。といっても、量感によって息詰まる印象を与えるのではなく、風通しのいい透明感によって自由な呼吸を促すのだ。
宮永愛子には、「あいちトリエンナーレ2010」で多くの観客を魅了した「結」【注5】のように、糸や綱を水に浸して塩を析出させる作品もあり、大阪でもかつてアートコートギャラリーで展示された「境 大川 2008」はギャラリ―の前を流れる川の汽水域に浸した糸を空間いっぱいに張り渡したダイナミズムが印象的だった。対して、今回はあくまで金木犀の織物を主役とし、やはり美術館の近くの堂島川の水20リットルに浸した糸が脇にさりげなく添えられている。余白を大きくとることで、観客がゆっくりと呼吸できるようにしている。見事な展示だ。
【注3】「展示作品」の5。
【注4】「展示作品」の1~3。
【注5】<インスタレーション「結(ゆい)」は、名古屋市街に流れる堀川から着想しました。堀川は400年前、名古屋城築城と同時に造られた輸送路としての運河です。木曽の山奥から檜が、木曽川を下り、海-川を上がりお城へやってきた道。森に生まれた木々が送った景色はどんなものだったのでしょう。>と宮永自身は語る(リーフレット「beginning of the landscapes MIYANAGA Aiko」、ミヅマアートギャラリー)。
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