(1)安倍晋三の祖父、岸信介は、戦犯容疑の逮捕状が出された時、杉敏介(旧制一高の恩師/郷土の先輩)から「惜命」と題した歌を贈られた。
*二つなき命にかへて惜しけるは
千歳に朽ちぬ名にてこそあれ
郷土の偉人、吉田松陰の教えを知っている者なら命を惜しんで名を汚すな、つまり、自決せよ、という意味だ。
それに対して岸は、こんな歌を返した。
*名にかへてこのみいくさの正しさを
来世までも語り残さむ
「みいくさ」とは聖戦だ。聖戦は正しい、その正しさを来世までも語り残すために今死ぬわけにはいかない、と答えたのだ。
そして、巣鴨プリズンに連行され、3年間、ここで幽囚の日々を送った。
(2)岸は、東条英機と最後にぶつかったことが幸いして、戦犯容疑を免れた。巣鴨プリズンを出されるや、ある新聞記者に問われて言った。
「私は、巣鴨生活で過去は一切精算したつもりだ。したがって自分としては(日本の再建を唱える)その資格はあると思う。他から東条内閣の同僚だとか軍の手先だとかいわれるかも知れない。それはある程度事実なんだから止むを得ないが、現在の自分の気持としては元商工大臣とか翼政総務だとか、そんな過去の経歴にこだわる気持は毛頭ない」
つまり、岸はまったく反省していないのだ。
負けて失敗した、とは思っていても、あの戦争を起こすべきではなかった、などとはちっとも考えていない。
それは、関東軍と提携して統制経済の実験場とした満州国を
「まるで白紙に描くようにして造ったわたしの作品」
と言い切ったことからも明らかだ。
大日本帝国のカイライである満州国を5人の実力者「二キ三スケ」が操った。
東条英機(とうじょう ひでキ)
星野直樹(ほしの なおキ)
松岡洋右(まつおか ようスケ)
鮎川義介(あゆかわ よしスケ)
岸信介(きし しんスケ)
これに、満州の夜を支配した、とされる甘粕正彦を加えてもいい。
(3)日米開戦まもない1941年12月20日付け「朝日新聞」に、岸は商工大臣としての談話を寄せた。
「かく観(み)来れば大東亜地域において自給し得ざるものは僅々数種に過ぎないのであって、これ等とてもわが科学、技術の力により代用資源を合成創造することが出来、資源の不足は十分補填し得ると思ふ。かくてわが国は東亜共栄圏の基礎の上に世界無比の完全なる国防国家を建設することが出来るのであって、東亜経済の前途誠に洋々たるものがあると云はねばならぬ」
これは、東条の発言として読んでも何ら違和感が生じない。
岸は、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」といった極端な精神主義で国民を戦争に引きずり込んだ。
(4)戦後、岸は日米安全保障条約を強化しようとした。
それは中国敵視政策につながる、として竹内好・都立大学教授(当時)は反対して辞職した。竹内は、講演会などで、こう訴えた。
「いままでわれわれはあまりにもお人好しでした。何回も彼を許した。戦犯であることを許し、ベトナム賠償のときに許し、許すごとに彼はわれわれの許したことを栄養に吸い取って、ファシストとして成長してきた」
『戦後史の正体』の孫崎享は、岸を評価する。孫崎は、「お人好し」の典型だ。
同じ自民党でも、鳩山一郎は「総理大臣が金儲けしちゃいかん」と言った。
河野一郎は、「岸を総理にしたのは日本のためによくなかった」と吐き棄てた。
□佐高信「岸信介の悪さの研究 ~新・政経外科 第45回~」(「週刊金曜日」2015年9月4日号)
↓クリック、プリーズ。↓
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*二つなき命にかへて惜しけるは
千歳に朽ちぬ名にてこそあれ
郷土の偉人、吉田松陰の教えを知っている者なら命を惜しんで名を汚すな、つまり、自決せよ、という意味だ。
それに対して岸は、こんな歌を返した。
*名にかへてこのみいくさの正しさを
来世までも語り残さむ
「みいくさ」とは聖戦だ。聖戦は正しい、その正しさを来世までも語り残すために今死ぬわけにはいかない、と答えたのだ。
そして、巣鴨プリズンに連行され、3年間、ここで幽囚の日々を送った。
(2)岸は、東条英機と最後にぶつかったことが幸いして、戦犯容疑を免れた。巣鴨プリズンを出されるや、ある新聞記者に問われて言った。
「私は、巣鴨生活で過去は一切精算したつもりだ。したがって自分としては(日本の再建を唱える)その資格はあると思う。他から東条内閣の同僚だとか軍の手先だとかいわれるかも知れない。それはある程度事実なんだから止むを得ないが、現在の自分の気持としては元商工大臣とか翼政総務だとか、そんな過去の経歴にこだわる気持は毛頭ない」
つまり、岸はまったく反省していないのだ。
負けて失敗した、とは思っていても、あの戦争を起こすべきではなかった、などとはちっとも考えていない。
それは、関東軍と提携して統制経済の実験場とした満州国を
「まるで白紙に描くようにして造ったわたしの作品」
と言い切ったことからも明らかだ。
大日本帝国のカイライである満州国を5人の実力者「二キ三スケ」が操った。
東条英機(とうじょう ひでキ)
星野直樹(ほしの なおキ)
松岡洋右(まつおか ようスケ)
鮎川義介(あゆかわ よしスケ)
岸信介(きし しんスケ)
これに、満州の夜を支配した、とされる甘粕正彦を加えてもいい。
(3)日米開戦まもない1941年12月20日付け「朝日新聞」に、岸は商工大臣としての談話を寄せた。
「かく観(み)来れば大東亜地域において自給し得ざるものは僅々数種に過ぎないのであって、これ等とてもわが科学、技術の力により代用資源を合成創造することが出来、資源の不足は十分補填し得ると思ふ。かくてわが国は東亜共栄圏の基礎の上に世界無比の完全なる国防国家を建設することが出来るのであって、東亜経済の前途誠に洋々たるものがあると云はねばならぬ」
これは、東条の発言として読んでも何ら違和感が生じない。
岸は、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」といった極端な精神主義で国民を戦争に引きずり込んだ。
(4)戦後、岸は日米安全保障条約を強化しようとした。
それは中国敵視政策につながる、として竹内好・都立大学教授(当時)は反対して辞職した。竹内は、講演会などで、こう訴えた。
「いままでわれわれはあまりにもお人好しでした。何回も彼を許した。戦犯であることを許し、ベトナム賠償のときに許し、許すごとに彼はわれわれの許したことを栄養に吸い取って、ファシストとして成長してきた」
『戦後史の正体』の孫崎享は、岸を評価する。孫崎は、「お人好し」の典型だ。
同じ自民党でも、鳩山一郎は「総理大臣が金儲けしちゃいかん」と言った。
河野一郎は、「岸を総理にしたのは日本のためによくなかった」と吐き棄てた。
□佐高信「岸信介の悪さの研究 ~新・政経外科 第45回~」(「週刊金曜日」2015年9月4日号)
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