語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【詩歌】谷川雁「ゲッセマネの夜」

2015年09月22日 | 詩歌
 膝まずいて彼は祈っていた
 荒々しく澄みきった水晶の間から
 ガリラヤの魚が一匹 しずかに泳ぎさった
 群衆と予言に狭められた谷間をながれ
 新約の盃は
 危機をたたえた淵に浮いていた
 そのうえをかすかな吐息が過ぎた
 世界の隅でさらと何かが崩れた
 繊い十字が飛んだ
 
 まだ低く訴えている
 彼の肉体は苦しい栄光に
 もうほとんど透きとおっていた
 午前三時迫りくる「あれ」のために
 世界は闇のなかで粧うた
 銀河は高貴な声のように遠く
 夜は若かった
 香油の時は一滴々々彼の額にそそいでいた
 血のうせた指を彼はそっと折ってみた
 星達は秘かな関係(かかわり)を断った
 霧のつめたさが拳につたわるだけであった
 
 泥土のような観念がめざめた
 このうえもなく暗い形象に
 ほんのすこし罅(ひび)が入った
 肉を破ろうとして新しい歯は
 さらに深く苦痛を埋めねばならなかった
 
 膝まずいて彼は祈っていた
 断崖のまえで人が自己を売渡す
 あの絶対の暗黒はいま
 彼の肉から脱けだし
 かなたにいる弟子達のうえにたなびいた
 彼等は犬のように眠っていた
 イエスの周りをはう
 茨のわかい棘だけが爪のように
 ほのあかい夜明けの光を刺した

□谷川雁「ゲッセマネの夜」(『谷川雁詩集』思潮社、1968)
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