【佐藤優】ソ連という「帝国」とその自壊 ~民族問題~
(1)ソビエト社会主義共和国連邦は、国民国家(ネイション・ステート)とは異なる独自の原理によって組み立てられた国家だった。
国名に民族を示唆する言葉が一つもない。
ソ連民族(ソビエツカヤ・ナーツィヤ)というロシア語も存在しない。
ソ連人(ソビエツキー・ナロード)という言葉が当局によって慫慂され、当時あの国に住んでいた人々の「われわれ」を表す意味で使われていたが、ソ連崩壊後は死語になった。
(2)ソ連では、民族問題はブレジネフ時代に最終に解決された、諸民族は「融合(スリヤーニエ)」と「開花(プロツベアニエ)」を遂げた・・・・ことになっていた。
この公式見解は、論理的に矛盾する。「融合」すると、唯一のソ連人という概念に統合される。「開花」すると、ソ連人という概念を放棄しなければならない。
ブレジネフ時代には、ソ連はどちらの選択もおこなわず、あえて絶対矛盾の自己同一のような状態を放置した。ソ連当局は、あえてこのような曖昧政策をとったのだ。
「融合」政策と「開花」政策が振り子のように揺れつづけ、ゴルバチョフ時代に「開花」の方向に振り子が揺れすぎて、ソ連という器をぶち壊した。
(3)ブレジネフは、類い稀れな能力をもった政治家だった。ソ連を安定したシステムとして維持するには、物事をあまり突きつめて考えてはいけないという経験知をもっていた。
ブレジネフ時代に、ソ連に住む人々は初めて、日常的に肉や魚を食べることになった。ロシア人にとって、狭いながらも国家が住宅を与えてくれ、食べることの不安がない「豊かな社会」が訪れた。
特に、コーカサスや中央アジアなどの地域での食糧事情の改善にブレジネフ政権は努力した。これらの地域が経済的に遅れていて、そこから被差別感が生じ、ナショナリズムの高揚につながることを政権側が恐れたからである。
(4)通常、帝国には、中心と周縁がある。近世以降の帝国には宗主国と植民地がある。
しかし、ソ連帝国は、このような宗主国と植民地という構成をとっていなかった。
もちろん、ソ連帝国にも中心があった。その場所は、モスクワの「赤の広場」から徒歩5分、「スターラヤ・プローシャジ(旧い広場)」である。ここにソ連共産党中央委員会の建物があった。絢爛豪華なクレムリンの建物にくらべ、じつに質素なこの建物のなかにソ連共産党中央委員会書記長室があった。この書記長室こそ、「中心のなかの中心」であった。
(5)ソ連共産党中央委員会は、絶大な権力をもっていた。
責任を追及されることはないという無責任権力だった。共産党中央委員会が企画し、政府に命じる。所期の成果があがれば、共産党中央委員会が7割、政府が3割くらいの比率で成果を分配する。他方、失敗した場合、責任を10割、政府に負わせる。
(6)<ソ連帝国に住むひとりひとりは複合アイデンティティーをもっていた。ひとりの人間のなかに、ソ連人、ロシア人、ウクライナ人、ユダヤ人という民族意識、ロシア正教徒、ムスリム(イスラム教徒)、ユダヤ教徒という宗教意識、更にシベリア人、極東人、コーカサス人、ボルガ人などの地域と結びついた意識が渾然一体とし、整理されないままで並存していた>
(7)1991年8月のソ連共産党守旧派によるクーデター未遂事件の結果、ソ連の解体がはじまった。
<率直にいうと、行政エリートや知識人の大多数は非共産主義的なソ連を維持することの方が地域安定にも国民の生活水準を維持するためにも適当と考えていた。しかし、一旦、始まった自壊のプロセスを誰もおしとどめることができなくなった>
□佐藤優『沖縄・久米島から日本国家を読み解く』(小学館、2009)の「第一章 ソ連帝国の自壊」
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(1)ソビエト社会主義共和国連邦は、国民国家(ネイション・ステート)とは異なる独自の原理によって組み立てられた国家だった。
国名に民族を示唆する言葉が一つもない。
ソ連民族(ソビエツカヤ・ナーツィヤ)というロシア語も存在しない。
ソ連人(ソビエツキー・ナロード)という言葉が当局によって慫慂され、当時あの国に住んでいた人々の「われわれ」を表す意味で使われていたが、ソ連崩壊後は死語になった。
(2)ソ連では、民族問題はブレジネフ時代に最終に解決された、諸民族は「融合(スリヤーニエ)」と「開花(プロツベアニエ)」を遂げた・・・・ことになっていた。
この公式見解は、論理的に矛盾する。「融合」すると、唯一のソ連人という概念に統合される。「開花」すると、ソ連人という概念を放棄しなければならない。
ブレジネフ時代には、ソ連はどちらの選択もおこなわず、あえて絶対矛盾の自己同一のような状態を放置した。ソ連当局は、あえてこのような曖昧政策をとったのだ。
「融合」政策と「開花」政策が振り子のように揺れつづけ、ゴルバチョフ時代に「開花」の方向に振り子が揺れすぎて、ソ連という器をぶち壊した。
(3)ブレジネフは、類い稀れな能力をもった政治家だった。ソ連を安定したシステムとして維持するには、物事をあまり突きつめて考えてはいけないという経験知をもっていた。
ブレジネフ時代に、ソ連に住む人々は初めて、日常的に肉や魚を食べることになった。ロシア人にとって、狭いながらも国家が住宅を与えてくれ、食べることの不安がない「豊かな社会」が訪れた。
特に、コーカサスや中央アジアなどの地域での食糧事情の改善にブレジネフ政権は努力した。これらの地域が経済的に遅れていて、そこから被差別感が生じ、ナショナリズムの高揚につながることを政権側が恐れたからである。
(4)通常、帝国には、中心と周縁がある。近世以降の帝国には宗主国と植民地がある。
しかし、ソ連帝国は、このような宗主国と植民地という構成をとっていなかった。
もちろん、ソ連帝国にも中心があった。その場所は、モスクワの「赤の広場」から徒歩5分、「スターラヤ・プローシャジ(旧い広場)」である。ここにソ連共産党中央委員会の建物があった。絢爛豪華なクレムリンの建物にくらべ、じつに質素なこの建物のなかにソ連共産党中央委員会書記長室があった。この書記長室こそ、「中心のなかの中心」であった。
(5)ソ連共産党中央委員会は、絶大な権力をもっていた。
責任を追及されることはないという無責任権力だった。共産党中央委員会が企画し、政府に命じる。所期の成果があがれば、共産党中央委員会が7割、政府が3割くらいの比率で成果を分配する。他方、失敗した場合、責任を10割、政府に負わせる。
(6)<ソ連帝国に住むひとりひとりは複合アイデンティティーをもっていた。ひとりの人間のなかに、ソ連人、ロシア人、ウクライナ人、ユダヤ人という民族意識、ロシア正教徒、ムスリム(イスラム教徒)、ユダヤ教徒という宗教意識、更にシベリア人、極東人、コーカサス人、ボルガ人などの地域と結びついた意識が渾然一体とし、整理されないままで並存していた>
(7)1991年8月のソ連共産党守旧派によるクーデター未遂事件の結果、ソ連の解体がはじまった。
<率直にいうと、行政エリートや知識人の大多数は非共産主義的なソ連を維持することの方が地域安定にも国民の生活水準を維持するためにも適当と考えていた。しかし、一旦、始まった自壊のプロセスを誰もおしとどめることができなくなった>
□佐藤優『沖縄・久米島から日本国家を読み解く』(小学館、2009)の「第一章 ソ連帝国の自壊」
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