(1)井上章一(国際日本文化研究センター副所長)『京都ぎらい』(朝日新書、2015)は2015年度「新書大賞」に輝いた。
京都市・嵯峨の釈迦堂と二尊院の間あたりで育った井上氏は、長ずるにつれて、ある違和感を抱くようになった。京都市中心部の「洛中」の人びとが、同じ京都市民であるにもかかわらず、どうも嵯峨のような「洛外」の人びとを見下しているらしい・・・・。
学生時代、研究のため洛中のある名家を訪ねた際、井上氏の出身地を聞いて、当主の杉本氏(故人)がこんなことを言った。
<この応答に、杉本氏はなつかしいと言う。嵯峨のどこが、どう思い出深いのか。杉本氏は、こう私につげた。「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥(こえ)をくみにきてくれたんや」(中略)そこに揶揄的なふくみのあることは、いやおうなく聞き取れた>
「本当の京都と呼べるのは洛中だけ」というのは、関西、少なくとも京都府内においては常識に属すること。それどころか、「京都市の中でも中京区だけが洛中」、さらに「室町幕府の『花の御所』があった地域だけが真の洛中」という「過激派」の京都人もいる。
洛中には、室町時代から代々同じ場所に住み続けている豊かな商人の末裔が多く、彼らには「京都の代名詞」ともいえる祇園祭などの文化を支えてきたという自負がある。中には、未だに東京に行くことを「東下り」と言う人も少なくない。
(2)この「洛中中心主義」は、洛中から離れるにつれて「京都市中心主義」、そして「京都府中心主義」と裾野を広げ、まるで目に見えないピラミッドのように、京都府全域を覆っている。
(3)京都人の内面を考えるうえで、もう一つ絶対に欠かすことができない要素が「いけず」だ。意地悪、ずうずうしい、といった意味だと国語辞典は教えるが、ニュアンスがちょっと違う。
<例1>お隣のピアノの音がうるさいと思っても、「うるさい」とは言わない。「お上手ですなあ」と言う。
<例2>強引な営業マンが来ても、直接「嫌だ」とは言わずに「お元気な人ですなあ」と言ったりする。
<例3>名高い「ぶぶ漬け」。京都の家を訪れて「ぶぶ漬け、いかがどすか?」と言われたら、長居しないで帰れ、と言っているのだ。
<例4>「まあ、きれいなネクタイしてはるなあ」→【翻訳】「派手なネクタイして、あんた何考えてんの」
<例5>「何を着ても似合わはりますなあ」→【翻訳】「そんな格好をして、恥ずかしゅうないんかい」
<例6>料亭などで、うんちくを傾ける客に「お客さん、よう知ってはりますなあ」→【翻訳】「つまらんこと言わんと、黙って食べたら」
<例7>子連れの親に「まあ、元気のええお子さんやな。子どもは元気が一番や」→【翻訳】「静かにさせななさい。どんな躾をしてるんや」
<例8>京都の外から移住してきた家の庭先を見て「きれいにしてはりますなあ」→【翻訳】「毎朝掃除せんかい。草ぐらいむしれ」
(4)京都人は、(3)のような「いけず」をニコニコしながら言ってのけるので、勝手を知らぬ非・京都人は、思わず「ありがとうございます」なんて返してしまう。
しかし、おそらくこの瞬間、目の前の京都人の目はまったく笑っていないはずだ。
実は、京都人からすると、「いけず」はあくまで相手を気遣っているがゆえの社交術で、「察してください」ということだ。
では、なぜ「いけず」を言わずにはいられないのか。
背景には、やはり京都の「都」としての来歴があるのではないか、と金谷俊一郎・歴史作家/京都市出身はいう。京都の歴史は、戦乱の歴史でもあった。室町時代の応仁の乱、幕末の蛤御門の変など、戦のたびに京都は「よそ者」に破壊されてきた。だから、京都人は、自分の身は自分で守る、という思いが強いのだ、うんぬん。
「いけず」にも、それなりに理由がある。京都の「いけず」に対応するのが、パリの「エスプリ」つまりユーモアだ。これらの古都では、多くの市民が無用な衝突を生まないように、ほどほどの距離を保つ会話術が昔から発達したのだ。【長田貴仁・経営学者】
「いけず」は優れた文化だ。よそ者を排除するためのものではなく、逆に「いけず」があるからこそ、京都では知らない人同士でも深いやりとりができるのだ、ともいえる。「いけず」は京都という街の奥行きを端的に示している。【山折哲雄・宗教学者】
□記事「歩く「いけず」 言っていることを信じてはいけない 京都陣のウラとオモテを楽しむ」(「週刊現代」2016年3月19日号)
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【参考】
「【松田道雄】京ことば、その表層と深層」
京都市・嵯峨の釈迦堂と二尊院の間あたりで育った井上氏は、長ずるにつれて、ある違和感を抱くようになった。京都市中心部の「洛中」の人びとが、同じ京都市民であるにもかかわらず、どうも嵯峨のような「洛外」の人びとを見下しているらしい・・・・。
学生時代、研究のため洛中のある名家を訪ねた際、井上氏の出身地を聞いて、当主の杉本氏(故人)がこんなことを言った。
<この応答に、杉本氏はなつかしいと言う。嵯峨のどこが、どう思い出深いのか。杉本氏は、こう私につげた。「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥(こえ)をくみにきてくれたんや」(中略)そこに揶揄的なふくみのあることは、いやおうなく聞き取れた>
「本当の京都と呼べるのは洛中だけ」というのは、関西、少なくとも京都府内においては常識に属すること。それどころか、「京都市の中でも中京区だけが洛中」、さらに「室町幕府の『花の御所』があった地域だけが真の洛中」という「過激派」の京都人もいる。
洛中には、室町時代から代々同じ場所に住み続けている豊かな商人の末裔が多く、彼らには「京都の代名詞」ともいえる祇園祭などの文化を支えてきたという自負がある。中には、未だに東京に行くことを「東下り」と言う人も少なくない。
(2)この「洛中中心主義」は、洛中から離れるにつれて「京都市中心主義」、そして「京都府中心主義」と裾野を広げ、まるで目に見えないピラミッドのように、京都府全域を覆っている。
(3)京都人の内面を考えるうえで、もう一つ絶対に欠かすことができない要素が「いけず」だ。意地悪、ずうずうしい、といった意味だと国語辞典は教えるが、ニュアンスがちょっと違う。
<例1>お隣のピアノの音がうるさいと思っても、「うるさい」とは言わない。「お上手ですなあ」と言う。
<例2>強引な営業マンが来ても、直接「嫌だ」とは言わずに「お元気な人ですなあ」と言ったりする。
<例3>名高い「ぶぶ漬け」。京都の家を訪れて「ぶぶ漬け、いかがどすか?」と言われたら、長居しないで帰れ、と言っているのだ。
<例4>「まあ、きれいなネクタイしてはるなあ」→【翻訳】「派手なネクタイして、あんた何考えてんの」
<例5>「何を着ても似合わはりますなあ」→【翻訳】「そんな格好をして、恥ずかしゅうないんかい」
<例6>料亭などで、うんちくを傾ける客に「お客さん、よう知ってはりますなあ」→【翻訳】「つまらんこと言わんと、黙って食べたら」
<例7>子連れの親に「まあ、元気のええお子さんやな。子どもは元気が一番や」→【翻訳】「静かにさせななさい。どんな躾をしてるんや」
<例8>京都の外から移住してきた家の庭先を見て「きれいにしてはりますなあ」→【翻訳】「毎朝掃除せんかい。草ぐらいむしれ」
(4)京都人は、(3)のような「いけず」をニコニコしながら言ってのけるので、勝手を知らぬ非・京都人は、思わず「ありがとうございます」なんて返してしまう。
しかし、おそらくこの瞬間、目の前の京都人の目はまったく笑っていないはずだ。
実は、京都人からすると、「いけず」はあくまで相手を気遣っているがゆえの社交術で、「察してください」ということだ。
では、なぜ「いけず」を言わずにはいられないのか。
背景には、やはり京都の「都」としての来歴があるのではないか、と金谷俊一郎・歴史作家/京都市出身はいう。京都の歴史は、戦乱の歴史でもあった。室町時代の応仁の乱、幕末の蛤御門の変など、戦のたびに京都は「よそ者」に破壊されてきた。だから、京都人は、自分の身は自分で守る、という思いが強いのだ、うんぬん。
「いけず」にも、それなりに理由がある。京都の「いけず」に対応するのが、パリの「エスプリ」つまりユーモアだ。これらの古都では、多くの市民が無用な衝突を生まないように、ほどほどの距離を保つ会話術が昔から発達したのだ。【長田貴仁・経営学者】
「いけず」は優れた文化だ。よそ者を排除するためのものではなく、逆に「いけず」があるからこそ、京都では知らない人同士でも深いやりとりができるのだ、ともいえる。「いけず」は京都という街の奥行きを端的に示している。【山折哲雄・宗教学者】
□記事「歩く「いけず」 言っていることを信じてはいけない 京都陣のウラとオモテを楽しむ」(「週刊現代」2016年3月19日号)
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【参考】
「【松田道雄】京ことば、その表層と深層」