節分の日である2月3日(金)、比企郡嵐山町川島1898に鎮座する鬼鎮神社の節分祭に行ってきました。
鬼を祀っている神社は全国に4つ、関東ではこの鬼鎮神社だけのようです。でも、鬼を祀るなら、普通「鬼神」であるべきなのに、「鬼鎮」では鬼を鎮めるわけ
ですからちょっと意味合いが違いますね。「鬼神」ではなく「鬼鎮」なのはそれなりの理由があるのかもしれませんし、かつては「鬼神社」、「鬼神明神社」の
社号であったようです。鬼を祀っていることから、節分の豆まきでは年男の中に赤鬼・青鬼も混じって一緒に、「福は内 鬼は内 悪魔外」と言って豆撒きをします。
そんな珍しい節分祭であることから、小さな神社ながらもメディアにもよく取り上げられているようです。
鬼鎮神社には、老若男女が次々と いや、老老男女かな(失礼)
祭礼(豆撒き)までにはまだ時間があります。
それまでの時間を利用して、この2日前の2月1日(水)に、場所の確認と下見をしてきた時の写真で、少しばかし神社の紹介を・・・
参道
「鬼鎮神社」の社号標
手水舎
光沢のある説明板のため、風景人物が映ってしまい、内容を説明板で代用できませんので転記しておきます。
鬼鎮神社 御由緒
埼玉県比企郡嵐山町に、畠山重忠公が御造営された菅谷館(菅谷城)があった。 当神社は、その鬼門除けの守護神として、鎌倉街道に沿って建立され、
節分祭、勝負の神 として有名である。 約八百年前、安徳天皇の御代、寿永元年に創建され、御祭神は衝立船戸神、八衢比古命、 八衢比売命で、主神の、
衝立船戸神は、伊邪那岐命が黄泉の国を訪れた後、筑紫日向の橋 小門の阿波岐原で、禊祓いをして持っていた杖を投げ出した時、杖より生まれた神である。
それが幅広く解釈されて、悪魔払いの神、家内安全商売繁昌の神、受験の神と、人生の指 針を示し、強い力を授ける神として崇められている。
節分祭は、鬼鎮神社において一番大きな祭りで、この日は何千何万の人々が「福は内、鬼 は内、悪魔外」と連呼する、日本でここだけの鬼の祭りであり、
境内は大変な賑わいを見 せる。 遠く千年の昔から、勇名を馳せた坂東武者、明治以降の出征兵士の崇敬篤く、戦後は、受 験必勝の神様として参拝者は
後を絶たず、社頭を賑わしている。 このようなことから「鬼に金棒」と昔から云われている金棒のお守り、祈願成就赤鬼青鬼の 絵馬を授与される方が、非常に多い。
奉納者芳名 (省略)
平成26年2月3日
さらに地元では「鬼鎮様」と呼ばれる伝説も残されています
ある刀鍛冶の元に若者が弟子入りした。そして大いに働きだし、ある時、親方の娘を嫁に欲しいと言ってきた。鍛冶屋は「1日に刀を100本打てたら嫁に
やろう」と約束する。すると若者は一心不乱に刀を打ち始めた。その勢いは凄まじく、親方は気になって様子を覗いた。すると若者の姿はいつしか変じて
鬼となっていたのである。おののいた親方は、無理やり鶏を啼かして夜が明けたことにして、作業を中断させた。そして夜が本当に明けた頃に仕事場に行くと、
最後の1本を作るところで若者は槌を握ったまま死んでいた。哀れに思った親方は「鬼鎮様」として宮を建てて祀ったという。
これは鏡面に赤鬼・青鬼が描かれいる 写真にするのは難しいです
社殿
唐破風の屋根の鬼瓦はまさに鬼瓦です
奉納額には、鬼鎮神社の社号の両脇に青鬼・赤鬼が描かれています
神紋は畠山氏の家紋と同じ「五三の桐紋」ですから、やはり菅谷館・畠山重忠とのつながりでしょう
鬼に金棒 沢山の金棒が奉納されています
豆撒き用の舞台(ステージ)が既に出来上がっていました
いよいよ豆撒きが始まります 赤鬼・青鬼もいます
強風のため紅白の幕が孕みぱなしです 境内は砂利ではなく土なので土埃が舞い、衣服やカメラが土埃まみれです
豆やミカンなどが撒かれますが、袋や帽子を広げて「福」をゲットしようと・・・
皆さん必死です 特に女性は・・・
「福」を頂きました。無論一人での収穫ではありませんが。