四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

石戸城(埼玉県北本市)

2018年04月26日 | 100名城以外の城館跡


城 名:石戸城(いしどじょう)
別 名:天神山城
形 態:平城
時 期:室町時代長禄年間(15世紀後半)
築城主:藤田八右衛門
城 主:藤田八右衛門・毛利丹後守・依田大膳亮
遺 構:土塁・空堀・沼・一夜堤
指 定:県選定重要遺跡(石戸城跡 昭和44年(1969)10月1日選定)
現 状:山林・宅地
所在地:埼玉県北本市石戸宿6

大宮台地西端の北に延びる舌状台地先端部に築城されたのがこの石戸城です。東、北、西は急崖、西は荒川河川敷、北と東は
溺れ谷となっていて、城域は南北250mに及ぶ。戦国時代には岩付城の付城として機能し、松山城に対する向城として重要
な役割を担っていた。岩付城主太田資頼は北条氏綱に岩付城を攻められた済にはこの石戸城に逃げ込んでいる。




四の郭脇から北方に石戸城跡を望む 五の郭南西隅に目障りなものが2つも建っています




石戸城跡説明板
以前(平成28年秋)に訪れたときは、プリントした説明文と地図を板に貼りつけビニールで覆っただけの簡素のものでした。
この時はその説明板を見ただけで帰ってきてしまいましたが、その半年後にはこんな立派な説明板に代わっていたようです。




石戸城跡見取図




説明板脇から見た五の郭  窪みは堀跡(推定)




同じく説明板脇から見た三の郭方向




五の郭南側の道路  住宅のある辺りが三の郭




四の郭を南方から北方に




四の郭南側にある空堀跡




四の郭脇から北方にある一の郭(主郭)方向を
右側の車がとまっているエリアも一の郭(主郭)であるが道路によって分断されている




一の郭(主郭)西側部分




一の郭(主郭)の電柱横に何か見えます




石戸城跡の説明板です
五の郭の所で以前見た説明板の半分くらいの大きさです  
その以前見たものよりも古い日付のもので文面も若干の違いがあります これを含め3種の説明板を見たことになりますが内
容自体には変わりはないものの文面・図面配置はそれぞれ異なっています(こんな話より遺構のお話をと言われそうですね)




分断されている東側の一の郭の中に物見櫓台と推定される地形が見えますが、一般の住宅内なので撮影しづらく遠目から
U字型のテントの後方に見える高まり




分断されている一の郭(主郭)東側の土塁  土塁の先に見えるのが桜堤




土塁断面 土塁の上にまではさすが上がりませんでしたが




土塁北側から南方の郭内方向を




一の郭と三の郭の間の堀切(切通し)  左側が一の郭 右側が三の郭




桜堤から降りてきた道と合流する堀切(切通し) 下に進んで右折すると一夜堤方向へ




三の郭の東側土塁の外側に設置されている案内板




一夜堤口を示す案内板




遊歩道案内図




案内板後ろに見える三の郭の東側土塁の一部




「この先私有地です。入らないでください。」の立て看板
ここに限らず不法侵入する輩が後を絶たないようですね。お陰で真面目な方にまで影響を受ける結果を招いています。




沼地(湿地帯)




説明板が見えてきました




土塁下の水路 水堀跡でしょうか




沼地に繁茂するのは葦でしょうか(草植物の知識がありません)




一夜堤の前あたりはだいぶ水が溜まっています




北条軍が一夜にして築いた土橋との伝承がある一夜堤




土橋(一夜堤)上にある「石戸城と一夜堤」説明板




一夜堤北側の沼地の模様




一夜堤南側も湿地帯 当然ですよねひとつの沼地を土橋で分断されただけですから




一夜堤を反対方向から見てみました




五の郭脇から城跡南部にある石戸宿を見ています
石戸城が機能していたころからある宿で、城と宿が一体となっていました。またこの道は松山に向う交通の要衝です。




石戸宿の鎮守 天神社




桜堤と石戸城




運動公園からみた石戸城

攻城日:平成30年(2018)4月17日(火)他

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