■ 国指定史跡 新田荘遺跡 生品神社境内 ≪7/11≫
名 称:新田義貞挙兵の地
別 名:新田義貞挙兵伝説地
概 要:新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受け、元弘3年(1333)5月8日、鎌倉幕府(北条氏)の討伐のために旗揚げをした
挙兵の地
指 定:国指定史跡(「新田荘遺跡 生品神社境内」の名称で 平成12年(2000)11月1日指定)
遺 構:神代木・新田義貞床几塚・新田義貞旗揚げ塚(いずれも伝承)
所在地:群馬県太田市新田市野井町(旧新田郡新田町)生品(いくしな)神社境内
生品神社は、昭和9年(1934)、建武の中興六百年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として史跡指定されま
したが、平成12年(2000)11月1日、「新田荘」に関連する寺社境内・館跡・湧水地など広域に存在する複数(11ケ所)を
面的にとらえ、一つの史跡とした「新田荘遺跡」として国指定史跡された中のひとつで、「新田荘遺跡 生品神社境内」とな
りました。
そんな『新田義貞挙兵の地』(新田貞義挙兵伝説地)である生品神社を訪ねてみました。
史跡としての正式名称は、上記のとおり「新田荘遺跡 生品神社境内」ですが、本記事では通称(?)である「新田義貞挙兵
の地」とさせていただきました。
一の鳥居左側に建つ社号標と『史跡 新田義貞挙兵伝説地』石標
『国指定史跡 新田荘遺跡 生品神社境内』説明板
貞義の挙兵について説明がされています
『太平記の里』案内板
新田荘遺跡等のイラスト地図
一の鳥居を抜けたすぐ左側にある『社務所』
普段は無人のようですが、入口に日だけ書かれていない御朱印が書置きされていますので、希望者は料金箱にお金を入れてど
うぞ。
銅像台座(左)と『新田義貞公挙兵六百五十年記念』碑
昭和58年(1983)が、新田義貞像が挙兵650年にあたります。
『新田義貞公挙兵六百五十年記念』碑は、地元群馬県出身で当時の内閣総理大臣中曽根康弘氏の書による
昭和58年(1983)、新田義貞像が挙兵650年を記念して生品神社境内に安置されたましたが、平成24年(2010)2月に銅
像が盗難にあう事件が起き、台座だけが残っています。
台座の裏面
「昭和16年3月10日に職員と児童の勤労作業及び廃品回収作業の収益金をもって新田公の偉烈を偲い建設された銅像を挙
兵650年を記念してこの地に安置する。」とあります。
『神橋(かみばし)』
欄干には、新田氏の家紋である『大中黒・新田一つ引(おおなかぐろ・にったひとつびき)』が入っています。
道を隔てて二の鳥居があります
二の鳥居右手に建つ『史蹟生品神社境内 新田義貞擧兵傳説地』と刻まれた石標
上記石標の後ろには大きな石碑が2基建立されています
『新田公舉兵六百年記念碑』とある石碑
『新田義貞公並一門挙兵之地』とある石碑
やはり地元出身の内閣総理大臣福田赳夫の書によるものです
二の鳥居を抜けた左側にある手水舎 斜め後ろにあるのは『神楽殿』でしょうか
三の鳥居 『生品神社』の神額が架かっています
参道の先に社殿が見えますが、その少し手前に・・・
覆屋で保護された『神代木』です
新田義貞が旗挙げの際に軍旗を掲げたとされるクヌギの木です
神 代 木
此の木は櫟なり。新田義貞公挙兵の際大中黒の旗を此の樹に掲げ戰捷せんしょうを祈願す。
爾来欝蒼とし繁茂せり。周囲二丈余高さ十丈にたっす。
明治三十七年六月九日白書静穏の時大音響ありて倒れたり。依って其の一部を遺し滋に記念とす。
爾後春秋星霜九十有余年風化に依り腐食朽壊の状なり。依って燻蒸処理をしポリウレタン系合成樹脂加工に依り脆弱、破損部の
強化修復をし最後シリコン剤塗布に依り保存処理した。
同時に覆屋も新築して未来永劫後世に遺すものとす。
新田義貞公擧兵六百六十六年祭に際して
生品神社
神代木
石祠 点在していたものをここ一ヶ所に集めたのでしょう
社殿の左裏に建つ『富士嶽浅間神社大神』と刻まれた石碑と石祠
生品神社 拝殿
扁額『生品神社』
賽銭箱にも『大中黒・新田一つ引』紋が
奉納されている樽酒のその銘は『太平記の里』
拝殿を斜め横から
生品神社本殿
本殿の背面の彫刻を玉垣の間から
一の鳥居前の駐車場の隅にある『新田義貞床几塚』
『新田義貞床几塚』碑
社務所裏にあるトイレの前に設置されている自動販売機 新田義貞公の銅像のラッピングです
『新田義貞旗揚げ塚』
改修されているようです
『新田義貞旗擧塚阯』碑
駐車場の外側に新たに建立された「新田義貞公銅像』
義貞の弟・脇屋義助の24代目子孫で彫刻家の脇谷幸正氏が制作し、平成24年(2012)5月8日に除幕式が行われました。
5月8日・・・そう。挙兵の日です
銅像は、鎌倉の稲村ヶ崎にて義貞公が戦勝を祈願して海に太刀を投じると、潮が引いて、鎌倉へと攻め入ることができたとい
う言い伝えに基づいたもののようです。
家紋『大中黒・新田一つ引』が入った立派な囲いの守られています
銅像のみを
向きを変えて
台座裏面に貼り込まれている説明板
台座と碑の間が狭く、正対して撮ることは不可能でしたので横から・・・半分くらいは読めるでしょう
後ろ姿も・・・
ここも1度では用が足らず3度も訪問してしまいました。写真の撮り忘れや、折角撮ったものの天候や日差しの関係で見づらい
ものとか、余分なものが入っていたり等で、同じ日の写真が全部使えるわけではありませんので納得が行かずに3度も。そんな
ことから3回分の写真が混在しています。そこまでやる必要はなく、数枚で済ませればよいと思いながらも・・・
散策日:平成30年(2018)9月19日(水)・23日(日)・10月2日(火)
名 称:新田義貞挙兵の地
別 名:新田義貞挙兵伝説地
概 要:新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受け、元弘3年(1333)5月8日、鎌倉幕府(北条氏)の討伐のために旗揚げをした
挙兵の地
指 定:国指定史跡(「新田荘遺跡 生品神社境内」の名称で 平成12年(2000)11月1日指定)
遺 構:神代木・新田義貞床几塚・新田義貞旗揚げ塚(いずれも伝承)
所在地:群馬県太田市新田市野井町(旧新田郡新田町)生品(いくしな)神社境内
生品神社は、昭和9年(1934)、建武の中興六百年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として史跡指定されま
したが、平成12年(2000)11月1日、「新田荘」に関連する寺社境内・館跡・湧水地など広域に存在する複数(11ケ所)を
面的にとらえ、一つの史跡とした「新田荘遺跡」として国指定史跡された中のひとつで、「新田荘遺跡 生品神社境内」とな
りました。
そんな『新田義貞挙兵の地』(新田貞義挙兵伝説地)である生品神社を訪ねてみました。
史跡としての正式名称は、上記のとおり「新田荘遺跡 生品神社境内」ですが、本記事では通称(?)である「新田義貞挙兵
の地」とさせていただきました。
一の鳥居左側に建つ社号標と『史跡 新田義貞挙兵伝説地』石標
『国指定史跡 新田荘遺跡 生品神社境内』説明板
貞義の挙兵について説明がされています
『太平記の里』案内板
新田荘遺跡等のイラスト地図
一の鳥居を抜けたすぐ左側にある『社務所』
普段は無人のようですが、入口に日だけ書かれていない御朱印が書置きされていますので、希望者は料金箱にお金を入れてど
うぞ。
銅像台座(左)と『新田義貞公挙兵六百五十年記念』碑
昭和58年(1983)が、新田義貞像が挙兵650年にあたります。
『新田義貞公挙兵六百五十年記念』碑は、地元群馬県出身で当時の内閣総理大臣中曽根康弘氏の書による
昭和58年(1983)、新田義貞像が挙兵650年を記念して生品神社境内に安置されたましたが、平成24年(2010)2月に銅
像が盗難にあう事件が起き、台座だけが残っています。
台座の裏面
「昭和16年3月10日に職員と児童の勤労作業及び廃品回収作業の収益金をもって新田公の偉烈を偲い建設された銅像を挙
兵650年を記念してこの地に安置する。」とあります。
『神橋(かみばし)』
欄干には、新田氏の家紋である『大中黒・新田一つ引(おおなかぐろ・にったひとつびき)』が入っています。
道を隔てて二の鳥居があります
二の鳥居右手に建つ『史蹟生品神社境内 新田義貞擧兵傳説地』と刻まれた石標
上記石標の後ろには大きな石碑が2基建立されています
『新田公舉兵六百年記念碑』とある石碑
『新田義貞公並一門挙兵之地』とある石碑
やはり地元出身の内閣総理大臣福田赳夫の書によるものです
二の鳥居を抜けた左側にある手水舎 斜め後ろにあるのは『神楽殿』でしょうか
三の鳥居 『生品神社』の神額が架かっています
参道の先に社殿が見えますが、その少し手前に・・・
覆屋で保護された『神代木』です
新田義貞が旗挙げの際に軍旗を掲げたとされるクヌギの木です
神 代 木
此の木は櫟なり。新田義貞公挙兵の際大中黒の旗を此の樹に掲げ戰捷せんしょうを祈願す。
爾来欝蒼とし繁茂せり。周囲二丈余高さ十丈にたっす。
明治三十七年六月九日白書静穏の時大音響ありて倒れたり。依って其の一部を遺し滋に記念とす。
爾後春秋星霜九十有余年風化に依り腐食朽壊の状なり。依って燻蒸処理をしポリウレタン系合成樹脂加工に依り脆弱、破損部の
強化修復をし最後シリコン剤塗布に依り保存処理した。
同時に覆屋も新築して未来永劫後世に遺すものとす。
新田義貞公擧兵六百六十六年祭に際して
生品神社
神代木
石祠 点在していたものをここ一ヶ所に集めたのでしょう
社殿の左裏に建つ『富士嶽浅間神社大神』と刻まれた石碑と石祠
生品神社 拝殿
扁額『生品神社』
賽銭箱にも『大中黒・新田一つ引』紋が
奉納されている樽酒のその銘は『太平記の里』
拝殿を斜め横から
生品神社本殿
本殿の背面の彫刻を玉垣の間から
一の鳥居前の駐車場の隅にある『新田義貞床几塚』
『新田義貞床几塚』碑
社務所裏にあるトイレの前に設置されている自動販売機 新田義貞公の銅像のラッピングです
『新田義貞旗揚げ塚』
改修されているようです
『新田義貞旗擧塚阯』碑
駐車場の外側に新たに建立された「新田義貞公銅像』
義貞の弟・脇屋義助の24代目子孫で彫刻家の脇谷幸正氏が制作し、平成24年(2012)5月8日に除幕式が行われました。
5月8日・・・そう。挙兵の日です
銅像は、鎌倉の稲村ヶ崎にて義貞公が戦勝を祈願して海に太刀を投じると、潮が引いて、鎌倉へと攻め入ることができたとい
う言い伝えに基づいたもののようです。
家紋『大中黒・新田一つ引』が入った立派な囲いの守られています
銅像のみを
向きを変えて
台座裏面に貼り込まれている説明板
台座と碑の間が狭く、正対して撮ることは不可能でしたので横から・・・半分くらいは読めるでしょう
後ろ姿も・・・
ここも1度では用が足らず3度も訪問してしまいました。写真の撮り忘れや、折角撮ったものの天候や日差しの関係で見づらい
ものとか、余分なものが入っていたり等で、同じ日の写真が全部使えるわけではありませんので納得が行かずに3度も。そんな
ことから3回分の写真が混在しています。そこまでやる必要はなく、数枚で済ませればよいと思いながらも・・・
散策日:平成30年(2018)9月19日(水)・23日(日)・10月2日(火)