太田駅北口(群馬県太田市東本町)のロータリーに建立されている「新田義貞公像」を見てきました。
銅像は、義貞公だけではなく、義貞公の弟・脇屋義助公の像と一緒です。
昭和63年(1988)に建立され、旧駅前広場にあったものを、太田駅周辺土地区画整備事業に伴い平成21年(2009)
に現在の場所に移転。
銅像の両脇に掲げられている大中黒ののぼり旗は、鎌倉攻めの際に使われ、現在は市内の新田神社に伝わるものを、神社の協力
を得て、『新田義貞顕彰会』が、白地と太く黒い線の比率を忠実に再現し縮小して作製したものと言います。
立っているのは新田義貞公とわかりますが、片膝をついているのは、どこにも書かれていませんが弟の脇屋義助公と云われます。
主人と従者のような像です 兄弟でありながらも、嫡流と庶流ではこのように主従関係になってしまうのがこの時代
背後に「SUBARU」の建物が見えます。「SUBARU」(元・富士重工業)といえば、新田氏と並ぶ太田市の代名詞
私が車に乗り始めた最初の2台はスバル車で、東京・練馬のディラーから購入しました・・・関係ない話か
同上
凛々しい義貞公
義助公は、新田郷脇屋に分家したことから「脇屋」を名乗りました。
義貞公に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、義貞の死後は兄に代わり新田一族を率いて南朝軍の大将の一人として北陸・
四国を転戦しましたが、伊予国府(現在の愛媛県今治市)で病死してしまいました。享年38。
後ろ姿も
台座の銘板
新 田 義 貞 公
鎌倉時代末期~南北朝時代初期の郷士の武将。清和源氏新田氏嫡流、元弘3年(1333)生品神社で挙兵。鎌倉幕府を倒し
建武新政の中核となり、武者所頭人・左近衛中将に任じられる。延元3年(1338)越前藤島の戦いで壮絶な最後を遂げた。
御年38歳。公の御霊は太田市金龍寺・新田神社にまつられている。この像は公の没後650年と太田市制40周年を記念し
て郷士ゆかりの人びとの浄財を得て新田義貞公銅像建設委員会により建立された。
昭和63年(1988)5月3日
太田駅周辺土地区画整備事業に伴い旧駅前広場より現在の場所へ移転された。
平成21年(2009)12月18日 太田市
散策日:平成30年(2018)10月2日(火)