四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

長楽寺 ①(群馬県太田市)

2019年01月11日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:世良田山 真言院 長楽寺
宗 派:天台宗
創 建:承久3年(1221)
開 基:徳川義季
御本尊:釈迦三尊
指 定:国指定史跡(名称「新田荘遺跡 長楽寺境内」平成12年〔2000〕11月1日指定)
所在地:群馬県太田市世良田(旧新田郡尾島町)

■ 新田荘遺跡(長楽寺境内)
 世良田山真言院長楽寺(せらださんしんごんいんちょうらくじ)は、新田氏の祖新田義重(にったよししげ)の子、徳川
(新田)義季(よしすえ)を開基とし、日本臨済宗の祖栄西の高弟栄朝(えいちょう)を開山として、承久3年(1221)に
創建された「東関最初禅窟(とうかんさいしょぜんくつ)」です。
 鎌倉時代は、約6万坪の境内に塔頭寺院(たっちゅうじいん)が軒を並べ、多くの学僧が兼学修行に励んだといわれます。
室町時代の初期に日本五山十刹(ござんじっせつ)の制度が成立すると、長楽寺は十刹の第7位になりました。しかし、新
田氏の衰退とともに長楽寺も荒廃してしまいました。
 徳川家康は、天正18年(1590)小田原北条氏攻めの功により、関東の地を与えられました。そこで、祖先開基の寺とす
る長楽寺を、天海(てんかい)大僧正を住職として復興に当たらせ、寺領100石を与えました。天海は臨済宗から天台宗に改
宗し、境内を整備し、伽藍(がらん)を修復し、幕府庇護のもと末寺700寺有余の大寺院に成長させました。
 現在、境内には文殊山(もんじゅやま)の中世石塔群や蓮池、江戸時代の建物である勅使門(県重文/ちょくしもん)、三
仏堂(県重文)、太鼓門(県重文/たいこもん)、開山堂などがあります。
                              《太田市ホームページ 太田市の文化財 より引用》




「国指定史跡 新田荘遺跡 長楽寺境内」の石標
長楽寺境内は、「新田荘」に関連する寺社境内・館跡・湧水地など11の遺跡から構成される国指定史跡新田荘遺跡のひとつ。




「長楽寺の勅使門」説明板
勅使門ですからその名の通り、天皇や天皇(幕府)の勅使のための門ですから一般人はこの門は利用できません。




勅使門の右側にある「総門」 山号「世良田山」と揮毫された扁額が架かっています。
実は、勅使門、総門の前の道路を穴を掘っての工事中で、撮る位置もままならないうえ、重機や作業員が入ってしまったりと
写真を撮るのもやっとの思いでした。
総門を入っていけば長楽寺本堂の山門前に至るのですがご覧のとおりですから。




「境内名勝原図」  現況とは違いますし、色褪せていて見るのも大変です




勅使門内側(裏側)  表同様に囲いが設けられています 開けることも通ることもない門ですし、保護も必要ですから。
他の寺院にある勅使門も似たような措置が採られています




「渡月橋」(半分しか写っていませんが)と「蓮池」
蓮池は干しあがって雑草だらけになっています。地下水の枯渇が原因のようですが、手を打つにしても国指定の史跡の一部だ
けに色々と面倒な問題があるようです。




「長楽寺の蓮池と渡月橋」説明板




渡月橋の向こうに見えるのが勅使門 そして背後には「三仏堂」が控えています




「長楽寺三仏堂」 釈迦、阿弥陀、弥勒の過去・現在・未来の三世仏が安置




「顕密禅」と揮毫された扁額  よくはわかりませんが、天台宗の教えの言葉からきているようです。




「長楽寺三仏堂及び太鼓門」説明板




三仏堂の西側の道路を隔てたところにある「太鼓門」  楼上に太鼓がかけられ行事の合図にしていたとされる

この長楽寺界隈の散策は、平成20年(2010)4月以来2度目でしたが、長楽寺で見てきたのは最後の太鼓門だけでしたから、
実質、長楽寺に関しては初めての散策と言ってもよいでしょう。 長楽寺本堂は、その②で・・・

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)

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