四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

源範頼館(埼玉県吉見町)

2019年05月21日 | 100名城以外の城館跡


城 名:源範頼館(みなもとののりよりやかた)
別 名:吉見御所
形 態:館
時 期:平安時代末?
築城主:源範頼
城 主:源範頼以下5代
遺 構:水堀・空堀
指 定:埼玉県指定旧跡(名称:伝範頼館跡 大正14年〔1925〕3月31日指定・昭和37年〔1962」10月1日指定替)
現 況:息障院
所在地:埼玉県比企郡吉見町大字御所 息障院

吉見町御所地内にある息障院一帯は、源頼朝の異母弟である範頼の居館跡と伝わる。範頼没後はその子範円、為
頼、義春、義世に至る5代がこの館跡に居住し、範円以降は吉見氏を称したと言います。




岩殿山息障院山門入口




山門




山門  息障院の東隣りは幼稚園となっています




史跡、文化財等の名称が刻まれた石碑




息障院の説明板




息障院境内




本堂  大棟には源氏の代表的な家紋「笹竜胆紋」が入っています




灯籠にも「笹竜胆紋」




息障院南側の空堀跡




同上




息障院南西の模様




西側にも荒堀が走っていますが整備はされていません




北側の空堀  県道271号今泉東松山線と並行しています  
東側については幼稚園があるため確認はしていませんが、用水路(水堀跡?)があるようです。

源範頼館への訪問は2回目となりました。前回、西側、東側の堀跡を見落としていましたので、その確認を含
めての訪問でした。
源範頼の居館跡と伝わる場所は他にもあるようですし、ここ息障院が範頼館であるという確かなものはないため
「伝」源範頼館と称しているようです。

再散策日:平成31年(2019)4月11日(木)

寄居北條まつり2019

2019年05月19日 | まつり・イベント


今から遡ること429年前の天正18年(1590)、豊臣秀吉の指示によって小田原攻めが始まった。本城である
小田原城は10数万余の兵に囲まれ、支城は次々と落とされていった。
北條氏邦の鉢形城も同年5月13日、豊臣方の前田利家・上杉景勝ら北国勢35000(その後、加勢を得て5
0000)に包囲され、鉢形勢は城兵3500をもって籠城したが、1か月後の同年6月14日、城兵・領民の
助命を条件に開城し、氏邦は前田利家の預かりの身となり、金沢の地で没した。
そんな豊臣軍と鉢形勢の攻防戦を再現した戦国絵巻「第58回寄居北條まつり」が開催されましたので見学に行
ってきました。




鉢形城笹曲輪跡に建つ「寄居北條まつり」の看板と幟




武者隊パレードの先陣を切るのは本祭りの主役である北条安房守氏邦隊(寄居町議員団隊)
氏邦役は寄居町議会の議長が務めるのが恒例になっています。昨年の議長は隣でプラカードを持っている女性で
したが、氏邦役は副議長であった方が務めました。
そして、代役を務めたその副議長が今年は議長になったようで、今回は代役ではなく正規の氏邦役。パレードが
始まった際には馬に乗りましたが・・・




井上三河守隊(郵便局隊)




用土城隊 小被隊(おぶすまたい)




小被隊(おぶすまたい)  
「おぶすま」というと普通は「男衾」と書きますが、「小被」とも書くとは初めて知りました。




小田原北條手作り甲冑隊




八王子城北条氏照隊

他にも豊臣連合軍をはじめいくつもの隊がありましたが、全部は撮り切れませんでしたので北条三兄弟が中心に
なってしまいました。




パレードを終え、合戦の場となる玉淀河原のステージで勝鬨をあげる北条安房守氏邦隊




パレードを終え続々と軍団が玉淀河原に集結してきます  これは小田原北條手作り甲冑隊




八王子城北条氏照隊 




北条軍が勢揃いしました  残念ながら豊臣軍は私の場所からはよく見えませんでした




陣取った場所が悪くて、来賓の方々の挨拶・紹介や三献の儀等の写真を撮れませんでしたので、順不同ですが合
戦の模様に入って行きます。
こちらは北条軍(諏訪部遠江守・剣道連盟一番隊)




豊臣軍(前田利家隊・剣道連盟二番隊)
合戦に駆り出されたのは、この剣道連盟の若者たちがほとんどで、あとの隊は後方支援(見学ともいう)




一応合戦の場面も




一騎打ち




こちらも一騎打ち  ただし・・・




お約束の川への転落も




以前に比べて攻防戦の内容が何となく簡略化されているように感じました。一騎打ち・合戦の数も少なく思えま
したし、和議の場面もありませんでしたし。




武者隊パレード、攻防戦が始まる前に、市街地に設けられた『北条食の陣』に行きました。
北条氏にゆかりのある地元寄居町以下18市町村からの出店やイベント参加。
中には、私の知識ではどうしても北条氏との繋がりが見つからない市町もいくつかありましたが、寄居町との地
理的繋がりや観光等を通してのつながりを含めてのようです。




まずは、今年はまだ食していなかった東松山市の『みそだれやきとり』 鳥にあらず豚ですが




嵐山町の『嵐山辛モツ焼きそば』
この辛モツ焼きそばを考案した方の出店です。店舗を構えておらず、こうしたイベントに出店した時しか食べら
れません。今年も出店ということでしたので、これを目的にまつりに行った理由が半分くらいありました。




小田原市のブースに寄ったら、過日行われた「早雲公五百年忌記念シンポジウム『小田原北条氏とその城郭』」
の資料を頒布しておりましたので購入してきました。
このシンポジウムに行きたかったのですが、諸々の事情から行けなかっただけに嬉しい資料です。

見学日:令和元年(2019)5月19日(日)

令和元年度歴史講座1 第1回「北条氏の城とその特徴」

2019年05月18日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催
令和元年度歴史講座1「戦国時代の城づくり」
第1回 「北条氏の城とその特徴」
講 師: 萩 原 さ ち こ 氏 (城郭ライター・編集者、公益財団法人日本城郭協会理事)
日 時: 令和元年(2019)5月17日(金)13:45~15:30
会 場: 国立女性教育会館研修棟 講堂 (埼玉県比企郡嵐山町菅谷)

を聴講してきました。

小田原北条氏の本城・支城網を形成する城の特徴等についてのお話をしていただきました。




会場はいつもの国立女性教育会館研修棟 講堂 




開場を待つ聴講者の皆さん




今回の講座資料  *講師・講座状況の写真は撮影禁止のためありません




小田原北条氏の本城「小田原城」
現在の小田原城は、北条氏時代のものではなく、北条氏滅亡後に大改修されたものが復興・復元されています。












上掲の20城は、数多い北条氏の領国内に築かれた御一家衆や家老が城主を務める城や、国衆の城の中で、私が
登城したことのあるものの中から(順不動)

聴講日:令和元年(2019)5月17日(金)

道の駅めぬまのバラ園と荻野吟子

2019年05月16日 | 花・鳥・風景


好天と花の便りに誘われて、今季もまた埼玉県熊谷市弥藤吾(旧大里郡妻沼町)の『道の駅めぬま』のバラ園に
バラの香りを楽しみに行ってきました。




非常に沢山の方が訪れており、駐車場所を確保するまでにだいぶ時間を費やしました。




『道の駅めぬま』の大きな石碑
道の駅めぬまの文字の左側に【公許女医第一号吟子桜の苑】とあります
荻野吟子は旧妻沼町(元俵瀬村 → 現在・熊谷市大字俵瀬)の出身です




定番になってしまいましたがこのアーチからバラ園に




一番の見ごろだったようです


















バラ園(めぬまアグリパーク)の南東部に建つ『荻野吟子像』
桜の季節は過ぎましたが「吟子桜の苑」は像の背後にあります




荻野吟子女史は「埼玉ゆかりの3偉人」のひとり
他の二人は、「渋沢栄一」と「塙保己一」ですが、ここにきて渋沢栄一が一気に話題の人となっています。






渡辺淳一著『花埋み』
1970年(昭和45年)8月30日発行の初版本の単行本
荻野吟子の一生が描かれた作品です
発売直後に購入して読みました 既に48年強の歳月が経ちました
この本により初めて荻野吟子という人物を知りました。いわゆる免許を得た最初の女医であることも知りました。

つい数年前までは他の書物と共に本棚に並んでいたのですが、断捨離で本棚を整理し、本はすべてダンボール箱
に詰めてしまっていましたので、この『花埋み』の写真を撮るだけのために、段ボール箱を片っ端から開ける羽
目になりました。

それまで日本最初の西洋医学の女姓産婦人科医と言えば「オランダおいね」(楠本いね)という認識でした。
それは丘みつ子さんが「おいね」を演じた連続ドラマを観ていたためです。
しかし、おいねは「医業開業試験」を断念したことから、正規な(免許のある)女医の1号とはなりませんでした。




バラの香りを楽しんだ後は、同じ市内の俵瀬(元幡羅郡俵瀬村 → 旧妻沼町)にある
「荻野吟子生誕之地」(熊谷市指定文化財記念物(史跡))へ行って来ました。






『荻野吟子女史像』と顕彰碑『荻野吟子女史之碑』




『荻野吟子記念館』
私以外にも何名かの方が訪れていました
三田佳子さんが舞台で荻野吟子を演じたときの衣装などが展示されていました。像の衣装と同じものです。




利根川の堤から荻野吟子生誕の地跡を

散策日:令和元年(2019)5月15日(水)

上戸日枝神社(埼玉県川越市)

2019年05月15日 | 神社仏閣


社 号:日枝神社(ひえじんじゃ)
祭 神:大山咋命・大己貴命・小彦名命・大日霊尊・大御食都命・大屋昆古命
創 建:貞観年代860年、日吉山王権現社として創立
   ◎寛永年中(1243)北条時頼社殿を再営
   ◎永暦元年(1260)後白河法皇が京都に新後白河法皇を祀ったのに伴い、河越氏が河越領を後白河法皇に
    寄進、以後新日吉山王権現と称する
   ◎明治元年(1868)の神仏分離令によって日枝神社と改称
指 定:川越市指定史跡(上戸日枝神社境内 平成13年(2001)5月9日指定)他
所在地:埼玉県川越市上戸1316-1

河越経重が新日吉山王権現に納めた応元年(1260)の銅鐘は「武蔵河肥庄 新日吉山王宮 大檀那平朝臣経重」
と銘があるもので、現在、川越市末広町2丁目の養寿院にあるようです(非公開)

この地を治めていた桓武平氏秩父氏嫡流の豪族河越氏が奉じた上戸の日枝神社を参拝してきました。正式な社号
は「日枝神社」ですが、他所の日枝神社との混同を避けるため地名の上戸を冠しています。




幟立ての(社殿に向かって・以下同じ)左側に建立されている「日枝神社(新日吉山王宮)の由来」碑
この碑文の中に、東京・赤坂にある日枝神社は、上戸の新日吉山王の分霊社を江戸館に祀ったのが始まりといっ
たことが記されています。
当の赤坂の日枝神社では、文明10年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、鎮護の神として
川越山王社(仙波日枝神社)を勧請したとし、仙波日枝神社でも赤坂の日枝神社の本社としています。
正直、どちらが正しいのかは分りません。あるいは両者とも正しいのかもしれません。




幟立ての右側に建立されている「祀念碑」




鳥居  明神鳥居でしょうか




社額の文字は「日枝神社」




参道両脇には朱色の誰哉行灯(たそやあんどん)が並んでいます




境内社:参道の左右に向かい合って祀られている 戸衛神社




手水舎




社殿のそばまで来ました




境内社:参道の左右に向き合って祀られている 神明社(左側) 八坂神社(右側)




社務所




社殿と境内社




拝殿




扁額「日枝神社」




「懸仏」説明板




川越市文化財指定記念碑




社殿の右側隅に祀られている 浅間大神




境内社:社殿の右側に祀られている 疱瘡神社・八幡神社・八坂神社




拝殿・本殿を横から
覆屋の隙間から本殿を伺ってみました 本殿の両脇に神使「猿」の像が置かれていますが写真は撮れませんでした




境内社:社殿の左側に祀られている 大地主神社・御嶽神社・白山神社




社殿の左側隅に祀られている 愛宕神社




境内には遊具が設置されており憩いの場所(公園)にもなっています

参詣日:平成31年(2019)4月15日(月)

常楽寺(埼玉県川越市)

2019年05月14日 | 神社仏閣


山 号:河越山(かわごえさん)
院 号:三芳野院(みよしのいん)
寺 号:常楽寺(じょうらくじ)
宗 派:時宗
創 建:鎌倉時代
開 山:中政智徳 中興開基:大道寺駿河守政繁
本 尊:阿弥陀如来
所在地:埼玉県川越市大字上戸194

平安時代末期から南北朝時代にかけて、武蔵国で最大勢力の豪族であった桓武平氏秩父平氏の嫡流である河越氏
が拠点としていた河越館の跡地の一角にあります。
常楽寺は河越氏の持仏堂が基となって発展したものとされる。応安元年(1368)の武蔵平一揆で河越氏が滅んだ
あと、長享の乱の際には扇谷上杉家の河越城を攻略するため、山内上杉家の上杉顕定がここに上戸陣を置きまし
た。

後北条氏が川越を支配すると重臣の大道寺政繁が領主となりましたが、豊臣秀吉の小田原征伐に屈し、秀吉の命
で大道寺政繁はこの地で自害しています。当寺には大道寺政繁供養搭があり、また、近年建立された河越重頼・
京姫(郷御前)・源義経の供養塔もあります。重頼の墓と伝わるものは同じ川越市内の養寿院にあります。




今はほとんど読めなくなっていますが 河越館跡 と書かれた標柱




木製の標柱の文字は読めなくなっていますが、表門の外側には「国指定史跡 河越館跡」の石標が建っています。




門前には、河越山 常楽寺 と刻まれた大きな石が置かれています。




お約束の六地蔵尊




表門




参道の両側に二基づつ四基の大きな石灯篭
これは、芝増上寺の徳川将軍の廟にあったものです。これまでにも何回となくこの石灯篭の件に触れていますが、
最近はあってもスルーすることが多くなりました。訪ねるお寺のほとんどにあるものですから、いちいち西武鉄
道云々の説明をしてもしようがないので(と言いつつ触れちゃいましたが)




山門(鐘楼門)
川越城の城将「大道寺政繁」の子孫・道順入道が寄進し、江戸時代中期の天明8年(1788)に再建された。
左右に金剛力士(仁王様)を安置しています。2階には銅鐘が吊るされています。




本堂




本堂に架かる扁額は山号の「河越山」
寺紋は「折敷に三文字」 この常楽寺の宗派時宗の宗紋のようです。これは一遍上人が出た伊予の河野氏の家紋
から採られたようです。
河越氏の持仏堂から発展したお寺ですので、河越氏の家紋「三本傘」とか「三つ花菱」とかを寺紋にということ
はなかったのでしょうか?




一遍上人像と本堂




庫裏




扁額には「福聚殿」(多分この文字だと)とあります 観音堂のようです




河越重頼・京姫(郷御前)・源義経の供養塔と供養塔建立之碑




重頼等三供養塔建立之碑




河越重頼・京姫(郷御前)・源義経の供養塔




大道寺政繁供養搭(宝篋印塔)  揚羽蝶紋は大道寺氏の家紋
政繁の墓は群馬県安中市(旧碓氷郡松井田町)の補陀寺にある




墓誌
大道寺政繁の戒名は、松雲院殿江月常清大居士




常楽寺の全景とまではいきませんが半景くらいは入っているでしょうか・・・

参拝日:平成31年(2019)4月15日(月)

骨波田の藤

2019年05月12日 | 花・鳥・風景


5月11日(土)、埼玉県本庄市児玉町高栁(旧児玉郡児玉町)の『骨波田の藤』(長泉寺)を10年と半月振
りに観に行ってきました。
長泉寺入口付近から渋滞が始まっていて、駐車場に辿り着くまでにかなりの時間を要してしまいました。
土曜日のうえに好天、更には、前日の10日(金)の朝、依田さんがこの骨波田の藤から天気予報の中継をして
いたことが人を集めたようです。当然境内は、人・ひと・ヒトだらけ・・・
































































5月10日、『骨波田の藤』(長泉寺)から中継の依田さんのテレビ画像




この日の入場料は500円  上限の600円はいつの日に・・・

散策日:令和元年(2019)5月11日(土)

河越館(埼玉県川越市)

2019年05月10日 | 100名城以外の城館跡
■ 国指定史跡 河越館跡



城 名:河越館(かわごえやかた)
別 名:河越氏館・上戸城・上戸陣所・大道寺駿河守砦など
形 態:平城
時 期:平安時代末期
築城主:河越氏
城 主:河越氏、上杉顕定、大道寺政繁
遺 構:土塁・空堀
指 定:国指定史跡(名称:河越館跡 昭和59年(1984)12月6日指定)
現 況:国指定史跡河越館跡史跡公園
所在地:埼玉県川越市上戸

河越館跡は、平安時代から南北朝時代まで武蔵国の中で有数の勢力を誇った武士・河越氏の居館跡です。
河越氏は、桓武平氏秩父氏の嫡流であり、河越館を興したのは初代能隆、あるいは父親の重隆とされ、河越を
拠点としたことから河越氏を名乗りました。

河越館跡は、昭和59年(1984)に国指定史跡となり、平成22年(2010)春に国指定史跡河越館跡史跡公園とし
てオープしました。



国指定史跡河越館跡史跡公園の入り口を示す看板




入口の看板の反対側にある史跡公園際に建っている「国指定史跡 河越館跡」説明板




上の写真のままでは読めませんので拡大表示で




土塁  館跡西側の道路沿いにある




同上土塁を外側から




「国指定史跡 河越館跡」石標




道路北東角に遺る土塁




河越館跡(史跡公園)の全景を北方から




四阿  河越館跡周辺の歴史についての説明板が設置されています




河越館・川越氏に関して、写真や年表などを使って詳しく説明されています




史跡河越館跡整備について




河越氏について




河越館跡の発掘調査結果




河越館跡をイメージする




「史跡河越館跡整備について」の説明板の中から「施設案内図」を




河越館跡(史跡公園)内を西方から東方に  砂利の入った堀跡は河越氏時代の堀区画跡




河越館跡(史跡公園)内中心部を東方から西方に  茶色のアスファルト部分は山内上杉氏陣所時代の堀跡




井戸跡




塚状遺構




山内上杉氏陣所時代の堀跡




掘立柱建物跡




河越氏時代の堀区画と外周道路  前方に見えるのが常楽寺




史跡公園北西隅にある南北に延びている河越氏時代の堀跡




史跡公園北東隅にある茶畑




「河越館復元想像図」  現地の説明板にあるものと同じ絵です




「河越氏系図」  現地説明板「河越氏について」の中から

初めて河越館跡を訪ねたのは、河越館跡史跡公園としてオープンした直後の平成22年(2010)5月のことでした
から、9年ぶりの再訪となりました。
河越館跡の一角にある河越氏の持仏堂が基となって発展したものとされる常楽寺も河越館跡に含めてリポートす
べきなのでしょうが、今回は別稿とします。

散策日:平成31年(2019)4月15日(月)

伝畠山重忠の墓(埼玉県飯能市)

2019年05月09日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:本郷大六天青石塔婆と樫樹(伝畠山重忠墓)
員 数:2基・1本
年 代:不詳
指 定:飯能市指定史跡(昭和34年(1959)12月1日指定)
所在地:埼玉県飯能市飯能 大六天神社

歴史上の有名人の墓・供養塔と言ったものが複数の地にある例は多い。武蔵武士の鑑と称される畠山重忠にあっ
てもその例に漏れず、埼玉県飯能市内にも伝畠山重忠の墓があるとのことで訪ねてみました。




その場所については、市立飯能西中学校の校庭の南側とのことで、まず、南側のどのあたりか(付近?)を探す
のに一苦労しましたが、付近を探し当てると民家の塀に目印が表示されていました。
何と民家と民家の間を入って行った更に民家と民家の間に「大六天神社」の神額のかかった鳥居がありました。




小さな祠の神社ですが、例祭(4月29日)も行われるようで、訪問時、付近に例祭を知らせる看板が出ていまし
た。
祠の後ろの木が樫樹  左側に手書きの「伝・畠山重忠の墓」標柱と説明板が設置されています。




樫樹 上まで撮るのを失念しましたが、相当の樹齢のようです




説明板に畠山重忠の墓とされる伝説が記されています
広い意味での地元の英雄ですから、こうした伝説が生まれたのでしょう




これが「伝・畠山重忠の墓」とされる二基の板石塔婆
阿弥陀三尊のほかは銘も年号もない・・・だからこそ伝・畠山重忠の墓とすることが出来るわけでして、銘や年
号があったら無理な話でしょうから




板石塔婆を別の角度から

あくまで伝説と分り切っていても、こうして探し訪ねて歩くのも一つの楽しみなのです。

散策日:平成31年(2019)4月15日(月)

大串次郎館(埼玉県吉見町)

2019年05月08日 | 100名城以外の城館跡


城 名:大串次郎館(おおくしじろうやかた)
別 名:-
形 態:館
時 期:平安時代後期
築城主:大串次郎重親
城 主:大串氏
遺 構:堀跡?
指 定:-
現 況:住宅地等
所在地:埼玉県比企郡吉見町大串

大串次郎重親は畠山重忠の家臣で、平安時代末から鎌倉時代初期に活躍した武蔵武士の一人。重忠とは烏帽子親、
烏帽子子の関係にあり、武蔵国吉見郡大串郷(現在の比企郡吉見町大串)を本領としました。
宇治川の戦い(寿永3年・1184)での畠山重忠との先陣争いの逸話は有名です。また、北条時政の策謀によって重
忠が追討された二俣川の戦い(元久2年・1205)にも参戦し、このとき重親は安達景盛などと共に重忠と対峙しま
したが、弓を収めて撤退したようです。
立場上、重忠と対峙することになってしまったものの、策謀による重忠追討と察知していただろうし、重頼の重は
重忠から頂いたものであろうし、烏帽子親である重忠に重頼は弓をひくことはできなかったのでしょう。

そんな大串次郎重親の館跡と比定される場所を訪ねてみました。散策に当たっては、埼玉県立嵐山史跡の博物館
発行「改訂 歩いて廻る比企の中世再発見」、諸先輩方のリポートを参考にさせていただきました。

上掲写真は、大串次郎館跡比定地の遠景を土手から撮ったもの。




市野川の堤防上を西から東方に  堤防内側(写真では左側)の建物が並ぶ辺りが館跡比定地
堤防下の建物は台山地区集会所




館跡比定値西側の堀跡(推定)は堤防下から北方に向かって伸びています。
堀は堤防によって分断されたもので、元は南方の市野川方向にも延びていたのかもしれません(推測の域ですが)




比定地西側の堀跡




比定地北側の堀跡  東から西方向




比定地北側の堀跡を近くで  西から東方向  空容器や古タイヤ等が投げ込まれていてアップの写真は敬遠




もう一つの比定地である堤防外側の竹藪を目指しましたが、藪状態が酷そうでしたので引き返しました。




館跡比定地から西方約700mにある大串次郎重親が建立したと伝わる毘沙門堂




伝大串次郎重親塔・金蔵院宝篋印塔の説明板




金蔵院宝篋印塔(県指定史跡) 応安6年(1378)の銘




毘沙門堂(大串山金蔵院)




末尾に宇治川の合戦で重忠と先陣争いをしたとの記述がありますが、さすがに重忠に助けられて岸に投げ上げられ
たのに先陣名乗りを・・・の逸話までは書かれていません(地元の英雄の評判を下げることは書きたくない?)




毘沙門堂の西方約70mの畑の中にある  宝篋印塔(県指定史跡) 永和2年(1376)銘 
「伝大串次郎重親搭」 大串次郎重親の墓ではないかと云われる




「県指定史跡 金蔵院宝篋印塔 二基」説明板
前回の訪問時は、文字が褪色して判読できなかった宝篋印塔保存修理・覆い屋設置工事以前の説明板が設置された
ままでしたが、1年前に新しくなったようです。

散策日:平成31年(2019)4月11日(木)