水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
刺激の有効利用。
それは逆刺激を使う事だ。
生物の反応は同一刺激に順応する。
刺激反応は耐性反応でもある。
耐性反応は生命力の活性でもある。
生命力への刺激でもあるのだ。
肉体界では「いのち」は「生命力」となる。
生命力は「刺激」に反応する事で動くのだ。
無刺激になると「死」が近づく。
あの世は「無刺激」の世界なのだ。
ウソだと思うなら、行ってみなさい。
異論があるなら、試してみなさい。
ストレスというモノがある。
ストレスは「刺激」の一形態だ。
だからストレスの無い世界で生物は生きられない。
ウソだと思うなら、あの世に行ってみなさい。
多分・・・ストレスは無いと思うよ・・・。
ストレスの無い事がストレスだという屁理屈がある。
それは肉体界に限った事なのだ。
肉体がストレスを恋しがるからだ。
肉体は刺激を求めて今夜も呻く・・・。
(そ、そうだったのかぁ・・・
その手の小説には深い意味があったのね・・・)
重力もストレスなのだ。
食べる事、息を吸う事もストレスなのだ。
生きている事はストレスなのだ。
ストレスが無ければ生物は生きていけない。
ストレス、万歳なのだぞ。
たまには感謝せいや!
刺激の有効利用があるなら、ストレスの活用もある。
嫌な上司もアナタのお酒のツマとなる・・・。
尻を叩かれなければ、売り上げも伸びない。
歩合制の給料は厳しいだろ?
ストレスと給料は比例する(場合もある)。
この暑さでは文章も乗らない。
「暑さ刺激」には「冷たい刺激」
水シャワーを浴びるから、生命は活性する。
温冷浴や金冷法というのがある。(オナゴは無視・・・)
伸びて、縮む刺激で自由さは増す。
硬軟刺激で固定度は減少する。
自由度と生命力は比例するし、
固定度と生命力は反比例するのだ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
道はいろいろ用意されているものだ。
多種多様に対応して用意されている。
「刺激」もいろいろ用意されている。
強いばかりが「刺激」じゃないぜ。
一つの「刺激」は一つの方向だ。
だが逆に向かう「刺激」もある。
「熱い刺激」と「冷たい刺激」
温度という線上で逆方向だ。
「騒音刺激」と「静寂刺激」
「興奮刺激」と「冷静刺激」
「辛い刺激」と「甘い刺激」
「苦の刺激」と「快の刺激」
「刺激」はアナログ(同一線上)にしかない。
デジタル(断層)には「刺激」が存在しない。
相対性理論が通じる世界だけのモノだ。
相対性世界は相対性を活用する世界なのだ。
(それを正誤に分けるから歪むのだ・・・)
物質界は相対性の世界。
だから全部を活用する。
無駄なモノは(多分)無い。
全てが必要な世界だ。
多種多様は全てが必要だから存在する。
とはいえ・・・
ワシには疑問がある。
バカで愚かで厚顔無恥の政治家達が必要か?
カメムシやゴキブリや大統領や主席が必要か?
他の幸せに貢献できない存在も必要か?
でも、そんな事言ってたら矛先はワシにも向く。
「お前が必要か?」
う、・・・よ、よくわからんなぁ・・・
多分・・・ワシも大統領も必要なんだと思う。
ほら、よくあるじゃない?
は、反面教師ってヤツ。
反面教師だらけの社会も変だと思うけど・・・。
やはり疑問を持つとロクなことがない。
素直が一番。
そのままを受け入れようね。
あらゆる「刺激」は必要だということで・・・。
アナログな世界は全てを認める事を学ぶ世界だ。
全てを活用する。
全てを受け入れる。
それを「(大)愛」というようだなぁ。
ワシは心が狭いから、認めたくないモノもいる。
「愛」より「変」を好む・・・。
(暑くて、文体が、ますます、変!)
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
この世では「刺激」が影響する。
(だから「調和」が鍵となる)
否応なく受ける「刺激」もある。
自分から求める「刺激」もある。
コントロールできる「刺激」もある。
この世は刺激の河で生きている。
刺激によって生かされている。
刺激によって、イカされる。
(そ、そういう話かぁ?
刺激によってタコされる、もアリかぁ?)
話は得意の枝道・・・
刺激だけしか知らないのは幼稚だぜ。
愛情でイケば、もっと深く広いのだ。
若ぇ時は刺激だけだと思ってしまうものさ、フッ。
(注:半元気なオッサンの言い訳・・・)
閑話休題・・・
「刺激」の使い方、活かし方がある。
「刺激」の性格がある・・・。
「刺激」はマジメなのだ。
真っ直ぐな方向の力なのだ。
常に働く癖がある。
いつも書いている。
マジメは少し、困ったチャン(子)だ。
周りの迷惑を想像しないで進む。
どんなに優秀でも幼稚な子だ。
だから、融通が利かないのは利用されるだけ。
戦争に利用されるのはマジメな人達だけだ。
「刺激」も利用する為にある。
この世はヒネクレているし、仕掛けがある。
「刺激」という道具をポンと置かれている。
それを、どう使うかは、人間の智慧に任されている。
アレと同じだ。
猿の檻に幾つかの道具が置かれている。
手の届かないところにバナナ。
道具をどう使うかで、バナナが得られる。
人間にとってのバナナは・・・
多分、健康とか幸せとかになるだろう。
グレちゃん(創造主)はオチャメだ。
人間に幾つもの道具を与えた。
道具は使い方、工夫次第だ。
それなのにアホの人間は勘違いする。
文明は人類の智慧だと勘違いする。
発明は人間の智慧だと勘違いする。
道具に智慧は含まれない。
使い方、活用の仕方に智慧がある。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
気功にもいろいろある。
エネルギーとかパワーとかで表現する気功がある。
それらは「刺激」を扱うといってもいいだろう。
(エネルギーの定義によるけど・・・
その話をしたら、とてもメンドウ・・・)
ワシは「調和」を促す氣功師。
だから「刺激」を扱わない。
パワーで回復を促すのではない。
だから刺激はワシの氣功の話ではない。
生きている事は変化の連続。
だから生命はアナログだ。
肉体は生まれ、成長し、衰退する。
生活はアナログで成り立つ。
意識は変化が断続する。
だから意識の変化はデジタルだ。
魂は徐々に成長しない。
(徐々に変わると勘違いはする・・・)
魂はイキナリ別な大きさに変わるのだ。
努力で魂は成長できない仕組みだ。
捨てて得られる仕組み側だ。
ここを勘違いする人が多い・・・。
修行で魂は成長しないってばぁ。
アナログなモノは「刺激」で変化する。
生きているのは「刺激」の連続だ。
万物流転は「刺激の連続」でもある。
生命の本質は「刺激」と係わらないが、
「刺激」によって活性する癖がある。
生きている間は「刺激」は有効なのだ。
魂が永遠かどうかワシは知らないが、
魂は生死に係わらず存在する。
生きている間にこだわらず存在する。
だから魂は「刺激」を必要としない。
「調和」を必要として成長するようだ。
生命の本質と魂は兄弟姉妹だ。
同じではないが、似ている。
生命も「調和」で発生し活性する。
「調和」で回復、修正、成長する。
だが、この世は特殊な仕組みだ。
この世に限っての魂。
この世に限っての生命。
この場合は「刺激」の影響がある。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
ワシの仕事(ライフワーク)は生命の活性化。
健康を「生命の活性」としてコンサルタントする。
病に対しては治療的になる。
生命の活性による、回復の手伝いだ。
医師でないので、病をいじらない方法だ。
暮らしの中に健康を活かす指導もある。
ヨガの応用。
ヨガは形ではなく、実践応用哲学でもある。
氣功の応用もある。
どちらも優れた御師匠様に巡り会えた。
御師匠様が桁外れに優秀だから、
ワシのような半端者でも何とかなった。
優秀な弟子なら師匠が優秀でなくても何とかなる。
だが、落ちこぼれの弟子は通常は役に立たない。
桁外れに優秀な師匠だけが、ロクデナシの弟子を持てる。
ワシは超優秀な御師匠様達の縁をいただいたようだ。
ラッキー♪
健康へのアプローチは幾つもある。
どんな状況からでも何とかなる。
方法は一つや二つじゃない。
方法を限定すると、逆に健康から遠ざかる。
この世はヒネクレている仕組みだぜ。
「○○が最高の健康法」
何か一つ知ると周りが見えなくなる。
最初はいい。
ある程度はいい。
だが、続けると・・・闇(病)に近づく。
こだわりの継続は、不自然なのだ。
当たり前・・・。
この世は諸行無常なのだ。
万物は常に流転している。
変化し調和に力が働き安定に向かう。
しかし変化は常だ。
こんなの、当たり前だ。
同じ健康法を継続する事は不自然。
健康は自然体に沿っている。
不自然では健康が離れてしまうのだ。
常に変化に応用できる「やわらかさ」
それが健康への道となる。
いろいろな健康への道があるが、
刺激を使う方法と無刺激な方法に分ける事ができる。
ほとんどの道は刺激が伴う。
無刺激な方法はマレだ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
この部分に関する話は説明し切れない。
まだこの10倍は書けるかもしれない。
だから、今回で無理やり終わる事にする。
ワシはイジワルなのだ。
神様からイジワルを教わったからだ。
モンクは神様に言ってくれ。
「余裕命」は使う命ではない。
使わない為に持っている命だ。
使ったら、回復に何十倍もかかる。
通常の回復方法では僅かしか戻らない。
だから、その大切さを書きたかった。
それは・・・その通りなんだ。
だけど・・・必ず別な道も用意されている。
ワシはプロだから、知る必要があったのかも。
特殊ではあるが、道はある。
絶望近く使ってしまっても、方法がある。
だが、これを伝えるのは難しい。
実行するのは、更に難しい。
実行させるのは、更に更に、超難しい。
難しくても、方法はある。
いつでも希望があるというわけだ。
「余裕命」を使う(主に西洋医学の)治療法。
「余裕命」の回復が出来るのなら有効だ。
病気の治療の役目は病院や医師にある。
だが「命」の回復はいつでも患者頼りだった。
「命の回復」は医師の役目ではない。
「治療は出来るが、助かるかどうかは本人次第」
ところが「余裕命」の部分にまで踏み込んで、
回復が手伝えるなら・・・有効だ。
その手伝いの役目としてワシ等(プロヒーラー)がいる。
(プロだから段階は限りなくある・・・)
医療は医師側だ。
健康はワシ等だ。
そろそろ、本気で手を組む時代だと思う。
権力は医師側にある。
そちらから近づいてきてくれ。
もう・・・いい頃だと思うぞ。
そちらも、手詰まりだろ?
中心になるのは患者だ。
最優先は患者の健康だ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
だからかぁ・・・
だから故御師匠様は桁外れに大きかったのか。
謎が解けた瞬間でもある。
「夢の授業」は同時に幾つも学べる。
便利ではあるが、ワシは学ばなくてもいいのに・・・。
もっとマジメな人に教えればいいのに・・・。
ワシ等の仕事。
仏教的に表現するなら明王系の仕事だ。
(普通の人は菩薩系だ。菩薩行をする)
病を引き受けて、自由になってしまう。
マゾみたいな仕事だなぁ・・・。
自由とは「やわらかさ」の範囲だ。
でも生きている時は「生命」の容量がある。
だから限度がある。
そう、思い込んでいた自分がいた。
器の大きさもある。
そう、思い込んでいた自分がいた。
菩薩系と明王系の違いが理解してなかった。
違いは同じ元を理解する為にあるのだ。
だから菩薩と明王は同じであり、違う。
菩薩が自力本願系で、明王は他力本願系だ。
どちらも同じ元だが、アプローチが違う。
そして、ワシは他力本願系の性質だ。
他力本願系には自分のモノが無い。
命も器も自分のモノではない。
だから限度が無い。
自由度によって、使える量や大きさが変わる。
節操なく、変わる・・・。
ワシにピッタリだ・・・。
「余裕命」の部分も同じだ。
仮限界線の上の命も同じだ。
能力も器も同じだ。
変わる時は
桁外れになるのが当たり前だ。
ナマケモノのワシ向きではある。
ありがたいような、
ありがた迷惑なような・・・
(ワシは多分、ばちあたりなヤツだと思うぞ)
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
こういった題材を書いていると時々起きる現象がある。
何故だか知らない。
夢で教えられるのだ。
強制的に夢で勉強させられるのだ。
現実では勉強から逃避するナマケモノだ。
ワシは何も知らなくてもいい。
ワシはアホでいい(アホだもん・・・)。
「学び」なんてしたくない。
そ、それなのに・・・
この世はヒネクレている。
神様はイジワルだ。
勉強好きな人に教えればいいのに。
夢で逃げ場が無いワシに教える。
神様はサドだ。
こうなったら、忘れてやる。
忘れるのは得意だ。
忘れ競争があったら県大会までいけるぞ。
多分・・・予選敗退だけど・・・
(中途半端な強さだなぁ・・・)
だけど・・・これが忘れない。
自分で学んだ事は忘れるのに・・・。
夢で無理やり教え込まれた事は忘れない。
忘れられないのだ。
か、神様はイジワルだ・・・。
(神様だけど冗談の神様だと思う・・・)
今回は「余裕命」に関してだ。
ワシは「命」をその個体のモノだと思っていた。
一定の器に流れる力だと思っていた。
元は違うだろうが、この世では個体に属するモノ。
「命」を分けていただく事。
「命」を活性化する事。
「命」を消耗する事。
そして「命」を失う事が出来る。
そう思っていた。
ところが「夢の授業」では違っていた。
「命」は「氣」の仕組みと同じ。
この世の仕組みと同じ。
自由自在だった・・・。
個体に属すると決めれば、その通りだ。
活性化できる、とすれば、出来る。
失ってしまう、とすれば、失う。
な、なんて、イイカゲンなヤツ・・・。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
仮の限界線の下にある「余裕命」
ここまで踏み込んでする治療がある。
例えば癌治療などだ。
「癌の命」と「患者の命」の競争。
どちらが先に倒れるか。
命を削って治療する。
治療法の是非は問えない。
医師法やら○○法などがある。
医師以外が言ってはいけないのだ。
言えるほどの知識も無い。
正誤はもちろん口出しできない。
ワシにも判らない。
ただ「余裕命」を削ると回復は遅れる。
仮限界線の上部の「命」とは違うのだ。
回復は「余裕命」の量で変わる。
医師は危険な療法を使える。
その為の免許だ。
ワシ等は危険な療法は使わない。
回復への手段が最初から別なのだ。
そこの分別は明確に持っている。
(持っていない治療者もいる・・・)
いろいろな治療者がいる。
いろいろな治療法がある。
いろいろな回復法がある。
いろいろな能力もある。
それぞれに適する場合がある。
ワシの場合、ある事に気づいた。
直接「余裕命」の応援が出来るようだ。
通常はこの部分は自然に任せるしか手が無い。
上部の「命」なら応援出来る手段は多い。
だが「余裕命」は他が手伝えない。
唯一手伝えるとしたら・・・
それは「余裕命」と同じモノ。
そこで気づいた。
ワシの扱う「氣」
「余裕命」と同じモノが混じっている。
(別なモノも混じっているなぁ・・・)
こんなの自分の力であるはずがない。
故御師匠様の言った事の意味の深さ。
改めて深く認識する。
これは、ワシの力じゃない。
自分の能力だと思ったら僅かなモノしか使えない。
放していれば、大きなモノが活用できる。
ここをキチンと認識している限り、
ワシは「余裕命」を応援できるかも。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
深い病になる方法がある。
病になりたくて、なったのではない。
だが、それは病になる方法なのだ。
それは「無理の継続」・・・。
「理」は自然法則。
自然は「生命」のことだ。
「理」は生命法則。
それを無視するのが「無理」。
生命法則を壊すのが「無理」なのだ。
生命は「やわらかい」。
少しの無理なら自動修復する。
復元力は最初から備わっている。
少しくらい法則に逆らっても大丈夫さぁ。
法をガチガチに守る方が生命弱化になる。
少しの無理。
たまに破る法則。
それならいい。
むしろ、こっそり奨励する・・・。
ちょっとだけよ、は愉しみでもある。
アハハ・・・。
だが継続はアカン!
それは必ず壊れる。
当たり前やんけ!
生命法則を無視し続けて、
生命が続くはずが無いよねぇ・・・。
継続は形になる、という。
だが、何を継続するか、が重要だ。
無理の継続は「病」という形になる。
それも深い病という形になる。
何事も継続すればいいわけじゃない。
何事も努力すればいいわけじゃない。
「いいかげん」なら継続しても大丈夫だ。
「やわらかさ」なら継続してみよう。
「生命」も継続するようにしようぜ。
「余裕命」もそのままで継続するものだ。
「優しさ」も継続していい。
「愉しさ」も継続していい。
「気持ちよさ」も継続していい。
形にならないモノなら継続していい。
大切なモノは形にならない。
この世は・・・ヒネクレているのだ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」