とだ*やすこの「いまここ@島本」

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大阪府島本町議会議員
とだ*やすこの活動報告

開発は止められない

2010年02月09日 | とだ*やすこの活動日記
水無瀬離宮址遺跡の興奮も冷めやらぬまま、1月24日の現地発表会から二週間。今一度、ひっそりと現場に立ってみようと第一小学校裏を訪ねてみました。遺跡は跡形もなく埋め戻されていました。開発と埋蔵文化財発掘調査とのこういった関係を認識できていなかったので、非常にショックを受けました。

開発業者にとってこの間の一日一日は、まさに「お金」に等しい価値。調査は基本的に、開発業者の協力的な姿勢によってはじめて可能になるものです。町の学芸員からは「事情をよく理解していただき、良心的な協力を得られている」と聞き及んでいますが、こんなに早く埋め戻されるとは・・・

ついこの間まで水田であった広瀬のこの地には、近い将来、およそ20戸の新住宅が建設されます。今後は業者側との交渉、日程調整により、町が費用を負担して(多くは国庫負担金となるようです)一定の箇所を選択し、綿密な調査研究、そして記録を残すことになります。

にわかに関心を寄せた者が口を出すまでもなく、遺跡公園などにして町が管理することができないことへの学芸員の無念は、いかばかりかと拝察します。水無瀬離宮そのものの遺構とと確定されたのならともかく、関連遺跡の一部として確認されたという現状では、府や国との連携で開発をストップして保存を図るというのは無理なようです。

先月の現地説明会には、NHKおよび新聞各社の報道の成果もあり、千人規模の見学者がありました。その半数は町外からの来訪者で、遠路遥々(佐賀県や岐阜県と聞き及ぶ)来られた方も少なくはなく、多くの専門家が深い関心を寄せられていたとのことです。

「反響の大きさに驚いた」と町の関係者が口を揃える一方で、遺跡が発見されれば専門家や考古学ファンが見学に訪れるのは周知の事実、まして後鳥羽上皇ゆかりの水無瀬離宮に関連する遺跡が「ついに発見された」という歴史的出来事に対する反響は予測できて当然、と町の認識を疑問視する声も巷にはありました。

当然ながら、帰路、水無瀬神宮を訪れる人は多く「町の魅力を内外にPRする」絶好のチャンスでした。あわせて案内できたら、後鳥羽上皇、承久の変、菊のご紋、名水百選、将棋の水無瀬駒など、日本にとって重要な歴史文化遺産であることが理解していただけたのに、残念でした。

とはいえ、遺跡の発見は、地道な積み重ねと経験に裏づけされた「幸運」「勘」があってこそ実現可能なものです。誰もが驚く、非常に浅い箇所での発見でしたが、もし、重機が一気に土をかき混ぜていたら、もし、埋蔵物に瓦が含まれていなかったら・・・島本町史にのこる歴史的遺跡発見の機会を逃していたのです。

この度の成功の背景には、過去の実績により広瀬地区全域が埋蔵文化財の「包蔵地」に指定されていること(開発業者の届出が義務付けられています)。遅まきながら、わが島本町に「文化財保護条例」(平成20年7月施行)ができていたことがあります。「水無瀬離宮跡」の存在した地域として今後の調査に確実な方向性と重要性が生まれます。

現在の資料、現在の学問では「関連施設」と位置づけされている遺跡が、将来の新たな展開で再発見されるためにも、詳細な調査による記録が重要。数百年の年月を経て、奇跡的に遺されていた先人の仕事と営みが今に甦ったのですから、昨今の財政困難を理由に不充分な対応をするとしたら、過去にも未来にも言い訳ができません。

水無瀬離宮址関連遺跡の発見によって、島本町の文化行政に新たな価値観が生まれるのを期待します。文化・芸能芸術振興による地域・世代間交流を基に、やがて、そのことが町の知名度向上につながり、結果的に「住んでみたい町」となる。わたし自身、そういう町をめざして活動します。

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