12月8日は成道会の日、釈尊が悟りを開かれた日とされている。
それに因み、禅門においては1日から8日まで臘八摂心という8日間連続の坐禅の修行が行われている。
7日7晩、自己の内面を点検された結果、バラモン教のいう我の本体たる霊魂、いわゆるアートマンの存在を見つけることはできなかった。
しかし、現に生きている自己の存在がある。それをいろんなものの寄せ集め、つまり縁起による化和合の存在と考えられたのである。
つまり、縁の集合体だから、我という本体はない、それを無我にしてしまった。でも、これが問題。
無我という言葉に囚われ、縁による集合体を認めない人がいる。それでいて輪廻を認めている。どういう思考からそうなるのか。不思議である。
その問題の根本は、縁というものが切れると考えられていることである。縁を切る、縁を結ぶ、有縁、無縁という言葉のとおりである。寄せ集めだからバラバラになる。ないとも思えばないということにもなる。
しかし、私の探究では縁は切れないということである。遠ざけたり近づけたりはできるが絶対に切れない。一つの存在にあらゆるものが関わっている、宇宙の一切のものが関わっているのである。私のいう宇宙力とは縁のことなのである。
そのことは仏教でもちゃんと言っているのである。
一即一切、一切即一
重重無尽 法界縁起
なぜそう言えるのか、これは近代科学のお陰である。電磁力と重力の影響範囲が無限大という物理の法則があるからである。この無限大の力が縁なのである。
我々は縁で繋がった宇宙全体を生きているのだし、そうすると我々のちょっとした動きが宇宙全体を動かしているということにもなる。
その宇宙生命を我が生命とするなら、それは死ぬことはないのである。この宇宙は釈尊の生きられた宇宙であり、釈尊の生命である。
宇宙生命から新しい生命が生まれてくる。我々は釈尊の生命を継いで生まれてくるのである。
私がいて、あらゆるものが存在する。あなたがいてあらゆるものが存在する。あらゆるのものが欠けることなく繋がり合って、宇宙を構成する。
私がいなければ、宇宙は存在しない。あなたがいなければ、宇宙は存在し得ない。
「宇宙力で生きよう 死んでも死なないいのちを生きよう」