NEWSポストセブン 2017年4月4日 16時00分 (2017年4月4日 16時33分 更新)
陽岱鋼は今季の巨人軍の浮沈を握る 時事通信社
日本プロ野球だけでなく、米メジャーリーグでも台湾出身選手の活躍が目覚ましい。九州と同程度の面積の小国から、なぜ才能が続々輩出されるのか。約1世紀前、野球文化の「種」を蒔いたのは日本人だった。ジャーナリストの野嶋剛氏がリポートする。
* * *
多くの場合、取材の取っ掛かりは、小さな疑問から始まる。台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」は、2015年に日本で上映され、人気を集めた。台湾南西部の高校野球チーム嘉義農林(以下KANO)学校が甲子園初出場準優勝という旋風を巻き起こす実話に基づくストーリーだ。
KANOには複数の台湾先住民選手が登場する。先住民は中国大陸から漢人の移民が活発化する以前に台湾にいた人々で、日本統治下の台湾では「蕃人」、のちに「高砂族」と呼ばれた【*注1】。
【*注1:蕃人は差別的な意味を含むため、のちに「高砂族」と改名された。戦後の台湾では「原住民」と記述する(日本語訳は「先住民」)。現在、人口比で2%のおよそ50万人おり、政府から独自の言語、文化を有すると認定された16部族に分かれる】
KANOは決勝で中京商に敗れたが、「日本人、漢人、蕃人」の混成チームであることが、当時の日本社会で大きな話題になった。KANOを率いた日本人監督、近藤兵太郎が語った名セリフが、映画でもクローズアップされた。
「蕃人は足が速い。漢人は打撃が優れている。日本人は守備に長けている。こんな理想的なチームはない」
ただ、私はどこか腑に落ちなかった。嘉義など台湾西側に暮らす先住民は多くない。詳しく調べてみると、KANOで活躍した先住民選手の多くは西側でなく、台湾山脈を越えて、遠く離れた東側の先住民・アミ族だった。その点を論考した本や記事は日本どころか台湾でも見つからない。KANOに先住民がいた理由はスルーされていた。
もう一つ、気になる情報があった。日本プロ野球で活躍する台湾選手・陽岱鋼のことだ。彼も、KANOの選手たち同様、台東のアミ族である。偶然の一致か、あるいは、KANOと陽岱鋼をつなぐ点と線を結べるのか。
アミ族のふるさと、台東に向かった。台東には台北から台湾高鉄(新幹線)で高雄まで下り、南回りの台湾鉄道(在来線)で太平洋を右手に見ながら2時間で着く。飛行機で飛ぶ方が速いが亜熱帯から熱帯に変化する景色を見られる台湾半周のこのコースが私は好きだ。台東の自然の「色」は台北や高雄とはまるで違う。染みこむような海のブルーと山のグリーンに包まれた世界が眼下に広がる。
1970年代初期、その環境で育まれた一人の少年が英雄になった。後に中日ドラゴンズで活躍した郭源治だ。彼もまた、台東出身のアミ族である。少年野球の世界大会でエースとして優勝旗をもたらし、台湾全土が熱狂した。その郭源治に刺激を受けて小学校5年から野球を始めたのが、陽岱鋼の叔父、陽介仁だった。台東市内の野球場で陽介仁と会った。
「アミ族は漢人に比べて、弱く、貧しい、と子供心に信じていたのに、郭源治は世界で大活躍した。彼のようになりたいと思いました」
陽介仁は高校、大学で野球特待生となり、アンダースローの投手として日本のノンプロで活躍した。ある年、陽介仁がオフシーズンで台東に戻ると、兄の息子が真剣な眼差しで、問いかけてきた。
「おじさん、野球を教えて。おじさんみたいに日本で野球がしたい」
彼こそ、当時小学生低学年の陽岱鋼だった。陽介仁はこう答えた。
「野球の練習はつらいぞ。簡単にできるものじゃない。テストをしよう。キャッチボールでボールを一度も落とさなかったら合格だ」
陽介仁は最初軽くボールを投げたが、陽岱鋼があまりに簡単に捕球してしまう。力を入れて投げても一球も落とさなかった。
「才能がある、と思いましたね。それから岱鋼は学校が終わると午後に家に帰って、ずっと日が暮れるまで壁にボールを投げているのです。『有信仰的孩子(信念の強い子)』だと確信しました。今日の活躍は不思議ではありません」
陽岱鋼の2人の兄はすでに野球を始めていた。ソフトバンクで投手として所属し、現在台湾プロ野球で野手に転じた陽耀勲と日本の独立リーグなどに所属した陽品華である。陽岱鋼は素早く頭角を現した。抜群の運動神経。足の速さ。目の良さ。何より、周囲に「棒球小博士(少年野球博士)」と呼ばれるほど野球に精通し、どんなポジションでもこなした。
陽岱鋼は福岡第一高校にスカウトされ、高校時代に39本塁打の記録を残した。
ドラフト一位で日本ハムに入団し、今年、大型FAで巨人に入団した。いま日本で最も注目される台湾出身の野球選手である。興味深いのは、郭源治、陽岱鋼ら優れた選手が、人口わずか20万人の台東から次々と輩出されていることだ。その背景を日台野球関係者に取材すると、冒頭に紹介したKANOとの接点が浮かびあがってきた。
◆先住民だけの「能高団」
「ベースボール」が開国と共に米国から日本へ伝わったのは明治初期。武士道など日本の精神文化と融合した「野球」が、日清戦争に勝利し、清朝から割譲された台湾に渡った。そこには、集団競技に込めた「近代」と「日本精神」の輸出という面もあった。
折しも1920年ごろの台湾は初期の反乱を力で押さえつけ、先住民をいかに「日本国民」とするか模索する「教化」の時代に入っていた。彼らのすぐれた身体能力を生かし、日本式の規律を伝える方法として野球が選ばれたのは自然なことだったかもしれない。
台東と同じ台湾東側にある花蓮もアミ族ら先住民の人口比が多い。ここで台湾最初の先住民だけの野球チーム「能高団」が誕生した。能高は地元の山の名にちなむ。1925年、能高団は日本に遠征し、各地の高校と練習試合を組んで好成績を残した。先住民選手に目をつけ、主力4人をスカウトしたのが、当時、発足したばかりの野球部の強化を目指す平安中だった。今日で言うところの「野球留学」である【*注2】。
【*注2:4人のうち1人で、平安中のエースとなった羅道厚(日本名・伊藤次郎)はのちに東京六大学、東京セネタースで活躍する】
現在は「龍谷大平安高校」となった京都市内の同校を訪れたが、当時を詳しく知る人はいなかった。
だが同校の分厚い野球部史に詳しく台湾選手の活躍が記載されていた。留学生の加入で「チームの力は飛躍的に向上した」とあり、1927年に甲子園初出場、のちの黄金時代につながっていく。
京都の次は愛媛・松山だ。平安中の活躍とほぼ同時期、松山で伝統校が誕生した。松山商だ。初代監督はKANOの監督になる近藤兵太郎。松山商を甲子園常連校に育てあげた近藤は、親族の誘いで台湾に赴任した。
ここで一つの偶然の出会いが起きる。1931年、先住民選手を帯同した平安中が台湾遠征で嘉義を訪れたのだ。その実力に驚嘆した近藤はこんな言葉を残している。「野球こそ万民のスポーツだ」
近藤はいっそう先住民選手の登用に積極的になった。台湾東部でも能高団の活躍以来、先住民社会で野球は染み込むように広がっており、選手たちは活躍の場を求めてKANOなど西部の学校に越境入学したのだった。
戦後、日本の敗戦でKANO野球部はなくなり、近藤は故郷の松山に戻った。新田高校の野球部監督となった近藤の指導を受け、現在、松山市で企業経営にあたる司史朗は、こう振り返る。
「近藤先生は典型的な明治の教育者で、精神論と近代野球理論の両方を重視する厳しい無口な人でしたが、雨がふって座学の時間になると、台湾の先住民の選手は裸足の方が速く走れて、塁間を三歩半で走ってしまうなんて話を冗談交じりに懐かしそうに話しました」
嘉義のKANO、花蓮の能高団、陽岱鋼や郭源治ら台湾選手たち、草創期の日本高校野球を担った平安中や松山商。時代も場所もばらばらに散らばった「点」が、「アミ族」というキーワードによって、魔法のように「線」で結ばれていく。その手応えと興奮を取材で私は刻々と味わった。野球が残した轍の跡は、百年におよぶ日台関係の裏面史なのだという仮説は、確信に変わった。
近藤が育てたKANOの選手は日本の野球界でも活躍した【*注3】。一方で、多くの選手は戦後、故郷の台東に戻った。有名なのは、甲子園の準優勝メンバーの一人、上松耕一(陳耕元)だ。上松はアミ族ではなく、同じ先住民のプユマ族だが、戦後、台東で農業学校の校長になる。
【*注3:1931年の準優勝投手の呉明捷は早稲田大学で当時の六大学本塁打記録を作った。その後、4回甲子園に出た呉昌征は巨人などで活躍し、野球殿堂にも入っている。
台東県の知事も務めた息子の陳建年はこう回想する【*注4】。
【※注4:陳建年やその家族については司馬遼太郎の名著「街道をゆく 台湾紀行」の「千金の小姐」の一文のなかで登場している。】
「午後になると生徒たちの野球を農学校のグラウンドで指導し、そこにKANOの人たちも集まって自分たちも野球を楽しんでいました。美しい光景で、いまでも思い出します。KANO世代の人たちは野球が人生のすべて。子供たちを日本語で『ばかやろー』っていつも怒鳴りながら、わずかな収入からお金を出し合って、試合の遠征費を捻出していました」
上松は近藤を生涯の師と仰いだ。日本の敗戦が決まり、近藤が松山に引き揚げる直前、上松は台東から近藤をお別れに訪ねた。上松は一枚の結婚写真を近藤に渡した。近藤は生涯、その写真を手元から離さなかった。
戦後、大陸からきた国民党政府は、サッカーやバスケに力を入れ、日本が伝えた野球をあえて軽視した。だが、野球は廃れなかった。その灯をひっそりと台東で守り続けたのが上松ら先住民のKANO出身者だったのだ。
◆宋美齢からの手紙
日本時代に親しんだ野球への記憶も残っていた。野球に熱狂する世論に驚いた国民党政府は一転、選手育成に力を入れ、台東は台北などの高校や大学に選手を輩出する役割を担うようになる。
KANOを「第一世代」、その教え子を「第二世代」とすると、郭源治らは「第三世代」。彼らは国際大会で大活躍し、その野球熱は陽岱鋼ら「第四世代」には薄れるどころか、戦後強まっていく。
台東の豊年という集落で育った郭源治の家庭は貧しく、零細農家だった。父は日本教育を受け、田んぼの農作業の休憩の合間に裸足で練習する郭源治に野球を教えた。両親を貧困から野球によって引き上げたい。それが郭源治の原動力であり、幸い、台東には野球に打ち込む環境が整っていた。
「アミ族は勉強で漢人に勝てない。成功には野球が一番の近道だった。でも、本当に縁ですよ。お父さんが野球を日本時代にやっていなかったら、そして、KANOの人たちがいなければ、私は野球がこれほど上達しなかった」
郭源治は、日本で100勝100セーブをあげ、日本人女性と結婚して1989年には日本国籍を取得する。
「日本を第二の故郷にしたい」という思いのなかで、悩んだのは台湾政府から受け取った野球奨学金のことだった。
中学、高校まで学費は野球特待生でほぼ無料だったが、大学は学費があるため、大学入学を辞退した。それがメディアで報じられ、蒋介石元総統の夫人・宋美齢のポケットマネーによる奨学金を受け取って大学に通えることになった。祖国への「恩義」を裏切ることを恐れた郭源治は、当時まだ存命中だった宋美齢に手紙を書く。返事は、思いがけず、すぐに届いた。
「国籍は関係ありません。あなたの心がいちばん大事です」
手紙の一言で、最後に背中を押された。郭源治とのインタビューは、最初は中国語だったが、回答がどうも硬くて戸惑った。日本語に切り替えると、生き生きと語るようになった。日本在住歴が30年を超え、日本語が半ば母語化しているのだ。台北市内で会ったときは、WBCで一次ラウンドで台湾チームの敗退が決まった日だった。監督はくしくも同じ時代に西武で活躍した郭泰源だった。
「帰化しても故郷を失った気持ちにはならなかった。私には野球があり、野球が私と台湾をつないでいる。精神面で台湾の選手は甘く、諦めやすい。何事にも諦めない日本野球の良さや高い技術を台湾に伝えたい」
いま台湾の大学で野球を教える郭源治はつぶやいた。
現在、台湾のプロ野球選手213人のなかで、先住民の占める割合はなんと77人(36%)に達する。しかも年々増えているのだ【*注5】。【※注5: 2000年は17%、2010年は26%。2016年の77人の先住民選手のうちアミ族は65人を占め、圧倒的多数。当然、台東など東海岸出身者がことのほか多い】
この異常な比率は、日本が伝えた野球が、先住民のアミ族社会を中心に芽吹き、能高団やKANO、台東の少年野球などで脈々と引き継がれ、成長を続けていることを意味している。台湾は戦前戦後を通して優れた選手を日本に送り込み、彼らが持ち帰ったものがさらに台湾野球を豊かにしてきた。
近代において「戦争」と「統治」で交わった日本と台湾の運命が、野球という橋梁を通して、戦前戦後を経ていまなおつながる姿がそこにある。今日の陽岱鋼や郭源治らタイワニーズの活躍は、百年という遠い過去に台湾の土地に種が蒔かれていたのだ。
【著者プロフィール】野嶋剛●1968年生まれ。上智大学新聞学科卒。在学中に香港中文大学・台湾師範大学に留学。1992年朝日新聞社入社後、2001年からシンガポール支局長。その間、アフガン・イラク戦争の従軍取材を経験。政治部、台北支局長、AERA編集部などを経て、2016年4月からフリーに。主な著書に『ふたつの故宮博物院』『台湾とは何か』。
※SAPIO2017年5月号
http://www.excite.co.jp/News/sports_g/20170404/Postseven_506001.html
陽岱鋼は今季の巨人軍の浮沈を握る 時事通信社
日本プロ野球だけでなく、米メジャーリーグでも台湾出身選手の活躍が目覚ましい。九州と同程度の面積の小国から、なぜ才能が続々輩出されるのか。約1世紀前、野球文化の「種」を蒔いたのは日本人だった。ジャーナリストの野嶋剛氏がリポートする。
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多くの場合、取材の取っ掛かりは、小さな疑問から始まる。台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」は、2015年に日本で上映され、人気を集めた。台湾南西部の高校野球チーム嘉義農林(以下KANO)学校が甲子園初出場準優勝という旋風を巻き起こす実話に基づくストーリーだ。
KANOには複数の台湾先住民選手が登場する。先住民は中国大陸から漢人の移民が活発化する以前に台湾にいた人々で、日本統治下の台湾では「蕃人」、のちに「高砂族」と呼ばれた【*注1】。
【*注1:蕃人は差別的な意味を含むため、のちに「高砂族」と改名された。戦後の台湾では「原住民」と記述する(日本語訳は「先住民」)。現在、人口比で2%のおよそ50万人おり、政府から独自の言語、文化を有すると認定された16部族に分かれる】
KANOは決勝で中京商に敗れたが、「日本人、漢人、蕃人」の混成チームであることが、当時の日本社会で大きな話題になった。KANOを率いた日本人監督、近藤兵太郎が語った名セリフが、映画でもクローズアップされた。
「蕃人は足が速い。漢人は打撃が優れている。日本人は守備に長けている。こんな理想的なチームはない」
ただ、私はどこか腑に落ちなかった。嘉義など台湾西側に暮らす先住民は多くない。詳しく調べてみると、KANOで活躍した先住民選手の多くは西側でなく、台湾山脈を越えて、遠く離れた東側の先住民・アミ族だった。その点を論考した本や記事は日本どころか台湾でも見つからない。KANOに先住民がいた理由はスルーされていた。
もう一つ、気になる情報があった。日本プロ野球で活躍する台湾選手・陽岱鋼のことだ。彼も、KANOの選手たち同様、台東のアミ族である。偶然の一致か、あるいは、KANOと陽岱鋼をつなぐ点と線を結べるのか。
アミ族のふるさと、台東に向かった。台東には台北から台湾高鉄(新幹線)で高雄まで下り、南回りの台湾鉄道(在来線)で太平洋を右手に見ながら2時間で着く。飛行機で飛ぶ方が速いが亜熱帯から熱帯に変化する景色を見られる台湾半周のこのコースが私は好きだ。台東の自然の「色」は台北や高雄とはまるで違う。染みこむような海のブルーと山のグリーンに包まれた世界が眼下に広がる。
1970年代初期、その環境で育まれた一人の少年が英雄になった。後に中日ドラゴンズで活躍した郭源治だ。彼もまた、台東出身のアミ族である。少年野球の世界大会でエースとして優勝旗をもたらし、台湾全土が熱狂した。その郭源治に刺激を受けて小学校5年から野球を始めたのが、陽岱鋼の叔父、陽介仁だった。台東市内の野球場で陽介仁と会った。
「アミ族は漢人に比べて、弱く、貧しい、と子供心に信じていたのに、郭源治は世界で大活躍した。彼のようになりたいと思いました」
陽介仁は高校、大学で野球特待生となり、アンダースローの投手として日本のノンプロで活躍した。ある年、陽介仁がオフシーズンで台東に戻ると、兄の息子が真剣な眼差しで、問いかけてきた。
「おじさん、野球を教えて。おじさんみたいに日本で野球がしたい」
彼こそ、当時小学生低学年の陽岱鋼だった。陽介仁はこう答えた。
「野球の練習はつらいぞ。簡単にできるものじゃない。テストをしよう。キャッチボールでボールを一度も落とさなかったら合格だ」
陽介仁は最初軽くボールを投げたが、陽岱鋼があまりに簡単に捕球してしまう。力を入れて投げても一球も落とさなかった。
「才能がある、と思いましたね。それから岱鋼は学校が終わると午後に家に帰って、ずっと日が暮れるまで壁にボールを投げているのです。『有信仰的孩子(信念の強い子)』だと確信しました。今日の活躍は不思議ではありません」
陽岱鋼の2人の兄はすでに野球を始めていた。ソフトバンクで投手として所属し、現在台湾プロ野球で野手に転じた陽耀勲と日本の独立リーグなどに所属した陽品華である。陽岱鋼は素早く頭角を現した。抜群の運動神経。足の速さ。目の良さ。何より、周囲に「棒球小博士(少年野球博士)」と呼ばれるほど野球に精通し、どんなポジションでもこなした。
陽岱鋼は福岡第一高校にスカウトされ、高校時代に39本塁打の記録を残した。
ドラフト一位で日本ハムに入団し、今年、大型FAで巨人に入団した。いま日本で最も注目される台湾出身の野球選手である。興味深いのは、郭源治、陽岱鋼ら優れた選手が、人口わずか20万人の台東から次々と輩出されていることだ。その背景を日台野球関係者に取材すると、冒頭に紹介したKANOとの接点が浮かびあがってきた。
◆先住民だけの「能高団」
「ベースボール」が開国と共に米国から日本へ伝わったのは明治初期。武士道など日本の精神文化と融合した「野球」が、日清戦争に勝利し、清朝から割譲された台湾に渡った。そこには、集団競技に込めた「近代」と「日本精神」の輸出という面もあった。
折しも1920年ごろの台湾は初期の反乱を力で押さえつけ、先住民をいかに「日本国民」とするか模索する「教化」の時代に入っていた。彼らのすぐれた身体能力を生かし、日本式の規律を伝える方法として野球が選ばれたのは自然なことだったかもしれない。
台東と同じ台湾東側にある花蓮もアミ族ら先住民の人口比が多い。ここで台湾最初の先住民だけの野球チーム「能高団」が誕生した。能高は地元の山の名にちなむ。1925年、能高団は日本に遠征し、各地の高校と練習試合を組んで好成績を残した。先住民選手に目をつけ、主力4人をスカウトしたのが、当時、発足したばかりの野球部の強化を目指す平安中だった。今日で言うところの「野球留学」である【*注2】。
【*注2:4人のうち1人で、平安中のエースとなった羅道厚(日本名・伊藤次郎)はのちに東京六大学、東京セネタースで活躍する】
現在は「龍谷大平安高校」となった京都市内の同校を訪れたが、当時を詳しく知る人はいなかった。
だが同校の分厚い野球部史に詳しく台湾選手の活躍が記載されていた。留学生の加入で「チームの力は飛躍的に向上した」とあり、1927年に甲子園初出場、のちの黄金時代につながっていく。
京都の次は愛媛・松山だ。平安中の活躍とほぼ同時期、松山で伝統校が誕生した。松山商だ。初代監督はKANOの監督になる近藤兵太郎。松山商を甲子園常連校に育てあげた近藤は、親族の誘いで台湾に赴任した。
ここで一つの偶然の出会いが起きる。1931年、先住民選手を帯同した平安中が台湾遠征で嘉義を訪れたのだ。その実力に驚嘆した近藤はこんな言葉を残している。「野球こそ万民のスポーツだ」
近藤はいっそう先住民選手の登用に積極的になった。台湾東部でも能高団の活躍以来、先住民社会で野球は染み込むように広がっており、選手たちは活躍の場を求めてKANOなど西部の学校に越境入学したのだった。
戦後、日本の敗戦でKANO野球部はなくなり、近藤は故郷の松山に戻った。新田高校の野球部監督となった近藤の指導を受け、現在、松山市で企業経営にあたる司史朗は、こう振り返る。
「近藤先生は典型的な明治の教育者で、精神論と近代野球理論の両方を重視する厳しい無口な人でしたが、雨がふって座学の時間になると、台湾の先住民の選手は裸足の方が速く走れて、塁間を三歩半で走ってしまうなんて話を冗談交じりに懐かしそうに話しました」
嘉義のKANO、花蓮の能高団、陽岱鋼や郭源治ら台湾選手たち、草創期の日本高校野球を担った平安中や松山商。時代も場所もばらばらに散らばった「点」が、「アミ族」というキーワードによって、魔法のように「線」で結ばれていく。その手応えと興奮を取材で私は刻々と味わった。野球が残した轍の跡は、百年におよぶ日台関係の裏面史なのだという仮説は、確信に変わった。
近藤が育てたKANOの選手は日本の野球界でも活躍した【*注3】。一方で、多くの選手は戦後、故郷の台東に戻った。有名なのは、甲子園の準優勝メンバーの一人、上松耕一(陳耕元)だ。上松はアミ族ではなく、同じ先住民のプユマ族だが、戦後、台東で農業学校の校長になる。
【*注3:1931年の準優勝投手の呉明捷は早稲田大学で当時の六大学本塁打記録を作った。その後、4回甲子園に出た呉昌征は巨人などで活躍し、野球殿堂にも入っている。
台東県の知事も務めた息子の陳建年はこう回想する【*注4】。
【※注4:陳建年やその家族については司馬遼太郎の名著「街道をゆく 台湾紀行」の「千金の小姐」の一文のなかで登場している。】
「午後になると生徒たちの野球を農学校のグラウンドで指導し、そこにKANOの人たちも集まって自分たちも野球を楽しんでいました。美しい光景で、いまでも思い出します。KANO世代の人たちは野球が人生のすべて。子供たちを日本語で『ばかやろー』っていつも怒鳴りながら、わずかな収入からお金を出し合って、試合の遠征費を捻出していました」
上松は近藤を生涯の師と仰いだ。日本の敗戦が決まり、近藤が松山に引き揚げる直前、上松は台東から近藤をお別れに訪ねた。上松は一枚の結婚写真を近藤に渡した。近藤は生涯、その写真を手元から離さなかった。
戦後、大陸からきた国民党政府は、サッカーやバスケに力を入れ、日本が伝えた野球をあえて軽視した。だが、野球は廃れなかった。その灯をひっそりと台東で守り続けたのが上松ら先住民のKANO出身者だったのだ。
◆宋美齢からの手紙
日本時代に親しんだ野球への記憶も残っていた。野球に熱狂する世論に驚いた国民党政府は一転、選手育成に力を入れ、台東は台北などの高校や大学に選手を輩出する役割を担うようになる。
KANOを「第一世代」、その教え子を「第二世代」とすると、郭源治らは「第三世代」。彼らは国際大会で大活躍し、その野球熱は陽岱鋼ら「第四世代」には薄れるどころか、戦後強まっていく。
台東の豊年という集落で育った郭源治の家庭は貧しく、零細農家だった。父は日本教育を受け、田んぼの農作業の休憩の合間に裸足で練習する郭源治に野球を教えた。両親を貧困から野球によって引き上げたい。それが郭源治の原動力であり、幸い、台東には野球に打ち込む環境が整っていた。
「アミ族は勉強で漢人に勝てない。成功には野球が一番の近道だった。でも、本当に縁ですよ。お父さんが野球を日本時代にやっていなかったら、そして、KANOの人たちがいなければ、私は野球がこれほど上達しなかった」
郭源治は、日本で100勝100セーブをあげ、日本人女性と結婚して1989年には日本国籍を取得する。
「日本を第二の故郷にしたい」という思いのなかで、悩んだのは台湾政府から受け取った野球奨学金のことだった。
中学、高校まで学費は野球特待生でほぼ無料だったが、大学は学費があるため、大学入学を辞退した。それがメディアで報じられ、蒋介石元総統の夫人・宋美齢のポケットマネーによる奨学金を受け取って大学に通えることになった。祖国への「恩義」を裏切ることを恐れた郭源治は、当時まだ存命中だった宋美齢に手紙を書く。返事は、思いがけず、すぐに届いた。
「国籍は関係ありません。あなたの心がいちばん大事です」
手紙の一言で、最後に背中を押された。郭源治とのインタビューは、最初は中国語だったが、回答がどうも硬くて戸惑った。日本語に切り替えると、生き生きと語るようになった。日本在住歴が30年を超え、日本語が半ば母語化しているのだ。台北市内で会ったときは、WBCで一次ラウンドで台湾チームの敗退が決まった日だった。監督はくしくも同じ時代に西武で活躍した郭泰源だった。
「帰化しても故郷を失った気持ちにはならなかった。私には野球があり、野球が私と台湾をつないでいる。精神面で台湾の選手は甘く、諦めやすい。何事にも諦めない日本野球の良さや高い技術を台湾に伝えたい」
いま台湾の大学で野球を教える郭源治はつぶやいた。
現在、台湾のプロ野球選手213人のなかで、先住民の占める割合はなんと77人(36%)に達する。しかも年々増えているのだ【*注5】。【※注5: 2000年は17%、2010年は26%。2016年の77人の先住民選手のうちアミ族は65人を占め、圧倒的多数。当然、台東など東海岸出身者がことのほか多い】
この異常な比率は、日本が伝えた野球が、先住民のアミ族社会を中心に芽吹き、能高団やKANO、台東の少年野球などで脈々と引き継がれ、成長を続けていることを意味している。台湾は戦前戦後を通して優れた選手を日本に送り込み、彼らが持ち帰ったものがさらに台湾野球を豊かにしてきた。
近代において「戦争」と「統治」で交わった日本と台湾の運命が、野球という橋梁を通して、戦前戦後を経ていまなおつながる姿がそこにある。今日の陽岱鋼や郭源治らタイワニーズの活躍は、百年という遠い過去に台湾の土地に種が蒔かれていたのだ。
【著者プロフィール】野嶋剛●1968年生まれ。上智大学新聞学科卒。在学中に香港中文大学・台湾師範大学に留学。1992年朝日新聞社入社後、2001年からシンガポール支局長。その間、アフガン・イラク戦争の従軍取材を経験。政治部、台北支局長、AERA編集部などを経て、2016年4月からフリーに。主な著書に『ふたつの故宮博物院』『台湾とは何か』。
※SAPIO2017年5月号
http://www.excite.co.jp/News/sports_g/20170404/Postseven_506001.html