現代ビジネス編集部 2022.09.08
漫画家デビューから50年、いまだに現役漫画家として連載を続けている村上もとかさん。その半世紀の軌跡をたどる原画展「村上もとか展」が、東京大学弥生門の目の前に建つ弥生美術館で開催されている(展示は9月25日〔日〕まで)。昭和40年代からの数々のヒット作の生原稿、関連グッズが展示されているのだが、圧倒されるのは、半世紀の間に描かれた作品のバラエティの豊富さだ。カーレースのF1、剣道、登山、ボクシング、日中の近現代史、幕末、医療、アイヌ民族、満州、少女漫画……。はたして村上さんは、なぜこれほど多様な題材に挑み、どのようにしてそのストーリー世界を構築していったのだろうか?
『赤いペガサス』『六三四の剣』『龍-RON-』……
村上もとかさん(71歳)は、昭和47(1972)年に『燃えて走れ』(週刊少年ジャンプ)でデビュー。以来50年、メジャー漫画誌に間断なく連載を続け、多くのヒット作を世に送り出してきた。
50代以上の昭和世代の漫画ファンなら、週刊少年サンデーに掲載されたF1漫画『赤いペガサス』やテレビアニメにもなった剣道漫画の大ヒット作『六三四の剣』、山岳漫画の名作『岳人(クライマー)列伝』に夢中になったはずだ。
平成になると、迫力満点のボクシング漫画『ヘヴィ』、日中の近現代史を壮大なスケールで描いた大河ロマン『龍—RON−』、現代の医者が動乱の幕末にタイムスリップするという医療サスペンスの傑作『JIN−仁−』、少女漫画界で活躍した満州育ちの女傑を描いた伝記漫画『フイチン再見!』など、青年誌にも活躍の場を拡げ、話題作を連発する。『JIN-仁-』はドラマ化作品も大ヒットし、コロナ禍での再放送も高視聴率を上げた。
そして、令和の現在は、幕末の大坂を舞台にアイヌの血を引く医師の活躍を描く『侠医冬馬』をグランドジャンプに連載中で、古希を越えてもますます元気だ。
世界を席巻する日本漫画界には、大ヒット作を生み出した漫画家はそれこそ星の数ほどいる。だが、村上さんのように太く長く活躍し続けている漫画家はそうはいない。
村上さんが、最初のヒット作『赤いペガサス』を描き始めた1977年といえば、手塚治虫さんが、『ブラックジャック』『三つ目がとおる』『火の鳥』を始め6本の連載を抱え、今年の年明けに亡くなった水島新司さんが、『ドカベン』と『野球狂の詩』を連載していた頃だ。
伝説となった漫画家たちの全盛期、同じ土俵で競い合い、50年経った今でも現役バリバリだというのだから恐れ入るしかない。
しかも、村上さんはキャリアが長いだけではない。ずっと漫画の最前線に立ち続けている。そして、描く題材は驚くほど多岐にわたり、全部同じ漫画家が描いたとは思えないほどだ。また、どの作品をとっても、老若男女を問わず夢中にさせるストーリーの面白さには目を瞠るものがある。
改めて、村上さんが50年の間に描いてきた作品群を眺めると、彼が漫画界に残してきた功績はとても大きいことに気づく。日本漫画史における巨星の一人と言ってもいいのではないだろうか。
神官の血を引くせいなのかどことなく雅な雰囲気をまとい、春の風のように穏やかでひょうひょうと生きているように見える村上さん。なぜ50年の長きにわたって、これほど多様で質の高い漫画を世に送り出し続けることができたのか。
武蔵野台地の閑静な住宅街にたたずむ仕事場を訪ねてみた。
何でも描く! それが漫画家
——村上さんは、『赤いペガサス』を描いたときは運転免許を持っていなかったし、竹刀に触れたこともなかったのに『六三四の剣』を、山歩きさえしたことがなかったのに『岳人列伝』を描かれたというのには、ただただ驚きましたが、ご自身がまったく接点がなかった題材をとりあげることが多いのはどうしてなんでしょう?
村上 僕が子供の頃は、漫画家さんというのは何でも描くものだと思っていました。僕が夢中になっていた漫画家さんは、手塚治虫さんにしろ藤子不二夫さんにしろ石ノ森章太郎さんにしろ、みんな冒険ものからSF、時代劇と、様々なジャンルの漫画を描いていました。
何でも描く! それが漫画家というものだと思っていたし、漫画を描き始めたときから自分もそうなりたいと思っていましたから、結果、いろんなジャンルに挑戦することになったんでしょうね。
——知らないジャンルのことを描くときは、いろいろ調べることになると思うのですが、村上さんの場合は、専門家に頼ってしまうと著書に書かれていました。それはどういうことなのでしょうか?
村上 自分が詳しいジャンルのことを描くんだったら、別に専門家に聞く必要はないという方もいると思います。でも、自分は本当に何も知らないから、専門家に一から聞くしかない。で、実際に聞いてみると、自分が想定していた以上にすごい話が聞けるんですよ。
技術的なことはもちろんですが、それ以上に、「なぜあなたはそのことに夢中になったのか」とか、「どんな出会いがあって、そうなったのか」といったことを聞き出せると、そこには必ずドラマがあって、それが漫画のストーリーを作っていくうえで、とても参考になりました。
僕が漫画を描くようになってからは、子供の頃に読んだ漫画のように超人的な主人公が活躍するようなものではなく、もっとリアルな人物の実体験を丁寧に描き込んだほうが、読者が納得してくれるようになっていました。そういう80年代90年代の漫画の風潮と僕のやり方がマッチして、やりやすいところにいたということもあったと思います。
——全く自分と接点がなかった題材の漫画を描こうと取材を始めて、「よし、これで描ける」となるのはどういうタイミングなのでしょうか?
村上 それについては、失敗したケースが思い浮かびますね。
ある題材を描くために取材を進めていたのですが、まだ「どうしてもこれを読者に伝えたい」という核のようなものをつかめていませんでした。でも、編集部の都合で、何月何日号から連載をスタートしなくてはならないということになって、見切り発車してしまったんです。そのときは、連載の最後で苦しみました。
これは、取材の量とか時間の問題ではなくて、「あ、これだ」っていう核みたいなものをつかんで、「もう、これは描くしかない」という気持ちになるまでは描いちゃいけないんですね。
この1枚の絵を描くために始めたシリーズ
——現在、弥生美術館で開催されている「村上もとか展」の展示のなかに、「僕が描きたかったこのシーン」というコーナーがありましたが、この1コマが描きたいがために、この漫画を描いたということはあったのでしょうか。
村上 それをものすごく意識して描いたのは、『岳人列伝』の最初のころですね。
漫画というのは絵ですから。音は出ず、動かず、色もついていない。でも、1枚の絵の中にものすごい言葉や感情が詰まっている。それが漫画の力だと思います。そういう1枚の絵を描くために一つの話を描こうとして始めたのが、『岳人列伝』のシリーズだったんです。
で、シリーズがまとまったところで、講談社から漫画賞をいただいて、編集部からはもっと続けましょうと言われたんですが、もうそのときには、描きたい絵はなかったんですよね。
描きたい絵があったから始めたのに、もうないのに描いたら、ただの山岳ものになっちゃう。山岳もののシリーズをやりたかったわけではないので、あの作品はちょっと描き過ぎたなと思います。最後の方は、「この1枚を描くんだ」というドキドキワクワク感はなくなっていました。
ただ、『岳人列伝』は、自分が漫画家になって、漫画家を続けられるという自信を得た作品ではありました。
デビューした新人の頃は、言われれば何でも描きますって感じで、人気を上げるために「ここは派手にするしかないかな」とか「戦いにするしかないかな」とかいう流れで描いていました。
そうじゃなくて、これを読者に伝えたいというものをしっかり作り込んでいって、それに読者から反響があって、編集さんまでが褒めてくれる。そういうことが漫画家の快感だということを教えてくれたのが、この作品でした。
——村上さんは以前、多くの漫画家は子供の頃に夢中になった漫画や小説、映画などに強く影響を受けているとおっしゃっていましたが、村上さん自身は、どんな作品に夢中になっていたんでしょうか?
村上 やはり、最初は、手塚治虫さんや上田トシコさんの漫画でしたね。
自分で漫画を描き始めてからは、当時の漫画家好きの若者の例に漏れず、永島慎ニさんや宮谷一彦さん始め、「ガロ」系の漫画家さんの作品は夢中になって読みました。「ガロ」は、話はよくわからないけど、ただひらすらかっこいいなあと思って読んでましたが、つげ義春さんからはとても影響を受けました。
つげさんの漫画は、「漫画でこういうことを描くのもありなんだ」と衝撃を受けましたね。高校生の頃でしたが、それまで「漫画とはこういうもの、漫画家とはこういう人」と思っていた概念をぶちこわされました。
つげさんによって、漫画というのはものすごく可能性があるコンテンツなんだということを教えられんだと思います。
——手塚治虫さんや石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さん、藤子不二雄さんたちトキワ荘の世代の頃から、漫画家さんには映画から強い影響を受けている方が多いと思うんですが、村上さんはいかがでしょうか?
村上 僕は映画をそれほどたくさん見ているほうではないと思います。ただ、父が映画を制作する側の仕事をしていたので、撮影所に遊びに行ったりして、作る現場には馴染みがありました。
その現場の面白さ、つまり、偽物の世界、フィクションを作ることの面白さを子供心に感じていましたね。いつか自分もゼロからフィクションを作ってみたいという気持ちはその頃に芽生えていたのかもしれませんね。
「面白い」と言われることにすぐるものはない
——村上さんがデビューしたのが昭和47(1972)年。時代は、昭和から平成、令和と移って、漫画をめぐる環境は大きく変化してきましたが、50年間、漫画を描き続けてきて、一番変わったと感じるのはどんなことでしょうか?
村上 やはりデジタル化でしょうね。今、僕は自宅でひとりで漫画を描いています。これは、デビューしたての新人の頃以来ですかね。まあ、振り出しに戻ったというか。(昭和から平成前半までの漫画制作現場は、漫画家さんがアシスタントと共に仕事場に詰めて共同作業で作品を仕上げていくケースが多かった:編集部注)
背景をお願いしているアシスタントさんとはリモートで繋がっていて、データのやりとりはかみさんがやってくれています。結婚したての若い頃、「もし、売れなくなっても、おれはこれしかできないから、ベタとか手伝ってもらって二人で漫画描いていくことになるけど、いいかな」ってきいたら、「いいよ。よろこんでやるよ」って言ってくれたんです。それをいまやってるみたいなものですね。
僕の同世代の漫画家さんは、紙にペンで描いて入稿するっていう方が多いと思いますが、40代から下の世代は圧倒的にデジタルで描いている人の方が多いでしょう。新人にいたっては、ほぼデジタルじゃないですかね。
――漫画家さんに、漫画を描くうえで一番大切にしているのはなんですかと聞いたときに、キャラクターであるとか、読者を飽きさせないストーリー展開だとか、いろんな答えが返ってきますが、村上さんの場合はどうでしょう?
村上 僕の場合は、自分が面白くて、人も面白いと思ってくれるものを描くということに尽きるんです。ただ、人が面白いと思ってくれるかどうかは、ホントにわからないじゃないですか。
たとえば、若い漫画家さんが描いた人気漫画を読んだときに、その面白さがまったくわからないことがあります。それを面白いと思う人に解説してもらえば、「ああ、そういうことが」と頭では理解できますが、面白いわけではない。
そんな漫画を読んで面白いと思っている自分の孫のような世代の読者に、どうやって目を留めてもらえるか、読んでもらえるか。真剣に悩みますね。
だから、若い編集さんに付いてもらえるとうれしいんです。描いた原稿を見せて、「これ、面白いですか?」「わかりますか?」と真剣に聞きます。「正直に言ってください。あなただけが頼りですから」ってね(笑)。


『侠医冬馬』 アイヌの血を引く幕末の医師が未知の感染症と戦う
© 現代ビジネス
僕が何を描くかといえば、あくまで自分が面白いと思うものを描く。決して仕事だからとか売れそうなものだから描いているわけではありません。
そうして自分が描いた漫画を、読んだ人が「面白い」と言ってくれる。それにすぐるものはありません。反響が悪いときには、自分にまだ何が足りないのかを必死に考えます。
自分が好きなものを描く、それでいいんだという人もいるかもしれませんが、僕はそれじゃ楽しくないんですよ。
「面白かったよ」って言われて、「えっ、ホント」って言いながら、描き上がったときの何倍もうれしくなる。描いてから10年20年経って、もう忘れた頃に、「あれ、面白かったよ」と言われて、飛び上がるほどうれしいこともあります。
それを味わいたくて、これまで描いてきたし、これからもそのために描き続けていくんだと思います。
――では、最後に、漫画を描いてきた50年間で変わらないことはなんでしょう?
村上 うーん、守ってきたのは締め切り(笑)。原稿だけは一度も落としたことはないです。これは、誇れる最大のポイントですね。
子供の頃は、ホントにダメなやつで、学校にはしょっちゅう遅刻するし、失敗すれば、なかったことにしようとする、肝心なときに逃避するようなやつだったんです。だから、漫画家になるときに、このままじゃろくなことにならないと思って、締め切りだけは絶対に守る、言い訳はしないと誓ったんです。
会社勤めをしたことはないし、アルバイトもデビュー前に工事現場や造園の仕事を手伝ったくらいですが、なんとかこの歳まで社会人としてやってこれたのは、なんとしても漫画を描き続けたい、漫画の世界に踏みとどまりたいという思いがあったからなんだと思います。
僕は、漫画を通じて世の中を学ぶしかなかったし、漫画が社会への窓口でした。そういう意味では、漫画は僕にとって、唯一無二の大きな存在ですね。
「デビュー50周年 村上もとか展 『JIN-仁-』、『龍-RON-』、僕は時代と人を描いてきた。」
9月25日(日)まで 午前10時~午後5時(最終入場午後4時30分まで)
休館日 月曜日(ただし、9月19日(月)は開館し、9月20日(火)が休館)
入場料 一般1000円 大・高生900円 中・小生500円
弥生美術館
〒113-0032 東京都文京区弥生2-4-3
03-3812-0012
https://www.yayoi-yumeji-museum.jp
「村上もとか展」にはどうしても行くことができないという方のためには、この展覧会のカタログとして出版された単行本「村上もとか 『JIN-仁-』、『龍-RON-』、僕は時代と人を描いてきた」(河出書房新社)がおすすめです。
「村上もとか展」で、そしてこの本で、村上さん自身の解説を読んでから、改めて、『赤いペガサス』や『六三四の剣』、『龍-RON-』、『JIN-仁-』といった村上作品を読むと、最初に読んだときよりもずっと楽しめるはずです。
https://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/デビュー50周年-jin-仁-の作者が稀有な漫画家である理由-漫画家村上もとかインタビュー/ar-AA11zPfH