先住民族関連ニュース

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アイヌ民族秋サケ迎え儀式 北海道浦幌「神にささぐ」

2022-09-12 | アイヌ民族関連
産経新聞2022/9/11 16:10

伝統儀式「アシリチェプノミ」で、踊りを奉納する「ラポロアイヌネイション」のメンバーら=11日午前、北海道浦幌町
北海道浦幌町のアイヌ民族の団体「ラポロアイヌネイション」は11日、同町を流れる浦幌十勝川の河口で遡上(そじょう)した秋サケを迎える伝統儀式「アシリチェプノミ」を行った。差間正樹会長(71)は「今年も新しいサケを神にささげられて感動した」と話した。
この日集まった団体のメンバーは約10人で、儀式を前に早朝から手づくりの丸木舟に乗って、伝統的な刺し網漁でサケ計33匹を捕獲。午前10時からの儀式では、柳の木でできた「サパンペ」と呼ばれる冠をかぶって火を囲み、酒や踊りを奉納した。
https://www.sankei.com/article/20220911-2TMRDKAZZJPFDHAB4WSMVE3OIA/

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アイヌ民族秋サケ迎え儀式 北海道浦幌「神にささぐ」

2022-09-12 | アイヌ民族関連
東京新聞 2022年9月11日 16時14分 (共同通信)

秋サケを迎える伝統儀式「アシリチェプノミ」を行う「ラポロアイヌネイション」のメンバーら=11日午前、北海道浦幌町

 伝統的な刺し網漁でサケを捕獲したアイヌ民族の男性=11日午前、北海道浦幌町
 北海道浦幌町のアイヌ民族の団体「ラポロアイヌネイション」は11日、同町を流れる浦幌十勝川の河口で遡上した秋サケを迎える伝統儀式「アシリチェプノミ」を行った。差間正樹会長(71)は「今年も新しいサケを神にささげられて感動した」と話した。
 この日集まった団体のメンバーは約10人で、儀式を前に早朝から手づくりの丸木舟に乗って、伝統的な刺し網漁でサケ計33匹を捕獲。午前10時からの儀式では、柳の木でできた「サパンペ」と呼ばれる冠をかぶって火を囲み、約1時間にわたり酒や踊りを奉納した。
 団体によると「アシリチェプ」はアイヌ語で新しい魚、「ノミ」は祈りの意味。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/201525

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サケの豊漁を願い…アイヌの伝統儀式「アシリチェプノミ」

2022-09-12 | アイヌ民族関連
日テレ2022/09/11 16:37
川に戻ってくるサケの豊漁を願うアイヌの伝統儀式「アシリチェプノミ」が、北海道札幌市の豊平川で行われました。
札幌市の豊平川河川敷で行われた「アシリチェプノミ」は、その年最初に採れたサケをカムイ・神にささげて新しく海から川へと登ってくるサケに感謝し、豊漁を願うアイヌの伝統儀式です。
明治以降サケの全面禁漁に伴って儀式も一時消滅しましたが、およそ40年前に復活。現在は市民がアイヌ民族の精神文化に触れることができる貴重な機会となっています。
儀式の様子を一目見ようと河川敷には市民が訪れていました。
https://news.goo.ne.jp/article/ntv_news24/region/ntv_news24-2022091104171222.html

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ネイティブ・アメリカンの平均余命が劇的に短くなった理由

2022-09-12 | 先住民族関連
日刊ゲンダイ2022年09月12日 更新日:2022年09月12日 by シェリー めぐみ

祝賀の日に伝統的な衣装を着て踊るネイティブアメリカンの男性(C)John Collett/ZUMA Press Wire/共同通信イメージズ
 コロナのパンデミック以降、アメリカ人の平均余命は3年も縮まりました。過去100年間で初めてです。それだけでも驚きなのに、さらに衝撃だったのは、アメリカの先住民族ネイティブ・アメリカンに限っては、6年半も短縮したことです。
 アメリカにヨーロッパ人が入植してから100年間に、殺されたネイティブ・アメリカンは実に5千600万人。残された多くは、「居住区」と呼ばれるエリアに強制移住させられました。居住区は現在、アメリカ本土とアラスカ、ハワイなどに合わせて約300カ所。全人口の2%に当たる500万人のネイティブアメリカンが、居住区を中心に生活しています。
 彼らがどんな環境で生活しているかは、長い間まったく知られていませんでした。しかしネット時代になり、過酷な現実が少しずつ明らかになっています。
 都市部から離れた孤立した地域で、水道もない場所もあり、多くが大気汚染や水質汚染などにさらされている。井戸水からヒ素やウラニウムが検出されたという報告もあるほどです。4人に1人が貧困という数字はアメリカのどの人種よりも多く、医療体制も貧困。病院まで何時間も運転していかなければならないのに、多くは車を持っていません。
 コロナへの感染率も他人種の1.5倍ですが、それだけではありません。ドラッグ過剰摂取死や慢性の肝臓病などが、寿命を縮めてきました。現在の平均余命は65歳で、全米平均の76歳より11年も短くまさに開発途上国レベル。とても現代のアメリカとは思えません。
 このような深刻な格差の原因として指摘されているのは、明らかな制度的人種差別です。制度的人種差別は、法律や社会の慣例に組み込まれた差別のこと。アメリカではジョージ・フロイド殺害事件で、黒人に対する警察の過剰な暴力と、隠蔽が暴露されました。差別は雇用、教育、医療にまで根深く浸透しています。コロナ禍で黒人やヒスパニックの死亡率が高いのも、同じ理由です。
 最大の問題は、差別している側が気づかない、または見て見ぬふりをする場合が多いことです。ブラック・ライブス・マター運動後にようやく顕在化していますが、解決までの道のりは限りなく遠いというのが現状です。
https://hc.nikkan-gendai.com/articles/278101

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ロシア、戦争捕虜に虐待や拷問 国連監視団が発表

2022-09-12 | 先住民族関連
毎日新聞 2022/9/11 15:52(最終更新 9/11 15:53) 有料記事 586文字
 国連ウクライナ人権監視団のボグナー団長は11日までに、ウクライナに侵攻したロシアが拘束した戦争捕虜に虐待や拷問を加えていることを確認したと発表した。ロシアは監視団に捕虜収容施設の調査を認めていないと批判。水や食料、医療が適切に提供されていない施設があると訴えた。
 ボグナー氏によると、ロシアは多くのウクライナ人捕虜に対し、家族に収容場所や健康状態を伝えることも禁じている。妊娠した女性らも拘束しており、人道的見地から即時解放するよう求めた。
 ウクライナ東部ドネツク州の親ロシア派支配地域オレニフカの捕虜収容施設では、A型肝炎や結核などの感染症がまん延しているという。
この記事は有料記事です。
https://mainichi.jp/articles/20220911/k00/00m/030/092000c

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「疫病の地」を「防疫の島」に変えた台湾衛生学の父・高木友枝

2022-09-12 | 先住民族関連
NIPPON.COM2022.09.10林 翠儀

彰化高校の生徒と高木友枝の胸像(彰化高校提供)
新型コロナウイルスへの効果的な対策を打ち立てた台湾。世界から注目を集めた医療衛生システムの土台を作った人物は、日本人医師の高木友枝だった。戦後の国民党政権による「脱日本化」政策の時代を経て、100年隔てた高木の功績を高校生らが見つけ出し、日台の友情を未来につないでいる。
2018年末、台湾中部の彰化高級中学(=高校)で「高木友枝典藏故事館(記念館)」のオープニングセレモニーが開催された。台湾衛生学の父・高木友枝の孫・板寺一太郎さん(故人)の妻で93歳になる慶子さんが出席した。式典では陳建仁副総統(当時)自らが慶子さんに感謝を伝えた。
2022年4月には台北駐日経済文化代表処の謝長廷代表(大使に相当)が慶子さんの自宅に赴き、高木友枝にまつわる貴重な資料を無償で彰化高校に寄贈した理由を尋ねた。慶子さんは同校の人間愛教育に賛同し、学生が歌う童謡『赤とんぼ』に涙するほど感動したからだと答えた。慶子さんは教会の神父にも相談し、高木友枝の銅像と文献などを台湾に寄贈することにした。謝代表によれば、慶子さんは会見中、話題が台湾の話になるとうれしくて笑いが絶えなかったそうだ。
高温多湿の台湾は、日本統治時代の初期は熱病がまん延する「疫病の地」と言われた。それから100年余を経て、「疫病の地」は「防疫の島」へと変化した。特にコロナ禍で、いち早く感染の拡大を抑え、人々は混乱することなく2年以上過ごしている。ウイルスの毒性が最も強かった時期に島内への侵入を防ぎ、世界中から「奇跡の島」と注目されたのだった。
防疫成功の背景に日本統治時代
台湾が新型コロナの抑え込みに成功した背景には2003年のSARS流行の際に得た教訓のほかに、迅速な法令改正や対策の分業体制を確立したことがある。また、公衆衛生観念が広く行き渡り、高い医療水準があることも寄与した。さらに民進党政権では高官の多くが医療と公衆衛生の専門家であったことも関係している。
日本と同じように、台湾でも風邪をひけば、公共の場でマスクをするのがマナーとなっており、手洗いやうがいの習慣も定着している。また台湾の医療水準は世界トップクラスと言われ、グローバルデータベース「Numbeo」が発表したヘルスケア指数では世界1位となった。
台湾が「疫病の地」から「防疫の島」へ進化したことを語る上で、日本統治時代に打ち立てられた公衆衛生の基礎があったことは外せない。
日本統治時代に近代化に尽力した人物と言えば、第4代総督の児玉源太郎の下で民政長官を務めた後藤新平が挙げられる。後藤が重用した同郷の親友が高木友枝だった。高木が台湾の医療・衛生の基礎を築いた功績は非常に大きい。
高木は台湾大学医学部の前身である台湾総督府医学校の校長や台湾総督府研究所の初代所長、台湾電力株式会社の初代社長などを歴任した。公衆衛生とエネルギー発展に大きく貢献し、「台湾衛生学の父」と呼ばれている。
台湾衛生学の父・高木友枝
福島県出身の高木友枝は、東京帝国大学医学部を卒業後、「日本の近代医学の父」で細菌研究者の北里柴三郎が設立した私立伝染病研究所に入所した。ちなみに北里は2024年度から新千円札の肖像画として登場することになっている。高木は北里の一番弟子とも言える存在で、台湾赴任後も北里の研究所とは緊密に連携していた。
高木が後藤新平と親交を深めたのは大学時代だった。1898年、後藤は台湾総督府の民政長官に就任した際、高木の感染症分野での研究業績に注目。1902年、高木を台湾におけるペストとコレラ撲滅の責任者として招へいした。その後、台湾総督府医学校の第2代校長と医学部長を務め、感染症の予防と治療に力を尽くした。
また、防疫知識の啓発にも積極的に取り組んでいる。常に通訳を連れて一般市民への講演を開いた。慶子さんが保管していた資料から、当時、高木が撮影した先住民族の写真が多数見つかっている。これらは高木が辺ぴな村々まで訪ねていた証拠と言えよう。

「高木友枝典藏故事館」に展示されている先住民族の写真(彰化高校提供)
高木は医療人材の育成や学術研究の向上にも力を入れ、後藤を説得して1909年に台湾総督府研究所を設立し初代所長に就任している。この研究所では地元の風土に根ざした化学や医学などの研究分野を開拓している。高木は所長を務めた11年間で179本もの論文を発表した。
1911年2月、高木はドイツで開催された万国衛生博覧会に参加し、台湾の医療衛生環境の改善状況について講演した。当時ドイツで出版された著書によると台湾では過去7年に10カ所の総合病院、1カ所の分院を開設し、80人の医師を配置。さらに20カ所の地方衛生機関を設立したと記されている。また、当時は8つの深刻な感染症が存在したが、そのうち発疹チフス、赤痢、マラリア、猩紅熱(しょうこうねつ)の4つは減少して日本本土より少なくなり、ジフテリアに至っては撲滅。肺結核とハンセン病も減少し、日本より多いのはペストを残すのみとなっていた。ペストは1896年以来台湾全島で猛威を振るっていたが、20年の歳月を経て1917年に根絶に成功している。
高木は台湾人学生から大変慕われていたことが分かっている。台湾初の医学博士である杜聡明や「台湾新文学の父」と呼ばれる頼和、台湾民族運動の先駆者である蒋渭水や孫文らによって東京で結成された「中国同盟会」に台湾人として初参加した翁俊明らも高木の学生だった。高木の人格教育における格言である「医者である前にまず、人間であれ(為醫之前,必先學為人)」は、後に杜聡明が高雄医学院を設立した際に校訓として現代に伝えられている。
高木が総督府医学校の校長だった頃、台湾にはまだ近代的な公衆衛生の考えがなかった。当時、医師の待遇は良いとは言えず、養成には5年も掛かるため学生募集には苦労していた。そこで高木は自ら台中や台南、台東など各地を回って入学試験を開催した。
また京都帝国大学から卒業生を教員として招へいし、高木自らも生理衛生学の授業を担当した。ほかにも留学制度を設け、教職員にドイツ研修の機会を作った。1919年までに総督府医学校は500人以上の台湾人医師を養成し、彼らは台湾の現代医療推進の主な戦力となっていった。
杜聡明は著書の中で、恩師の高木を崇高な人格者で見識の高い学者であり、政治家であったと回想している。参考文献にもあるように、1912年の辛亥革命後、台湾総督府は抗日運動や学生運動に参加した学生の逮捕の準備を進めていた。しかし高木は「教育の独立性」と「校内自治」を理由に総督府に抵抗したのだった。同時に学生には、高木自身は革命運動に反対していないとした上で、計画的に行うことが肝要であること、失敗したら絞首刑が待っていると戒めている。1913年に日本の植民地支配に反対し蜂起を計画、死刑に処せられた台湾独立運動家・羅福星を例に挙げ、「君たちは我が医学校の優秀な学生だ、もし絞首台に上がったとしても羅福星のように笑顔でいなさい」と伝えたという。1921年、蒋渭水が林献堂らと「台湾文化協会」を設立した際には、高木も列席し若者への支持を表明した。
高木が台湾で過ごしたのは44歳から72歳までの28年間、9人の総督の時代を過ごした。4人目の総督にあたる明石元二郎(第7代、1918~1919)は高木の人格や見識、そして政治への関心気質を考え、「日月潭水力発電プロジェクト」を任せることにしたと言われている。台湾総督府は各地の公営ならびに民間の発電所を合併し、半官半民の「台湾電力株式会社」を設立し、1919年に初代社長に就任している。
元々、台湾電力は日月潭の水力発電開発のために設立されたが、第一次世界大戦後の不況と関東大震災の影響から計画が遅れていた。周辺工事をいくつか完成させた1929年、高木は10年間の任期を終えて台湾を離れ、1943年に85歳で亡くなった。
台湾の高校生がつないだ日台100年の友情
高木友枝の台湾医療、公衆衛生への貢献は、戦後の国民党政府の「脱日本化」政策の下で台湾人に知られることはなかった。例えば1917年に総督府医学校の講堂の前に卒業生が建てた初代校長の山口秀高と第2代校長の高木の大理石の胸像は、戦後に撤去され、蒋介石の銅像に置き換わっていた。しかし近年の政権交代後、台湾自身にアイデンティティーを求める「本土教育」が進むなか、日本統治時代の歴史を調査する学生が出現している。
彰化高校図書館の呂興忠主任は「台湾現代文学の父・頼和」をテーマに生徒と研究活動をしていたところ、頼は恩師である高木を非常に尊敬していたことに気付く。頼が高木を「他にはいない先生」と言っていたというエピソードに生徒も心を動かされ、高木と台湾の歴史的なつながりを研究し始めたという。そして政治によって抑え込まれていた日台100年の友情の物語を発見したのだった。
2011年、呂さんは生徒を率いて高木の外孫である板寺一太郎さんと慶子さんを訪ねた。一太郎さんはかつて大学に勤めていたこともあり、台湾からやって来た高校生らを驚きと喜びをもって迎えたそうだ。そして板寺家で所蔵していた高木の胸像を披露してくれたという。胸像は台湾の国宝級彫刻家の黄土水が1929年に制作したものだったことが分かった。
2013年に一太郎さんが亡くなった後も、彰化高校の生徒らは毎年の訪日調査の機会を利用して慶子さんとの交流を続けていた。後に彰化高校へ寄贈されることになる高木の胸像や1920年代の台湾の医学教育、水力発電事業、先住民族などに関する200点以上の貴重な資料は、交流が実を結んだからだ。さらに同校では「高木友枝典蔵故事館」を設立することになった。
資料の数々を、当時、台北市立美術館や台湾大学医学部が保管に手を挙げ、奇美博物館に至っては国宝級の高木像に3500万台湾ドル(約1億6000万円)で買い取りたいと話題になったが、全て彰化高校に渡っている。
参考文献
* 林炳炎 (2001-09)〈點亮臺灣的高木友枝醫學博士〉
* 林炳炎 (1997年5月)〈重塑臺灣醫校長高木友枝博士的雕像〉
* 張名榕 (2019-05-17)〈教者之愛打動人心 高木友枝典藏故事館 落腳彰化高中〉臺電
* 月刊 (臺灣電力) (677期)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02192/

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米ミネソタでカヌーの旅 川や湖、そして歴史をたどる

2022-09-12 | 先住民族関連
ナショナル ジオグラフィック2022/9/12

米国ミネソタ州サガナガ湖の湖面にただよう霧が、朝日を受けてピンクや紫色に染まる。サガナガ湖は、歴史的に重要な先住民の交易路「ボーダー・ルート」の一部だ(PHOTOGRAPH BY BRYAN HANSEL)
米国ミネソタ州北部、カナダとの国境に位置する湖と川をたどる全長400キロメートルの「ボーダー・ルート」は、カヌーイスト憧れの北の大地だ。
この旅では、花崗(かこう)岩と松の木に囲まれた広大な湖で完全な孤独にひたれるだけでなく、かつて北米先住民が物資の輸送に利用し、今日もオジブワ族の人々が利用している重要な水路をたどることもできる。
すばらしい湖や古代の壁画、そして今も繁栄している先住民のコミュニティーなど、「一生に一度だけの旅」のさまざまな見どころを紹介しよう。
先住民と世界をつなぐ「高速道路」
ミネソタの先住民であるクリー族、ダコタ族、オジブワ族、アシニボイン族は、何百年も前からボーダー・ルートを利用してきた。このルートは、カナダのモントリオールからアサバスカ湖までの約4800キロメートルにおよぶ交易ネットワークの一部だ。
「20世紀に入るまで、ミネソタでは陸路を旅する人はいませんでした」と、ベミジ州立大学のオジブワ語教授であるアントン・トロイアー氏は言う。「どこに行くにも水路が使われていました。川や湖は、先住民と世界をつなぐ高速道路であり、動脈だったのです」

1730年、クリー族のあるガイドがニューフランス(北米のフランス植民地)の軍人のためにカバノキの樹皮に地図を描いた。地図には、スペリオル湖の北岸にあるグランド・ポーテッジの集落と、そこから北西に何百キロも離れたウィニペグ湖を結ぶ水路が示されていた。フランス人たちはこの地図を頼りに、18世紀のロンドン、パリ、モスクワなどの最先端のファッションを追い求める人たちが欲しがっていたビーバーの毛皮を求めて、北米大陸の内陸部に分け入った。
スペリオル湖から出発するとすぐに14キロメートルの陸路の上り坂があり、この難所はグランド・ポーテッジと呼ばれていた(ポーテッジとは、2つの水路をつなぐ陸路のこと)。陸路のおかげで大きな滝が続く危険な水域を避けられるが、虫の多い北方林の中を標高300メートル分も登るこのルートは楽なものではなかった。それでも半世紀後には、グランド・ポーテッジの集落は周囲1500キロメートルの範囲に100カ所もできた毛皮交易所の中心地となっていた。
ボーダー・ルートは、今日では多くのカヌーイストを引きつけている。ナショナル ジオグラフィックの2014年のアドベンチャラー・オブ・ザ・イヤーで、このルートを何度も旅しているデイブ・フリーマン氏は、「ボーダー・ルートには長い湖があり、陸路も長いです」と言う。
冬や夏にこの湖や川を航行するには、技術と忍耐が必要だ。いくつかの湖は海のように広く、レイニー湖は900平方キロメートル、ラ・クロワ湖は120平方キロメートル、東端のサガナガ湖も50平方キロメートルある。
冬は凍りついた水面の隙間に落下することが最大のリスクになる。夏には湖面を吹き渡る風が危険な波を立てる。
「大きな湖では大きな波が立ち、特に風が強いときにはカヌーが浸水して沈むおそれがあります」と、デイブ氏の妻で、ボーダー・ルートを一緒に旅したことがあるエイミー・フリーマン氏は言う。「カヌーで行くなら、水温が高くて波が穏やかな7月がお勧めです」
ボーダー・ルートに正式な出発点はないが、ほとんどのカヌーイストは西風を利用するために西から東、つまり、スペリオル湖に向かって移動する。歴史ファンなら、1731年にヨーロッパ人の毛皮商がレイニー湖畔に築いたカナダのフォートフランシス付近からカヌーを出すかもしれない。国境を越えるのを避けるために、フォートフランシスから19キロメートル東に位置するボエジャーズ国立公園(米国ミネソタ州)内のレイニー湖ビジターセンターから出発する人もいる。
陸路を行く必要がある場所が多く、川らしい川はサガナガ湖とガンフリント湖を結ぶ長さ21キロメートルのグラナイト川しかない。グラナイト川を通過するとすぐに、標高481メートル、全長7.4キロメートルのハイト・オブ・ランド・ポーテッジとなり、ボーダー・ルートはローレンシア分水嶺を越え、水はスペリオル湖に向かって南下しはじめる。
ボーダー・ルートの終点はいつも同じだ。五大湖の中で最も大きいスペリオル湖の湖畔に出たところで、グランド・ポーテッジの終点でもある。
カヌーでボーダー・ルートに挑戦する人々をサポートするイーリー・アウトフィッティング社のジェイソン・ザボクラツキー氏は、「これほど長いカヌー旅をする人はめったにいません」と言う。「この旅を通じて、人はいや応なしに成長します」
過去と、生命の輪につながる
ボーダー・ルートをたどることは、この地域の歴史と先住民(その子孫は現在もミネソタ州北部に住んでいる)を理解する機会でもある。
「自分が白人入植者であることの意味を問い直すため」に、米国人の映画監督タイ・オルソン氏は2021年3月にボーダー・ルートをたどった。「ここは今でも先住民の土地なのです」と氏は言う。
「カナダには、125のオジブワ族の居住集団があります。米国にも同じくらいの数の集団がいて、そのうちの7つがミネソタ州にあります。カナダのオジブワ族の一部は、今でもボーダー・ルート沿いの集落に住んでいます」とトロイアー氏は言う。「単なる歴史的存在ではありません」
ラ・クロワ湖のカナダ側の湖岸のウォリアー・ヒルという高い崖の近くでは、大昔の人々が残した数十個の手形や動物の絵を見ることができる。水面から切り立つ崖に、大きな枝角を持つ雄のヘラジカが赤い顔料で描かれている。
この壁画は、この地域に20以上ある遺跡の1つで、1500~500年前のものと推定されている。バウンダリー・ウォーターズのナイフ湖からは、1万2500~1万1000年前に氷河が後退したときにこの地域に最初に定住した古代北米先住民が使っていたシルト岩製の石器も出土している。
ボーダー・ルートの魅力の1つは、先住民の枠組みの中で、「『生命の支配者としてではなく、生命の輪の一部として』生きる経験ができることだ」とトロイアー氏は話す。
(文 Stephanie Pearson、訳 三枝小夜子、日経ナショナル ジオグラフィック)
[ナショナル ジオグラフィック 日本版サイト 2022年8月12日付]
https://style.nikkei.com/article/DGXZQOLM220HE0S2A820C2000000?n_cid=LMNST020

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アイヌ強制移住の資料 「特定歴史公文書」で保存へ 北海道 新冠牧場長が紙氏に説明

2022-09-12 | アイヌ民族関連
赤旗2022年9月11日(日)

 明治政府下でのアイヌ民族の強制移住に関する資料を含む北海道旧新冠(にいかっぷ)御料牧場の歴史文書が公文書管理法に基づく「特定歴史公文書」として適切に保存される見通しとなりました。7日、独立行政法人・家畜改良センター新冠牧場(新ひだか町)を訪れた日本共産党の紙智子参院議員と畠山和也元衆院議員に、根城博一牧場長が明らかにしました。
 北海道開拓使は1872年、新冠町を中心とした地域に約7万ヘクタールの広大な牧場を設置。84年、宮内省管轄となり、88年に新冠御料牧場と改称。軍馬の改良、増殖を担いました。
 滑若(なめわか)村のアイヌは72年、牧場造成に伴い、姉去(あねさる)村と万揃(まんそろえ)村に強制移住させられ、さらに1916年、姉去村から数十キロ離れた未開墾の上貫気別(かみぬきべつ、現平取=びらとり=町)に2度目の強制移住を強いられました(東北学院大学・榎森進名誉教授『アイヌ民族の歴史』)。
 紙氏が提示していた調査項目を受け、根城氏は「御料牧場時代の資料を保管している」と回答。旧字体のため判読できないものの、歴史的価値がある文書が含まれ、「国立公文書館に移管したい。(独法の)本所とも確認した」と述べました。
 「国立公文書館への移管」とは、公文書管理法上の「特定歴史公文書」を指し、原則永久保存されます。
 畠山氏は「専門家の知見に基づくリスト化」を要望。紙氏は「先住民族・アイヌの強制移住や御料牧場の解放運動の歴史文書が適正保管される道が付いた」と評価し、「移管にあたり歴史研究者の協力を得ることや、アイヌ当事者の声を聞くように」と求めました。川合清新ひだか町議が同行しました。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2022-09-11/2022091111_02_0.html

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韓国人は、日本人と別人種」と考える人の超残念な深刻盲点 「私もモンゴル人力士に似ている」と思ったら

2022-09-12 | アイヌ民族関連
東洋経済9/11(日) 7:01配信
「グローバルな視点」で見た時、日本は他国に比べ、どのような国なのだろうか? 
これに答えるのが、『最強の働き方』『一流の育て方』などのベストセラーでもよく知られる、著作累計70万部のムーギー・キム氏。京都に生まれ、日韓両国の文化の中で育ち、フランス・香港・シンガポールで学び働いてきた。
そのムーギー氏が「人生を通じて最も書きたかった1冊」という新著『そっか、日本と韓国って、そういう国だったのか。:文化・アイドル・政治・経済・歴史・美容の最新グローバル日韓教養書』が発売された。「韓国へのイライラ、日本へのモヤモヤが、同時に解消する」「両国の視点で、フェアに書かれている」「都合のいい部分ばかりつなげず、確かな学術論文に依拠している」と多方面で反響を呼んでいる。
本記事では、ムーギー氏が「『韓国人は、日本人と別人種』と考える人が陥りがちな超残念な深刻盲点」について解説する。
■日本人と韓国人は「DNAはほぼ一緒」という科学的常識
まず、エリザベス女王陛下が崩御されたことに、心から哀悼の意を表したい。私ですら悲しいのだから、イギリスの皆様の心痛はいかほどのものだろうか?  2週間以内に国葬の見通しとのことだが、国葬とはこのような方に対し、広いコンセンサスがあるなかで静かに執り行われるべきものであろう。
さて、日本と韓国「歴史問題がどうも決着しない」深い訳、「豊臣秀吉=虐殺者」韓国人がまだ許せない深い訳など、私が本連載のコラムを書くたびに、ヤフコメランキングや雑誌アクセスランキングでしばしば1位に輝くが、同時にコメント欄が激しく炎上し、焦土と化す。
 気弱な私のハートにグサッとくる言葉でいえば「韓国人は日本人と違う人種だから、付き合わないほうがいい」。
 しかし毎回「ちょっと待ってよ!」と思うのは、日本人と朝鮮半島の人々は人種的には同じ黄色人種、モンゴロイドである。DNA検査でも、ほとんど塩基配列が一緒だということはご存じだろうか? 
 言語や伝統的な宗教哲学、政治体制の違いと文化の違いから、「民族的には異民族」だが、日本と朝鮮半島で、人種は同じである。だからこそ両国を比較すると、人種はほぼ同じなのに、「日本のこのような独自の文化はどこから発達したのか」という興味深い問いへの答えが浮き上がるのだ。
 今回は新刊『そっか、日本と韓国って、そういう国だったのか。』から、日本人のルーツに関する、(ネットの無責任な書き込みではなく)科学的・学術的な論文に基づく教養と国際感覚獲得の旅路にご案内しよう。
 更新世末期(3万年~1万年前)の日本列島には、大陸系や南方系と考えられる人々が分布していた。
■DNA解析でわかった、日本人のルーツとは? 
 そんな先住民の子孫である縄文人と、その後に朝鮮半島や大陸からさまざまな経路で渡来してきた人々との混血により、現代日本人が成立したという「二重構造モデル」は、学術的には広く受け入れられている。
 渡来してきた人々の移動開始時期は、紀元前2500年とも1000年とも500年とも言われる。
 そしてとくに、長期にわたって主に朝鮮半島から鉄と稲作を持って渡ってきた人々と、その前からいた縄文人は一部混血をしたり、その文化を受け入れたりして、弥生人が形成された。
 つまり弥生人には、主に朝鮮半島から渡来した人、縄文人との混血、そして新たな文化を受容した縄文人が含まれる。
 弥生人に対しては、突然、日本列島に降ってきたか湧いてきたような認識の人が少なくないが、元をたどれば、総じてアジア大陸の影響を受けた民なのである。
 一方、アイヌ系と沖縄系では混血があまり進まず、実際にも縄文人の遺伝子特徴を強く残すのは、北海道のアイヌの人々であることも、アカデミックの世界では常識である。
 この意味で、「縄文人こそ日本のオリジナリティの証だ」と主張する方には特に、ぜひ北海道のアイヌ文化の保護に、より尽力してほしいところである。
 (これをお読みの皆様にも、砂澤ビッキの作品をはじめとしたアイヌ文化の素晴らしい彫り物に、ぜひ触れてほしいところだ)
 2012年、日本人類遺伝学会が編集する国際専門誌電子版に、「1人当たり最大約90万カ所のDNA変異を解析し、非常に高い信頼性で、先住民の縄文人と、朝鮮半島から来た弥生人が混血を繰り返して現在の日本人になったとする混血説が裏付けられた」と、総合研究大学院大学(神奈川県)などのチームが発表している。
■古代の倭国と、伽耶・百済の特別な関係
 また、近年では2019年5月13日に国立科学博物館により発表された話だが、いまの日本人のDNAを全ゲノム解読できるようになった結果、縄文人由来のものは10%程度にすぎず、紀元前から朝鮮半島より渡来した弥生人と混血したことが示されている。
 じつは、ほかにもさまざまな人々が日本列島に渡って混血してきたという説も唱えられているが、その後も弥生時代から飛鳥時代にかけて、多くの人々が百済や高句麗などから渡来し、大和政権で大きな役割を果たしていたことはよく知られているとおりだ(この時代に大量に流入した東アジア系の人々を古墳人と呼び、現在の日本人の遺伝子と最も近いという研究も存在する)。
 1984年、全斗煥(チョンドゥファン)大統領の初訪日時の晩さん会で、昭和天皇が、日本建国当時の朝鮮半島国家による役割について言及したのも検索可能なので、ご参照いただきたい。
 なお、「朝鮮半島には人がおらず、日本列島から朝鮮半島に人が渡って百済などを建国してその後、日本列島に戻ってきた」という説を唱える人がいるが、さすがにこれは無理があるだろう。もとはといえばアフリカ大陸にいた私たちの祖先を、どれだけ不自然なルートで移動させるのだろうか。
 実際のところ、中国の文献にも、朝鮮のほうが日本より何百年も前から登場している。また、百済のほうが倭国より上国として書かれており、百済から倭国に文化が伝えられたことも記載されているのである(ただこれは当然で、当時アジア文明の中心地であった中国に近いほど先進文化があるのは、当たり前のことだろう)。
 ともあれ、日本と朝鮮半島南部(とくに伽耶と百済)との間では、何百年もの間、人の往来が盛んだったのは確かである。
■「純ジャパ」も「純コリ」も存在しない
 このような人口移動や交流の歴史を考えると、よく聞く「純ジャパニーズ」という概念が、空想の産物であることがわかるだろう。
 これまで述べてきたように、日本人の多くは、縄文系と朝鮮半島や大陸系の混血であり、また混血の程度は地域によってさまざまに異なるのだ。
 もちろん朝鮮半島の人々の祖先も、もとから朝鮮半島にいたはずはない。その先祖には、たとえば北方民族だけでなく、ヒマラヤ山脈南の南方ルートで東南アジアを経て、いまの中国北東部から朝鮮半島に移り住んだ人々もいる。
 また、韓国人の遺伝子には中国人に近い遺伝子や、モンゴル人に近い遺伝子も入っている。私もお風呂に入るときに鏡を見ると、モンゴル人力士に実に似ている。
 ちなみに、『Genome Biology and Evolution』に掲載されている論文「The Origin and Composition of Korean Ethnicity Analyzed by Ancient and Present-Day Genome Sequences」によれば、これらの混血は、朝鮮半島への移住前から起こっていたとされている。
 これらの研究が示唆するのは、「どこどこの国の人は、もとはといえば何人などと、ひとつの源流に遡ることなど不可能」だという事実だ。
 中国人やモンゴル人に関しても、結局のところ、みんなアフリカからさまざまなルートを辿って巡り合った人と交配して子孫を残してきた。
 自国の祖先は進化論やアフリカ起源を無視して、天から降ってきたか地から湧いてきたとでも言い張らない限り、これは動かせない事実である。
 つまるところ、「純コリアン」というのも想像上の存在で、「純中国人」「純モンゴル人」にしても、またしかりなのである(ただ、自分のDNAや由来の一部を憎み蔑むという謎の習性は、多くの民族で見られる現象でもある)。
 もちろん、国家や民族は、生物的DNAではなく、自分および自分が所属する集団は何であるかという主観的認識と、政治的プロパガンダに大きく左右される。また、どこの民族も「内集団バイアス」があり、隣近所より自分たちが優れていると思いたがるし、どこの国にもその起源を語る神話がある。
 だからこそ、教養ある態度を身につけるには、歴史と神話の境を知ることが重要なのだが、2022年の今になっても、古代の神話と歴史を混同し、排他的アイデンティティをつくってしまった人たちが、ヤフコメなどで人種差別的な書き込みをしては、規約違反で消去されてしまうのである。
■あなたもムーギー・キムさんも、DNAはほぼ同じ! 
 ともあれ今回は、科学的なファクトに基づく数多くの学術論文をまとめた日韓の人種的共通性について、新刊『そっか、日本と韓国って、そういう国だったのか。』から抜粋して紹介させていただいた。
 これを機に、「この記事を読んでいる自分と、ヤフコメ欄で黒焦げに炎上しているムーギー・キムさんのDNAは、ほぼ一緒かぁ……」と、私への親近感と好感度が爆上がりすることを、祈念する次第である。
ムーギー・キム :『最強の働き方』『一流の育て方』著者
https://news.yahoo.co.jp/articles/25cf90728a14319d3b4e59b65dace59afed90a59?page=1

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