先住民族関連ニュース

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人権意識の乏しさ、政権露呈 荒井秘書官更迭 世論との乖離鮮明に

2023-02-05 | アイヌ民族関連
識の乏しさ、政権露呈 荒井秘書官更迭 世論との乖離鮮明に
会員限定記事
北海道新聞2023年2月4日 20:57(2月5日 00:16更新)
 岸田文雄首相は4日、同性婚やLGBTなど性的少数者への差別発言をした荒井勝喜(まさよし)首相秘書官の早期更迭に踏み切った。政権への打撃を最小限に抑えたい考えだが、スピーチライターとして首相の対外発信や広報戦略を担う側近による発言は、政権の人権意識の乏しさを改めて露呈した。同性カップルへの理解が進みつつある現実社会との乖離(かいり)がより鮮明になり、首相自身の価値観が問われる事態となった。
 4日朝、北陸視察の出発前に記者団と向き合った首相の表情は硬かった。荒井氏の発言を「言語道断だ」と強い言葉で批判した。
 経済産業省から出向している荒井氏は、原発の運転期間延長や原発の建て替えなどの政策転換の制度設計に携わっていた。「優秀で首相にも臆せず意見して信頼も厚かった」と政府関係者。それでも首相が発言から半日たたずに更迭を決断したのは「発言内容がひどすぎて、かばいようがなかった」(周辺)からだ。通常国会は新年度予算案審議の真っ最中。早急に事態を収拾し、週明け以降の審議に臨みたい思惑があった。
 「政権の方針と全く相いれない」「内閣の考えとそぐわない」。首相は4日、荒井氏の発言と政権を切り離そうと何度も繰り返した。だが、そもそも荒井氏の発言は、1日の衆院予算委員会で同性婚の法制化に関し「家族観や価値観、社会が変わってしまう」と述べた首相を擁護するため、記者団にオフレコで説明する最中に飛び出したものだ。
・・・・・
(根岸寛子、竹中達哉)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/797301

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さっぽろ雪まつりで平和のダンス 羽幌の教室の生徒ら5日出演 思い切り踊りたい

2023-02-05 | アイヌ民族関連
会員限定記事
北海道新聞2023年2月4日 19:52(2月4日 20:19更新)

ダンスイベントに出演するLUSHの6人。右端は渋谷さん
 【羽幌】さっぽろ雪まつり(大通西8丁目会場)で5日行われるダンスイベント「六花(りっか)の祈り」に、町内のヒップホップダンス教室「LUSH☆ dance school」で学ぶ幼稚園児と小中高生の9人と教室を主宰する渋谷紗由美さん(33)が出演する。渋谷さんは「地方から札幌に負けないダンスを披露したい」と意気込む。
 イベントは札幌100周年行事の一環で、5日午後4時50分に開演する。世界的ダンサーのケント・モリさんと、アイヌ民族の演出家秋辺デボさんが振り付けや演出を行い、平和をテーマに市民ダンサー100人が踊る。LUSHにはイベントの運営会社から出演の打診があった。
・・・・・・
(竹内博)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/797260

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「阿寒ユーカラ・ウタサ祭り」 4日から始まる

2023-02-05 | アイヌ民族関連
NHK02月04日 07時26分

現代に生きるアイヌ文化を発信するイベント、「阿寒ユーカラ・ウタサ祭り」が4日から2日間、釧路市阿寒湖温泉のアイヌコタンで開かれます。
「ウタサ」はアイヌ語で「互いに交わる」という意味で、祭りのメインイベントではアイヌコタンで活動するアーティストと国内外のアーティストたちが一緒にライブセッションを繰り広げます。
去年とおととしは新型コロナの影響でライブは無観客だったため観客を入れての開催は3年ぶりとなります。
開催を前に、3日は阿寒湖アイヌシアター「イコロ」でステージのリハーサルが行われ、出演するアーティストが照明や音響を細かくチェックしていました。
4日は午後4時半から関係者がたいまつを掲げて温泉街を歩く「たいまつ行進」が行われます。
5日は午後1時半からアイヌ料理の試食会、午後2時20分から神に感謝を捧げる伝統の儀式「カムイノミ」が行われ、午後5時からメインのライブセッションが行われます。
祭りのディレクター、郷右近富貴子さんは「ふだんの古式舞踊とは違い、さまざまなアーティストとの共演で生まれる化学反応を目撃してほしい」と話していました。
https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20230204/7000054901.html

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水立、行田、本動堂… 初見じゃ読めない群馬の難読地名

2023-02-05 | アイヌ民族関連
上毛新聞2023/2/4 17:00
 群馬県内を車で走っていると、難読地名に出合う。由来を調べてみると、過去の出来事や伝承などさまざま。初見ではなかなか読めない五つの由来は?(紹介するもの以外に諸説あります)。
水立(やけだち、邑楽町)
 国道354号を館林市から太田市方面へ進み、「高源寺北」交差点で左折。県道矢島大泉線をしばらく進むと「水立」という交差点が現れる。「みずだち」と読んでいしまいそうだが、実は「やけだち」。「水」の字は、かつて地域で起きた大火事に由来している。
 年代は定かではないが、かつて地域一帯の家屋や林を焼く大火事があり、江戸時代には「焼立」という漢字が使われていた。それが明治時代の資料では「水立」に変わっていることが確認できる。地元の人々が「火事に打ち勝つ」との願いを込め、火を思わせる「焼」ではなく「水」の字を使うようになったから、と伝えられる。
 周辺は広い畑や民家に交じって林が点在している。字(あざ)が「篠塚」となった今も、古くから住む住人は地域を「水立」と呼ぶという。大火事の痕跡は見つからなかったが、交差点名標識がかつての火事を乗り越えようとした住民の思いを伝えている。
行田(おくなだ、安中市松井田町)
 妙義山の麓にある、富岡市の旧妙義町地区と隣接する地名。埼玉県の行田(ぎょうだ)市と同じ漢字だが「おくなだ」と読む。地名の由来は、仏教用語の「行い」にあるという。
 かつて、五穀豊穣や家内安全を願う仏教行事「修正会」が地内の寺で行われていた。修正会は「行い」と呼ばれ、行いにかかる費用を捻出するための田「オコナイ田」が転じて「おくなだ」となったということだ。
 妙義山に入山する修験者が数日間、精進潔斎する施設があったから、とする説もある。実際に足を運ぶと、妙義山や周辺の山々が眼前に迫り圧倒される。いにしえの人々も妙義山を望みながら、仏道に励んだようだ。
本動堂(もとゆるぎどう、藤岡市)
 藤岡市にある地名で、かつて雨乞い中に起きた出来事の伝承に由来している。ある年の夏に日照りが続き、村人が法師とともに観音堂で雨乞いをしたところ、お堂が揺れて雨が降り出した。以来、この地は「動堂(ゆるぎどう)」と呼ばれるようになった。その後、仏像は市内の寺に移され、元々あった場所という意味で「本動堂」と呼ぶようになったそうだ。現在は、工場や物流倉庫が立ち並んでいる。
魚尾(よのお、神流町)
 神流町内を流れる神流川沿いにある旧中里村地区の地名。「魚尾」は川で取れるアユに由来している。太古の昔、神様が疲労と空腹のため、川沿いにある「丸岩」の上で休んでいた。これに気付いた村人が、麦飯と川で取れたアユを献上。神はたいそうアユを気に入り、しっぽまで食べると「この地を魚尾と称すべし」と命じたと伝えられている。「よのお」という読みは、アイヌ語で「生活の場」を意味する「イオル(イウォロ)」が変化したとされている。丸岩は今も存在し、すぐそばにある「神流川鮎神社」が伝説をしのばせる。
乙父、乙母(おっち、おとも、上野村)
 上野村役場や「道の駅 上野」近くの国道299号沿いにある地名。春の伝統行事「おひながゆ」が行われる地域としても知られる。地名の由来は、木曽義仲の四天王と言われた今井四郎兼平の遺児ら一族が戦に敗れてたどり着き、男は乙父に、乳母は乙母に住み着いたからと言われている。二つの地区は隣接しており「父母トンネル」がつないでいる。
https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/236694

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5豪ドル新紙幣、チャールズ新国王は採用しない 先住民描いたデザインに

2023-02-05 | 先住民族関連
日豪プレス2023.02.04
中央銀行・豪準備銀が決定
 豪ドル通貨を発行する中央銀行の豪準備銀(RBA)は2日、数年後の発行を予定している新しい5豪ドル紙幣について、先住民「アボリジニ・トレス海峡島しょ民」を描いたデザインにすると発表した。
 現行の5豪ドル紙幣には、昨年9月8日に死去した英国のエリザベス女王の肖像画が描かれているが、新紙幣についてはチャールズ英国王の採用を見送った格好だ。紙幣の反対側のデザインは、現行のオーストラリア連邦議会の絵を引き続き踏襲する。
 RBAは声明で「5豪ドル紙幣を『最初のオーストラリア人』(ファースト・オーストラリアン=先住民)の文化と歴史に敬意を表したデザインに改めることに決めた」と表明した。オーストラリア連邦政府と協議の上で決定したという。
 具体的なデザインについては今後、先住民の代表と話し合うとしている。発行までには数年かかる見通し。
 オーストラリアは英国植民地から独立した歴史的経緯から、現在も英連邦の一員であり、英国王が憲法上の国家元首を務めている。しかし、近年は、植民地化によって先住民を侵略し、国土を奪った過去について謝罪する動きが強まっている。
■ソースNew $5 Banknote Design, Media Release(Reserve Bank of Australia)
https://nichigopress.jp/news-item/56531/

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「ZTF彗星」が見頃です。冬の一等星や火星に接近するタイミングが観測のチャンス!

2023-02-05 | 先住民族関連
tenki.jp2023年02月04日
2022年3月に発見されたZTF(ズィーティーエフ)彗星が2月2日に地球に最接近し、見頃を迎えています。2月上旬から中旬にかけては、ぎょしゃ座のカペラや火星、おうし座のアルデバランといった明るい星の近くを通り過ぎていくため、より観測しやすくなるでしょう。
一年でいちばん小さく見える満月や、夕方の西の空に並んで輝く金星と木星に細い月が接近する光景も見逃せません。
今回は、2月に注目したい星空情報をご紹介します。
【2月5~15日】ZTF彗星が冬の一等星、火星に次々と接近
地球との最接近の頃には、5等級前後の明るさになると予想されているZTF彗星。条件の良い暗い夜空では、肉眼でも淡く輝く姿が観測できると期待されています。2月上旬から中旬にかけては、十分に空が暗くなった頃に北の空の高い位置に見られるため、観測の好機です。特に、2月8日前後の宵の時間帯には、ZTF彗星の位置が天頂近くになり(東京の場合)、好条件となります。肉眼では、彗星はぼんやりとした光のかたまりのように見えます。市街地の空で観測する場合は、双眼鏡や望遠鏡を使うのがおすすめです。
ZTF彗星は星空を移動しながら、明るい一等星や惑星に次々と接近します。2月5日から6日にはぎょしゃ座のカペラ、2月11日には火星、2月14日から15日にはおうし座のアルデバランの近くに姿が見えます。明るい星を目印にして、彗星を探してみましょう。
ZTF彗星が前回太陽に近付いたのは、約5万年前。現在の彗星の軌道から計算すると、今後は太陽系から遠ざかって再び帰ってくることはないと考えられています。ZTF彗星を目にするチャンスは、今回が最初で最後ということになるのですね。
参考・参照
(速報)ZTF彗星が地球に接近(2023年1月・2月)
【2月6日】1年のうちで地球から最も遠い、最小の満月

画像:国立天文台
地球を公転する月の軌道はやや楕円形をしているため、地球と月の距離は一定ではありません。また、太陽や地球の重力も月の軌道に影響を与えるため、満月や新月のときの地球との距離も毎回変化しているのです。
1年のうちで地球と月が最も近くなる満月を「スーパームーン」、最も遠い満月を「ミニマムムーン」と呼ぶことがあります。2月6日の満月は、2023年で地球から最も遠い満月。逆に、最も近い満月は8月31日になります。今回の満月は、8月31日の満月に比べて視直径が約12パーセント小さくなります。
2月の満月の別名は「スノームーン」。名称の由来は、アメリカ先住民のネイティブアメリカンによるものといわれています。寒さが厳しく、雪が多く積もる季節を表した満月の呼び名からは、月の満ち欠けに基づいて生活していた人々の、自然への眼差しが感じられます。
【2月22・23日】幻想的な細い月が、金星と木星に接近
日の入り後の西の空に、明るい2つの惑星が輝いています。22日の夕方から宵には、西の低空で月齢2の細い月と金星が近付き、目をひく眺めとなります。
うっすらと地球照を伴った幻想的な月と宵の明星の共演は、ひときわ美しい光景です。日没後、薄暗くなった頃に西の方角が開けた場所から観察してみましょう。
月と金星の上方には木星の姿があり、翌23日に月は木星に接近します。2夜に渡る、繊細な美しさの月と明るく輝く2惑星の共演を楽しみたいですね。
・参考文献
『アストロガイド 星空年鑑 2023』 アストロアーツ
・国立天文台「東京の星空・カレンダー・惑星(2023年2月)」
https://tenki.jp/suppl/grapefruit_j02/2023/02/04/31725.html

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英米以外で発展した世界のパンク・バンド:南アや東西ドイツ、南米や旧ソ連、中国から日本まで

2023-02-05 | 先住民族関連
discovermusic.jp2月 4, 2023
パンクが公に不時着を起こしてから40年以上が経った今、パンクは当初掲げていた崇高な理想を“売り渡して”しまったのだと考えるのは簡単だ。その代表的アクトが皆、結局メジャー・レーベルと契約し、お偉方と手を携えるようになったのだから尚更である。
しかし、そんな欠点を抱えながらも、70年代半ばから後半にかけ、パンクは尚も激しい衝撃を世に与えていた。そしてDIY精神から(概して)反性差別主義的なスタンスに至るまで、その功績は、現在もあらゆることの中に感じることが出来る。難点がありつつも刺激的だったこの時代については、これまで数えきれないほどの見直しが行われてきたが、どの場合でもほぼ常に、パンクはあくまで大西洋を挟んだ英米両国で起きた現象であるとされている。
それも全く無理もないことだ。というのも、英米両国共に、自国こそがパンク発祥地であると主張するに足る理由があるからである。北米では70年代が明けて間もない頃、スーサイドやニューヨーク・ドールズといった、注目すべきプロト・パンクのアクトがニューヨークから輩出。その後、1974年から76年にかけて、ペル・ウブや、パティ・スミス、ラモーンズ、そしてブロンディといった米国の先駆的な“不服従者”達が、キャリアを決定づける名盤を世に送り出していた。
英国のパンク
ビル・グランディが司会を務める英民放テムズTVの夕方の生番組『トゥデイ』で、セックス・ピストルズのメンバーが放送禁止用語を連発するという事件を起こして全英を騒然とさせると、パンクの重点は英国に移行した。しかし、1977年に入ると英米の両国から、圧倒的に多彩かつ未来志向のアルバムが次々とリリースされ、ファンを驚嘆させたのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=LtHPhVhJ7Rs
この頃のアルバムといえば、例えば、テレヴィジョンの『Marquee Moon』や、デッド・ボーイズの『Young, Loud & Snotty』から、ザ・ダムドの『Damned Damned Damned』、ザ・ジャムの『In The City』、そしてセックス・ピストルズの『Never Mind The Bollocks, Here’s The Sex Pistols(勝手にしやがれ!)』まで、それは多岐に渡っている。
時代を象徴するこういったアルバムの重要性を軽視したり、あるいは過去40年以上の間に生み出された多くの音楽にそれらが与えた影響を否定することは、不可能に近い。しかしながら、英米両国が互いにパンク陣地の所有権を主張し続けている一方で、パンクはそれより遥か広範囲に変化をもたらしてきた。その影響は地球の隅々にまで及んでいるのだ。
オーストラリアのパンク
例えば、ジョン・ライドンはセックス・ピストルズの悪名高い「God Save The Queen」の中で、“ファシスト体制”について辛辣に言及していた。そんな頃、オーストラリアのクイーンズランド州は、強硬な極右の独裁者ジョン・ビェルケ=ピーターセン州首相の統治下にあった。ストラングラーズの全英トップ40ヒット「Nuclear Device」(1979年)の主題としても取り上げられたジョン・ビェルケ=ピーターセンは、警察権力を悪用してデモを暴力的に抑え込み、政治的な反対勢力に盗聴器を仕掛け、また自身に有利になるよう議員定数を不均衡に配分し、1987年まで政権を維持し続けていた。
しかしジョン・ビェルケ=ピーターセンの暴虐的な体制も、オーストラリアで最も過激なオリジナル・パンク・バンドと称されるクイーンズランド州都ブリスベン出身のザ・セインツの登場を阻むことは出来なかった。地理的に他の大陸から隔絶されていたにもかかわらず、彼らが自主制作でリリースした体制側には耳障りなデビュー・シングル「(I’m) Stranded」は英国で大評判を呼び、1976年9月には英ロック週刊誌サウンズで、誰もが憧れる<今週のベスト・シングル>に選出されている。
https://www.youtube.com/watch?v=MpMwMDqOprc
英国初の本物のパンク・シングルと言われるザ・ダムドの「New Rose」がリリースされる1ヶ月前に発表した「(I’m) Stranded」によって、ザ・セインツはEMIとアルバム3枚の契約を取り付けた。そして彼らはアドレナリン全開の「This Perfect Day」で全英トップ40のヒットを記録。だがそれよりも核心的なのは、オーストラリアで最も息の長いロック・バンドの幾つかが、ザ・セインツの成功に刺激を受けて誕生したことだろう。
その中には、長年に渡って活動を続けているウェスタン・オーストラリア州出身のパンク・バンド、ザ・サイエンティスツもいた。また、メルボルン出身のパンク・バンド、ボーイズ・ネクスト・ドア(ヴォーカリストのニック・ケイヴと、マルチ楽器奏者のミック・ハーヴェイが在籍)は、間もなくバースデイ・パーティーへと脱皮。彼らは後に、ニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズに姿を変えている。
そしてオーストラリアのシドニーからは、レディオ・バードマンが登場。地元の小規模レーベル、トラファルガーから1977年にリリースした彼らのデビュー作『Radio Appear』は、オーストラリア国内で通信販売を介して流通した初のインディ・パンクLPであった。同作のリリースを礎に、オーストラリアではその後、DIY的な活動を行うパンク・バンドが爆発的に増加していく。
https://www.youtube.com/watch?v=5W4x5qHG9sQ
南アフリカ共和国のパンク
ジョン・ビェルケ=ピーターセンが支配する腐敗したオーストラリアのクイーンズランド州政府は、アパルトヘイト政策下の南アフリカ共和国のことも公然と支持。圧政が敷かれ、公式に人種隔離政策が行われていた同国では、70年代を通じ、新聞は厳しい検閲を受けており、(当時投獄されていた)アフリカ民族会議議長ネルソン・マンデラの写真を一般に公開することは違法行為とされていた。
そんな政治情勢にもかかわらず、南アフリカではアンダーグラウンドのパンク・シーンが誕生し、盛り上がりを見せていた。南アフリカのバンドの多くは当時、ディスコ・ミュージックとソフト・ロックがラジオやテレビの電波を支配している抑圧的な社会に不満を抱いており、加えて、政治情勢を理由に、大多数の国際的なアーティストが同国での活動をボイコットしていたのである。
南アフリカの4大パンク・バンドといえば、サファリ・スーツ、ハウスワイヴズ・チョイス、ワイルド・ユース、そしてナショナル・ウェイクだ。この4バンドは、1979年12月に行われた同国初の独立系パンク・パッケージ・ツアー<ロック・ライオット>に参加。そして後者2つのバンドは、他の大陸でリリースされた最重要パンク・シングル群にも引けを取らない曲をレコーディングしていた。
ダーバン出身の3人組ワイルド・ユースがリリースした、ストゥージズ調の輝かしいシングル「Wot About Me?」には、現在インターネット・オークションで1,000ドルの値が付けられている。
https://www.youtube.com/watch?v=FVF-IJ5LiAE
一方、南アフリカ・ヨハネスブルグ出身の4人組ナショナル・ウェイクの唯一のアルバムで、メディアによる言論弾圧に反対する激情のナンバー「International News」を収録した『National Wake』は、1981年にWEAインターナショナルからリリースされたものの、南アフリカ当局によってブラックリストに載せられ、短期間で店頭から撤去された。
ナショナル・ウェイクは、熱いパンクから、スペイシーなダブ・レゲエ、そしてアフリカン・ファンク調ポップまでを呑み込んだ、クラッシュ風の器用なバンドだったが、大胆な多民族混合のラインナップを誇っており、割り当てられた居住区(タウンシップ)外で黒人の市民が自由に移動することを厳格に禁じる『パス法』を無視して活動。しかし、彼らが共同生活を送っていたヨハネスブルグのパークタウン地区の住居は、繰り返し当局の手入れを受け、最終的にバンドは解散に至ることとなる。
https://www.youtube.com/watch?v=ze5yn6KneJg
ワイルド・ユースとナショナル・ウェイクは、残念なことに両者共、早過ぎる終わりを迎えたものの、ケープタウン出身のザ・ジェニュインズやハードコア指向のパワーレイジといった、後の世代の南アフリカ・バンド勢は、80年代を通じて当局を苛立たせ続けた。
そういった彼らの活動は、高い評価を受けたデオン・マースとキース・ジョーンズ両監督によるドキュメンタリー映画『Punk In Africa』(2012年)の中で丹念に記録されている。同映画では、ケープタウン出身のスカ・パンク・バンド、ホッグ・ホッギディ・ホッグや、グランジに影響を受けたエヴィクティッドといった、パンクに刺激を受けたアパルトヘイト後のアクトについても描かれていた。
https://www.youtube.com/watch?v=Z0f2eXv6um4
東西ドイツのパンク
ヨーロッパ本土に目を移すと、パンクの可能性に活気づけられた様々なバンドが、統一前の東西ドイツ両方で誕生している。ハノーファーのロッツコッツ(Rotzkotz)、デュッセルドルフのメイル (Male)、西ベルリンのPVCらは、UKパンクの第一波(PVCは、1977年2月に英国のアドヴァーツがベルリン公演を行った後に結成)に影響を受けていた。
だが80年代始めになると、西ドイツでは独自の多様なパンク・シーンが発展。そこに含まれていたのが、インダストリアル/エレクトロ・ポップの草分けであるディー・クルップスや、荒涼としたハンブルクのポストパンク・バンド、アプヴェルツ (Abwдrts)、そしてハードコアの先駆者スライム(Slime)といったバンドである。
スライムは、過激な左翼政治思想を信奉する“ドイチェパンク”の生みの親のひとつと見なされており、「Deutschland」「Bullenschweine」「Polizei SA/SS」等、論議を呼んだ冷戦関連の曲や歌詞で知られ、彼らの曲の多くが発売禁止措置を受けたり、検閲に遭ったりしていた。
https://www.youtube.com/watch?v=1HlVEfyaphs
裕福な“西”と抑圧された苛酷な共産圏の“東”という二つの異なる区域に分断されていた都市ベルリンは、ヨーロッパでも独特の位置付けにあり、この街が様々なタイプのパンクで溢れ返っていたのは必然的なことであった。セックス・ピストルズがベルリンに短期滞在した折、あの悪名高いベルリンの壁を直接目の当たりにした経験に刺激されて書いた曲が「Holidays In The Sun」である。
https://www.youtube.com/watch?v=2Ah1JM9mf60
一方、リベラルな気質の西ベルリンのクロイツベルク地区には、ヨーロッパ屈指のパンク/ポスト・パンク・クラブ SO36があった(店名は郵便番号に由来)。パンク・パンドがヨーロッパ・ツアーを行う際、その大半が立ち寄るのを心待ちにしていたこのライヴ・ハウスに不朽の名声を与えたのは、西ロンドンのポストパンク・バンド、キリング・ジョークだ。1980年に発表した、バンドと同名の彼らのデビュー・アルバムには、「SO36」という、その名に相応しい重苦しい曲が収録されている。
https://www.youtube.com/watch?v=PjRKZ2cjPpc
そして極めて重要だったのは、80年代半ばから後半にかけ、パンクの影響がベルリンの壁を越えて拡大したことだ。厳しい抑圧で知られるドイツ民主共和国(東ドイツ)では、晩年、パンク・シーンが極秘に発展を遂げていた。
“ディー・アンデレン・バンド/Die Anderen Bands”(直訳すると“他のバンド達”という意味)と呼ばれることの多かったこれらのバンド群は、厳密には必ずしも全てがパンクというわけではなく、エレクトロニックや、ブルース、また例えばヘルプスト・イン・ペキン/Herbst In Peking(=“北京の秋”)などのようにプロト・インディのバンドも含まれていたが、彼らは皆、パンク的な独立精神を共有。そのスピリットは、国民を厳重な監視下に置いていた東ドイツの秘密警察シュタージ(国家保安省)の顰蹙を買っていた。
様々な制約があったにもかかわらず、パンクのDIY美学は東ドイツにおいて、控えめだが飛躍的な幾つかの前進で仲介役を果たしていた。東ドイツの国営レーベル、アミガ (Amiga:東西ドイツ統一後、BMGナショナルに売却)から限定発売のみが認められた1988年のコンピレーション盤『Kleeblatt Nr 23:Die Anderen Bands』には、4つのバンドの楽曲が収録されており、その中には、“フラケ”ことクリスチャン・ロレンツとパウル・ランダースが在籍していたパンク・バンド、フィーリングBがいた。この2人は後に、様々な物議を醸すことになるドイツのインダストリアル・メタル界の巨人、ラムシュタインを結成する。
https://www.youtube.com/watch?v=8MUakwsmEyk
ベルリンの壁が崩壊し、東ドイツ共産党が民主的に選出された政府に権力の座を明け渡した1989年から1990年、“ディー・ヴェンデ / 革命的大転換”として知られるその時期に、パンクは果たすべき役割を果たした。例えばヘルプスト・イン・ペキンの「Bakschischrepublik」という曲は、急速に変化するこの時代を歴史に留める東ドイツ・ロック賛歌となっている。
https://www.youtube.com/watch?v=viRZn4DAB94
ラテンの国のパンク
しかし、暴政との闘いに喘いでいたのは、“鉄のカーテン”の後ろに閉じ込められた国々だけではない。アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、コロンビアなどのラテンアメリカ諸国は皆、独裁政権や貧困、政治的抑圧の歴史を共有しており、パンクはこれらの国々で、若者達が耐え苦しんでいる逆境や弾圧に抗議するための理想的な表現手段となった。
パンクのラテン系統は、ザ・プラグズ(The Plugz)、ザ・バッグズ (The Bags)、ザ・ゼロズ (The Zeros)、ロス・イリーガルズ (Los Illegals)といったカリフォルニア拠点のバンドに遡ることが出来る。一方、70年代後半には、イーストロサンゼルス近隣のラテンアメリカ系やメキシコ系のパンクス勢が( “イーストサイド・ルネサンス”として知られるムーヴメントの一端として)自分達のコミュニティ内でライヴを開催するようになっていた。
90年代を通じても、抗議の形としてのパンクは更に拡大化し、ユース・アゲインスト(Youth Against)や、ロス・クルードス(Los Crudos)、ワシプンゴ (Huasipungo)、トラス・デ・ナーダ (Tras De Nada)ら、米国に拠点を置くラティーノ・ハードコア・バンドが台頭。対立を生む可能性を孕んだ一連の政治問題に北米大陸が襲われる中、共同体としての機能を果たすようになった。
その政治問題に含まれていたのが、例えばカリフォルニア州住民提案187号(カリフォルニア州において、不法移民に対し緊急時を除く医療サービスと公的教育を提供することを禁止する、州の審査制度)や、NAFTA(アメリカ、カナダ、メキシコ間の自由貿易協定。先住民の共有地の売却や私有地化を防止するメキシコ憲法27条の、事実上の廃止が含まれていた)、そしてそれに続いて起きたメキシコのザパティスタの反乱(NAFTAの発行に対し、先住民中心のゲリラ組織が武装蜂起した事件)だ。
1970年代後半から80年代にかけて中南米で生まれたパンク・グループは、その時代、他の大陸ではよく知られないままでいた。ブラジル、アルゼンチン、メキシコにおけるパンク・シーンは当初、米国や英国からもたらされたパンクの輸入盤を入手出来るような環境にあった国内でも経済的に豊かな層に生まれ育った若者達を通じて確立されていたのである。
それでもやはり最終的には、南米諸国の大部分で、多くの人々が日常的な抑圧に苦しんでいることもあり、やがて健全なパンク・シーンが栄えるようになった。例えばブラジルでは、1964年にジョアン・ゴラール大統領がクーデターによって失脚させられた後、軍事独裁政権が1985年まで権力を維持。その間、言論の自由と政治的敵対勢力は、どちらも抑え込まれていた。
だがそれに反し、Al-5や、NAI、レストス・デ・ナーダ(Restos De Nada : “何も残っていない”という意味)を始めとする創始者的な面々によって、パンク・シーンは果敢に成長。1978年にサンパウロで結成された、ストゥージズやMC5風のレストス・デ・ナーダは、一般的にブラジル初の本格的なパンク・グループと見なされているが、彼らのバンド名を冠したデビュー・アルバムがデヴィル・ドライヴズ傘下のレーベルを通じてリリースされたのは、その約10年後、1987年のことであった。
https://www.youtube.com/watch?v=ZAppmFyoDR4&t=77s
アルゼンチンもまた、独裁、軍事クーデター、そしていわゆる“汚い戦争”(社会主義的な反体制派であろうと思われる人々を国家の資金提供を受けた軍部や警察が弾圧したテロ行為で、それにより数万人の市民が不法に投獄され、“行方不明”となった)に、数10年もの間、苦しんでいた。それにもかかわらず、ロス・ヴィオラドレス(Los Violadores:“違反者”)、アレルタ・ロハ(Alerta Roja:“非常警報”)、コマンド・スイシーダ(Comando Suicida:“自殺隊”)などのパンク・バンドが、80年代初頭から半ばにかけて次々と登場。
軍事政権側は、度々ロス・ヴィオラドレスの曲を検閲しようとしたが、彼らはそれでも尚、1983年にはセルフ・タイトルのアルバム・リリースに成功する。1985年のシングル「Uno, Dos, Ultraviolento」(“1、2、超暴力”という意味)は同年、人々に繰り返し聴かれるアンセムとなった。
https://www.youtube.com/watch?v=FIw04_pZ-C8
中国のパンク
ラテンアメリカの様々な独裁政権や軍事政権は、彼らの主張に従うならば、共産主義と戦っていたのかもしれない。だが世界で最も人口の多い国である中国は、1949年に国共内戦が終結した後、共産主義による強力な支配の締め付けに遭っていた。
西洋でパンクが正式に勃発した1976年、中国は依然として、毛沢東主席が主導した『文化大革命』(実際には、10年間に渡って展開された権力闘争と社会的な大変動で、何百万人もの市民に悪影響を及ぼした)による混乱が続いていたのだった。
80年代までに中国のメディアは完全に国営化されていたという事実からすれば、80年代より以前には確実に、 “ヤオグン”(揺滾:中国のロック)は存在していなかったと言える。崔健(ツイ・ジェン:現在では“中国ロック界の父”と呼ばれている)のような国内アーティストが知られるようになって初めて、中国の若者達は抑圧的な制度に疑問を抱き始めたのであった。
80年代半ば、北京では幾つかの“オルタナティヴ”・バンドが活動を始めたが、その聴き手はほぼ大学生のみに限られていた。中国で広く知られるようになった初のロック・アンセム「Nothing To My Name」(原題:一无所有/一無所有)が収録されたアルバムを崔健が発表したのは、1989年のことである。
https://www.youtube.com/watch?v=JZQlKwcLce8
この曲は同じ年の春、民主化を求める学生達が北京の天安門広場で抗議デモを行った際、その運動を事実上代表する愛唱歌となった。悲劇的にも、現在では“天安門大虐殺事件”として知られる通り、天安門広場への武力介入を阻止しようとしていた学生デモ隊は、その後、中国共産党政府の命(めい)による人民解放軍の戦車や銃を用いた武力弾圧により、少なくとも数百人が殺害されている。
天安門広場の悲劇の余波を受け、パンク・ロックは中国の都市若者文化の一部となった。そして不倒翁楽隊(ブゥダオウォン / 英名 Infallible)や、ハード・ロック/メタル系の唐朝楽隊(タンチャオ / 英名 Tang Dynasty)、パンク調グラム・ロックの黒豹楽隊(ヘイバオ / 英名 Black Panther )といった北京のバンド勢がその名を知られるようになる。
1990年2月には、ロックに特化した中国の最大のコンサートが北京首都体育館で二夜に渡って開催され、唐朝楽隊や、崔建が率いるADOらが出演。また1992年には、黒豹楽隊のデビュー・アルバム『黒豹(Black Panther)』が発売され、中国ロック史上初のミリオン・セラーとなった。
https://www.youtube.com/watch?v=9YxjRbs0Gsg
以来、中国の音楽史は運命の浮沈を経験し続けている。90年代半ば、グランジとパンクのDIY精神に影響を受けた健全なインディ・シーンが誕生した後、90年代後半には共産党の検閲により、パンク、そしてロック一般は再び厳しく取り締まられるようになった。
しかし、2000年以降は、ポストパンクとエクストリーム・メタルのシーンが繁栄。2005年には、アメリカのケヴィン・フリッツ監督によるドキュメンタリー映画『Wasted Orient』が製作された。同映画は、ペネロープ・スフィーリス監督が手掛けた伝説のLAパンク・ドキュメンタリー映画『ザ・メタルイヤーズ』の中国版に当たり、北京のパンク・バンド、母国でツアーを敢行しようとしているJoyside楽隊の姿を追っている。中国では当時、ロック・ミュージックに対する評価は依然として真っ二つに分かれていた。
https://www.youtube.com/watch?v=BUfhxgJQxkY
日本のパンク
ロックン・ロールの精髄に心を奪われていることで知られる極東の国は、もうひとつある。そう、日本だ。日本は必然的に、誕生直後からパンクを喜んで受け入れており、1976年には東京の歓楽街の中心に新宿ロフトと呼ばれるライヴ・ハウスが開店した。地元ではロフトとして知られるその店は、間もなく東京周辺の自由人達の溜まり場となり、当初はニュー・ミュージック系のバンドが多く出演していたが、1978年以降には、ラモーンズや、セックス・ピストルズ、ザ・クラッシュらに影響を受けた、全く新しいタイプの生え抜きバンドがステージに立つようになっていく。
それからの12ヶ月間、東京のパンク・シーンは勢いを加速。S-KENスタジオを始めとするライバル的なライヴ・ハウスが続々オープンし、ライヴ・コンピレーション・アルバム『東京ニュー・ウェイヴ79』及び『東京ROCKERS』が発売された。この2作で紹介されていたのは、スター・クラブや、SEX、PAIN、フリクション、ミラーズ、BOLSIEなど、精力的な地元バンド勢で、皆ロフトの常連出演者であった。
https://www.youtube.com/watch?v=HK3hZnTy05Y
その後、流行の盛衰にかかわらず、日本はパンクを熱心に受け入れ続け、80年代にはニューヨークのノー・ウェイヴ・シーンを手本に、“関西ノー・ウェイヴ”と呼ばれるシーンも誕生。そして高く評価されているバンドであり、デッド・ケネディーズの系譜に連なるザ・スターリンが、 デビュー・アルバム『trash』を1981年にリリースし、80年代の健全なハードコア・シーンの到来を告げた。
https://www.youtube.com/watch?v=SnrxMQbq-4k
また1981年後半には、大阪のポップ・パンク女子3人組、少年ナイフが結成。ソニック・ユースやニルヴァーナら、先駆的かつ重要な90年代USロックの大物達は、彼女達の熱烈なファンとなった。少年ナイフはこれまでに20作のスタジオ・アルバムを発表。中でも2011年の『大阪ラモーンズ』には、 ラモーンズの最も愛されている人気曲のうち13曲のカヴァーが収録されている。
https://www.youtube.com/watch?v=nOxTMgzYAa8&t=1s
旧ソ連のパンク
しかしながら、全体主義と自国民に対する激しい弾圧という点で、旧ソ連と張り合える国はないだろう。だが70年代後半になると、いわゆる退廃的な “西側”から伝わってくる音楽の流れの変化が、この広大な土地にも浸透。ディスコはあっという間にメインストリームに入り込み、ソビエト連邦公認の作曲家達は、ディスコ・ビートをポップに取り入れ、プロレタリアート向けの愛国的な歌にダンスフロア志向のリズムを加えすらしていた。
しかしパンクの知性と怒りは、ソ連のほとんどの若者達の心を惹き付けた。とりわけソビエト連邦では、一般庶民のほとんどがかなり貧しかったからである。英国のように、厳しい非難対象とすべき保守的な上流階級の“支配層”は存在していなったかもしれないが、人々の基本的な“自由”の条件は、隅々まで行き渡っていた共産主義体制によって規定されていたのであった。
ソ連政府による宣伝工作により、パンク・バンドは“国家の敵”と見なされていたものの、それでも確固たるシーンがゆっくりと進化を遂げていた。旧ロシア帝国の首都レニングラード(現サンクトペテルブルク)からは、アンドレイ・パノフ(Andrei Panov)率いるアヴトマティチェスキー・ウドヴレットヴォリチェリ/ Avtomaticheskye Udovletvoritely(“自動式に満足をもたらしてくれる者”という意味)を輩出。
セックス・ピストルズ狂のアンドレイ・パノフは、パフォーマンス中に自分の尿を飲むなど、イギー・ポップのようなステージ上の突飛な行動で知られていた。アンドレイ・パノフは1998年に僅か38歳で死去したが、その頃までに彼のバンドは、1987年の『Reagan, Provocateur』を含む数作のアルバムをリリースしている。
https://www.youtube.com/watch?v=27wn0DIG60o
一方モスクワでは、知性派ドラマーのセルゲイ・ジャリコフ(Sergei Zharikov)が率いるDKが活躍。ブルース・ロック、フリー・ジャズ、アヴァンギャルドからの影響を先駆的なアート・パンク・サウンドに取り入れた彼らは、1980年から90年にかけ、40作のLPをレコーディングしたと言われている。
その過程でDKは、シベリアのパンク・ロック・ムーヴメントにも刺激を与えており、オムスク出身のグラズダンスカヤ・オボロナ( Grazhdanskaya Oborona:直訳すると“民間防衛隊”という意味だが、通常彼らは“棺”を意味する略称の“グロブ=Grob”と呼ばれていた)にも影響を与えた。
アーサー・リーや、テレヴィジョン、スロッビング・グリッスルのファンであるイェゴール・レトフ(Yegor Letov)が率いるグロブもまた、1985年から2008年に相当な数の作品をレコーディングしたが、彼のバンドの反権力主義的スタンスや「I Hate The Red Color」(※“赤い色が嫌い”=反共という意味)といった曲のタイトルは、ロシアの忌まわしき秘密警察KGBの注意を引き、彼らは一時的にレトフを精神病院に収容した。
https://www.youtube.com/watch?v=RyIU6XdUpq4
グロブのベーシスト、コンスタンティン・リャビノフ(Konstantin Ryabinov)は軍隊に召集された。 しかし、イェゴール・レトフは口封じされることを拒否し、アパートの部屋に設営した基本的な機材しかないスタジオで、ノイジーかつローファイなパンクのアルバムの制作を続行。ソ連当局による厳しい検閲にもかかわらず、その音楽はテープにコピーされ、口コミでファンの手に渡っていった。
90年代初めには、ニルヴァーナやグリーン・デイらに刺激を受けた新しいタイプの非政治的なポップ・パンク・バンドが、ソ連崩壊後にロシアに出現。しかしパンクはやがて、反体制的な激しい抗議の表現手段として、再びロシアで復活する。2012年2月、フェミニスト・パンク・ロッカーのプッシー・ライオットが、ロシアのプーチン大統領を正教会が支持していることに対する抗議活動の一環として、モスクワの救世主ハリストス大聖堂で規制を無視した即興パフォーマンスを行ったのだ。
その事件自体は世界中のメディアの見出しを飾ったが、逮捕されたバンドのメンバー3人は、2012年3月、“宗教的憎悪を動機とする暴徒行為”で有罪判決を受け、2年の禁固刑が言い渡された。この裁判と判決は激しい怒りを世界に巻き起こし、アムネスティ・インターナショナルを含む複数の人権団体がこの訴訟を取り上げ、メンバーは最終的に早期釈放されている。パンクは再び、歯に衣着せないストレートな言動で、世界中のマスコミを賑わせたのだった。
https://www.youtube.com/watch?v=gjI0KYl9gWs
プッシー・ライオットが、マドンナや、ポール・マッカートニー、レディー・ガガといった、著名なスター達の支持を得たことで、パンクとそれに付随する考え方は再び注目を集めた。しかし、セックス・ピストルズとザ・クラッシュが大手レコード会社と契約を結んだ時点でパンクの名誉は汚されてしまったと、あの時以来そんな信念を長年抱き続けている評論家もいる。だがその一方、パンクの本来の理想の精髄は、21世紀の社会においても今日的な意義があり、欠くことの出来ないものであると論証することも、同じくらい簡単なはずだ。
例えば、レディオヘッドやナイン・インチ・ネイルズを始めとする大物アーティストが、‘価格は買い手次第’という原則に基づいて新作をリリースし、伝統的な音楽業界の楽曲発表方式を崩壊させたというやり方の中にも、アティテュード(姿勢)としてのパンクは容易に探り当てられる。
その他の分野では、ワシントンDCのポジティヴ・フォース等といった活動家団体の中に、パンクの哲学が感じ取れる。この活動は当初、バッド・ブレインズや、マイナー・スレット、ライツ・オブ・スプリングらを含む、80年代のハードコア・バンド勢が開拓した地元シーンから発生したものだが、その後、ホームレスを支援するプロジェクトOAPなど、重要な社会事業において指導力を発揮し続けている。
実際パンクは確かに、最も有り得そうにない場所や状況と関わり合うことがしばしばある。例えば、シュルレアリストのコメディアン俳優ヨン・ナールが、2010年にアイスランドの首都レイキャビクの市長になった際、彼はUKアナーコ・パンク(無政府主義パンク)バンドのクラスが掲げていた独自哲学の要素に基づいたマニフェストを実行し、その後4年間に渡って同市の運営に成功した。
しかし現代の生活において、パンクが最も広く影響を与え続けているのは、恐らくソーシャルメディアの台頭ではないだろうか。この新たなDIY志向の媒体が最初に重要な役割を果たしたのは、MySpaceが支配的な立場にあった2010年以前の時代、アークティック・モンキーズを始めとするバンド勢が飛躍する足掛かりとなった時だった。
だが現在、メディアに精通した21世紀のパンクスが、人々を扇動し、啓発し、団結を促す探求の旅を続ける中で活用しているのは、手作りのチラシやミックステープの配布の他、TwitterやFacebook、Instagramなどになっている。
Written By Tim Peacock
https://www.udiscovermusic.jp/stories/anarchy-around-the-world-punk-goes-global

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【中日】新外国人カリステ「インディオと呼んでくれ」 軽快な守備見せ外国人枠争奪戦で台風の目に

2023-02-05 | 先住民族関連
中日スポーツ2/4 11:58
 中日の新外国人オルランド・カリステ内野手(31)が沖縄春季キャンプの3日、アグレスタジアム北谷で行われた初のシートノックに臨み、軽快なグラブさばきを見せた。先住民を示す「インディオ」というニックネームを自ら求める背番号99。トレードマークは、胸に光る黒ヒョウをかたどったネックレス。この日、誕生日を迎えたカリビアンが力強く、俊敏にグラウンドを駆け回る。

シートノックで遊撃の守備に就いたカリステ(手前)と龍空
© 中日スポーツ 提供
 身長184センチのカリステが二遊間への打球を追いかける。長いストライドは外国人特有。力感のない捕球から、サイドスローで一塁へストライク送球した。三遊間は逆シングルで捕球し、体重を右脚にためて上から投げる。一塁手の構えたミットにすっぽり収めた。
 特徴の詰まった遊撃での内野ノック。「首脳陣からショートに入るように伝えられた。チームから求められたポジションをやる。グラウンドは守りやすいし、問題ない。バウンドを読みながら、予想しながら。イレギュラーへの対応も自分の持ち味」と自信ありをPR。母国ドミニカ共和国のウインターリーグで、三塁手部門のゴールドグラブ賞を受賞した背番号99。龍空と2人で入った遊撃で、俊敏な動きをみせた。
 チームメートに「インディオ」をニックネームとして求める。メキシコ時代に付けられたといい「(竜戦士も)けっこう呼んでくれているんだ」と満足げ。
 ネックレスは妻からプレゼントされた黒ヒョウをかたどった一品だという。世界遺産として知られるメキシコ南部、ユカタン半島にあるマヤ文明の遺跡「チチェン・イッツァ」の近くの民芸品店に並んでいたもので、幸運を呼ぶとか。「ドラゴンズに来られたのも、ネックレスのおかげだと思っている」と語る。
 肌をさわりながら、あけすけに「インディオと呼んでくれ」と言い、「黒ヒョウのように動き回る」と断言する。
 この日、31歳の誕生日を迎え、用意されたケーキに大喜び。アキーノから生クリームを頬や額につけられて祝われた。
 「チームに、心から受け入れてもらっていると感じる」。外国人枠は4。ロドリゲス、マルティネスの投手で2枠を埋めるなら、野手はビシエド、アキーノ、アルモンテとの競争。遊撃、三塁、外野守備もこなす万能インディオが、ベンチ入り争奪戦の台風の目となる。
https://www.msn.com/ja-jp/sports/npb/中日-新外国人カリステ-インディオと呼んでくれ-軽快な守備見せ外国人枠争奪戦で台風の目に/ar-AA175vHl

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新石器時代大型集落・太平遺跡の面積と構造が判明 陝西省

2023-02-05 | 先住民族関連
AFPBBNews2023年2月4日 13:13 発信地:中国 [ 中国 中国・台湾 ]

[2月4日 Xinhua News】中国陝西省(Shaanxi)西安市(Xi'an)で発見され、2021年9月に最初の発掘成果が公表された太平遺跡は、その後1年余りの探査と発掘を経て、面積と構造がおおむね明らかになった。遺跡は約4150~3700年前の新石器時代後期の客省荘第2期文化(陝西竜山文化)に属する大規模集落跡で、今回新たに、遺跡が東西に並んだ二つの環濠からなり、面積は100万平方メートルを下らないことが分かった。
 遺跡は同市西咸新区の灃東(ほうとう)新城斗門街道太平村の東側にある。関中地域(同省中部の渭水盆地一帯)でこれまでに発見された竜山文化期の環濠集落遺跡では最も規模が大きく、保存状態も良い。体系的な発掘調査と研究は2021年3月から実施されていた。
中国社会科学院考古研究所の王小慶(Wang Xiaoqing)研究員によると、東西の環濠は同時期に掘られたもので、上幅は15~20メートル、底幅は約10メートル、深さは約5メートル。大部分で境界がはっきりしており、保存状態が良い。遺跡内では各種形状の建築遺構と墓20基余りも見つかった。
 遺跡からは土器や石器、骨角器、蚌器(大型の貝殻から作られた道具)、玉器などの遺物が大量に出土し、遺跡が内包する文化と年代情報を正確に把握するための科学的根拠となった。ブタ、ヒツジ、ウシなどの家畜やシカ、タニシ、イシガイなど野生動物の遺物、アワ、キビ、イネ、小麦、大麦などの植物遺物も発見された。
 王氏はこれらの遺物について、遺跡の先住民が栽培や採集、家畜飼育、漁労、狩猟など多様な生活様式を持っていたことを示しており、自然資源の開発、生態環境の変遷、地人相関(土地と人の相互作用)を理解するための重要な根拠になると指摘。中でも小麦の発見は、小麦の陸路での東方伝播ルートの重要な隙間を埋めると述べた。今回の発掘は、黄河中流域の文明起源と初期発展を理解する上での重要な情報になるとも語った。(c)Xinhua News/AFPBB News
https://www.afpbb.com/articles/-/3449563

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戊辰戦争に負け、藩もなくなり、北海道開拓の道へ。名門仙台藩・伊達邦成の決断

2023-02-05 | アイヌ民族関連
FNNプライムオンライン2023/02/05 07:00
江戸時代末期、多くの殿様たちは、260年以上続いた江戸幕府が、まさかあっけなく崩壊するとは夢にも思っていなかっただろう。
それまで統治者だった殿様たちの中には、領地も家臣も取り上げられ、新天地への移住を余儀なくされた殿様や、思わぬ大事件に巻き込まれてお家を取りつぶされたり、新政府に徹底してあらがった殿様もいた。
そんな激動の中に放り込まれた殿様たちについて解説した歴史研究家・河合敦氏の著書『殿様を襲った「明治」の大事件』(扶桑社文庫)。
今回は、改易状態から新天地での開拓に成功した名門仙台藩・亘理(わたり)伊達邦成(くにしげ)が明治の世でどのように翻弄(ほんろう)され、生き抜いたか一部抜粋・再編集して紹介する。(以下「 」内は河合敦氏)
藩の行く末を左右した仙台藩の決断
北海道伊達市。この地の礎をつくったのが、14代当主・伊達邦成なのだ。
亘理伊達家は伊達家の分家で、代々伊達宗家の藩政を補佐してきた。
新政府が誕生すると、特に江戸幕府についていた藩は、重い決断を迫られた。結果的にその判断によって、自身の藩の運命が分かれることになってしまった。
中でも、判断を誤ってしまったのが伊達邦成。亘理伊達氏は、新政府に敵対したこともあり禄のほとんどを収公されるが、のちに財政を好転させ、生き残りに成功した。
「幕末、尊皇攘夷派と開国派に分かれて争う藩が多かったものの、幕府を倒せると考えた者はいなかったはず。それが、慶応2(1866)年の長州征討で激変する。天下の徳川家が長州一藩に敗れたのだ。
結果、将軍・徳川慶喜は大政奉還を余儀なくされ、その一月半後の慶応3年、数藩のクーデターによる新政府が誕生し、鳥羽・伏見の戦いで徳川軍を撃破。敗れて朝敵となった慶喜は新政府に無条件降伏(江戸無血開城)してしまった。新政府は武力(戊辰戦争)で全国を統一(蝦夷地を除く)。このときに大きく道を誤ったのが東北の雄藩・仙台藩である」(河合氏)
伊達政宗を藩祖とする仙台藩は62万石。幕末の実収は100万石を超えていたといわれている。
戊辰戦争の当初、仙台藩は新政府に従う方針をとったが、新政府は朝敵となった会津藩や庄内藩を討伐するよう出兵を求めてきた。
しかし、仙台藩士の多くは佐幕の会津藩や庄内藩に同情的で、仙台藩は反政府の姿勢を明確にし、東北・北越諸藩を糾合した奥羽越列藩同盟の盟主の地位についた。
戊辰戦争に負けて、家禄が約400分の1に
「だが、列藩同盟軍は近代化した新政府軍に歯が立たず、負けが込んでくると、仙台藩士たちの戦意は萎え、あっさりと降伏してしまった。拍子抜けするような結末で、これを伊達政宗が知ったら嘆くだろう。
ただ、戊辰戦争は関ヶ原の戦いとは異なり、勝者が藩を潰すことはなく、そのまま存続を許した(請西藩のみ例外)。仙台藩も断絶は免れた。とはいえ、62万石の石高は半分以下の28万石に減らされてしまった。仙台藩には約3万人の武士(妻子は除く)がおり、一族や重臣には1万石を超える者たちもいた。亘理伊達氏もその一つだった。戊辰戦争時の当主は邦成だった」
戊辰戦争のとき邦成は28歳。戦後の処分で仙台本藩は大減封されたので、当然、亘理伊達氏の領地も減ったが、その減り方が尋常ではなかった。
亘理郡や宇多群など2万3千石の石高がたったの玄米130俵(58石5斗)になってしまったのだ。ほとんどお家取り潰しといってよい無慈悲な措置であった。
家の宝物も売り払い、家臣と北海道開拓へ
さらに、亘理郡など邦成の支配していた地域は、仙台藩領ですらなくなってしまった。20万石から13万石に減らされた南部藩が新たに入封することに決まったのだ。
邦成には家臣が1361人おり、家族を含めると7854人にのぼった。もし旧領が仙台本藩内であれば、たとえ無禄になっても家屋敷は残り、そこに住み続けることが許されたはず。けれど領内には南部藩士たちが入ってくるため、立ち退かなくてはならない。もちろん、南部藩に亘理の家士を雇用できる余録などない。
そんな中、家老の田村顕允(あきまさ)が、蝦夷地を開拓すると土地支配と武士としての身分が許されるという話を聞いてきた。すると邦成は、家中を引き連れて新天地へ向かうことを即断したのだ。
新政府から許可を得て有珠(うす)郡の「モンベツ(紋鼈)」を開拓することに決めた邦成は、明治3年男女250名からなる第一次移住団とともに室蘭港へ到着した。
1年間困らないだけの米などを各自に用意させたが、250名が渡航するための旅費一切は、亘理伊達家で支払うことを約束し、実際に邦成はそのために先祖代々の宝物を売り払っている。
この移住は単身者(成人男性)のみは認めず、必ず夫婦または家族が同行することを家臣に求めた。苦しさに耐えかねて国元の家族のところへ戻ってしまうことを事前に見抜いたのであろう亘理伊達家首脳部が、それを防ぐため、家族移住を強要した。
また、第三次移住団では、妻の豊子と義母の保子(前仙台藩主の妹で当時45歳)も「開拓に尽くしたい」と有珠郡へ渡ってきた。
藩が消滅!開拓も暗礁に…
「保子は家臣たちから慕われており、亘理伊達氏開拓団の志気が大いに上がった。ただ、前当主の正妻の住処といっても、到底屋敷などとは呼べない小屋のような粗末なつくりで、床も荒むしろを敷いただけであった。
また、食器もろくに手に入らず、帆立の貝殻を皿代わりに使用しなくてはならなかったという。家臣たちの暮らしは、さらに悲惨だった。じつは第三次移民団が到着した頃、邦成の開拓事業は頓挫しかけていた。
前年がたいへんな凶作で、なおかつ、港での漁獲量もかんばしくなかった。そのため大根や芋を食い尽くしたうえ、蕗(ふき)を食べて飢えをしのいでいる状況だったのである」
そんな中でも邦成は家臣に対して相互扶助する体制をとり、その中にはアイヌへの配慮も含まれた。昔からこの地に住む彼らの協力なしに開拓がうまくいかないことを知っていたのだろう。
第三次移住団がやってきた5カ月後、全国に衝撃を与える出来事が起こった。
廃藩置県が断行され、地上から藩が消滅してしまったのだ。
後編では、藩が消滅した後も続いていった家臣との絆となぜ亘理伊達家の家臣団だけが北海道の開拓に成功したのかを追う。
河合敦
歴史研究家、歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に『教科書に載せたい日本史、載らない日本史~新たな通説、知られざる偉人、不都合な歴史』『殿様は「明治」をどう生き抜いたのか』シリーズ(ともに扶桑社)などがある
https://news.goo.ne.jp/article/fnn/entertainment/fnn-471988.html

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