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屈斜路コタンのアイヌ文化学ぶ 弟子屈でフォーラム

2023-02-20 | アイヌ民族関連
会員限定記事
北海道新聞2023年2月19日 23:15

屈斜路コタン地区の思い出を話し合った座談会
 【弟子屈】屈斜路コタン地区のアイヌ民族文化に理解を深めてもらうフォーラムが19日、町公民館で開かれた。同地区生まれのアイヌ文化伝承者弟子シギ子さん(91)=阿寒湖畔在住=らがコタン地区での思い出を語った。
 町教委の主催で、町民ら約50人が参加した。加藤博文北大アイヌ・先住民研究センター長は、同地区にある有形無形のアイヌ文化資源の保存について、住民が主体となる博物館「エコミュゼ」構想を紹介。「アイヌ文化の地域性や独自性を発信していくことが重要」と強調した。
・・・・・ 
(清水竜也)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/804391

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タブーへの挑戦 アイヌの伝統を教える日本の大学のクラブ

2023-02-20 | アイヌ民族関連
アラブニュース9 Feb 2023 01:02:00 GMT9

札幌:札幌大学の本田優子教授は先住民族アイヌの学生のための奨学金制度を設立し、アイヌ文化を称賛し広めるクラブを創設しようとした際、激しい抵抗にあった。
「私たちは、非常に強い反発を受けました」。北海道北部にある同大学の文化学分野の教授である本田氏が、AFP通信に語った。
「アイヌの問題はタブーであり、触れてはいけないものだとみなされていたのです」
それは2009年のことで、日本の国会が数十年に及ぶ反対圧力の末に、ついにアイヌを先住民族として認める決議を行ったわずか1年後だった。
それから15年近くを経た現在、ウレシパ奨学金は順調に運営され、クラブには毎年数十人が在籍し、アイヌ民族と日本人が混在している。
同クラブで学生らはアイヌの言語やダンス、工芸、またアイヌの伝統料理や狩猟文化について学ぶ。
これは少数民族・アイヌに対する姿勢の変化を示す一例だ。彼らは1869年に、居住していた島を大日本帝国により併合され北海道と名付けられたことで、数世紀にわたりアイヌの伝統を破壊した同化プロセスの基礎が築かれたのだ。
本田教授は民族的には日本人だが、過去に札幌近郊のアイヌ民族が多く暮らす二風谷という地域に住み、そこで教員をしていたことがある。
彼女が札幌大学で奨学金制度とクラブを設立した当時、アイヌの血を引く人々のうちで大学教育を受けた者は推定20%ほどしかいなかった。そこで本田教授は、奨学生が新たなグループを通じて自身の伝統を学び、また広めることを望んだ。
「私たちはこのクラブで、文字通り共に成長しています」と、歴史文化を専攻するアイヌ人学生の織田瑞希さん(20)は語った。
織田さんは兄弟と一緒にアイヌの伝統歌謡を歌いながら育った。彼女の母親や祖母は、血筋のために差別され、彼女自身も似たような経験があるという。
「アイヌだから臭い、と言われたこともあります」と明かしてくれた。
金澤眞直さん(23・歴史文化専攻)は、民族的には日本人だが、アイヌの伝統的な狩猟手法に興味があり、同クラブに加入した。
しかし、中部地方の静岡県出身である彼女は、日本がアイヌ民族をどのように処遇してきたかを学ぶ中で、自分自身がそこにいてもよいものかと悩むようになった。
そんな折、アイヌ民族のある友人が「あなたはアイヌに興味があって学びに来たんだから大丈夫だよ」と、安心させてくれたと金澤さんは述べた。
北海道が日本に編入された際、アイヌ民族は日本語を話すよう強制され、女性の顔に施す入れ墨も含め伝統を放棄させられた。
そうした汚名がアイヌという血筋に刻まれたために、日本にいるアイヌ民族の人数を把握するのも困難だ。多くのアイヌ人が自身のルーツを隠そうとするのだ。
北海道が2017年に実施した最後の調査では、アイヌ民族の人数は1万3000人と推計された。
2019年、日本はアイヌ文化を保護する取り組みに資金を提供する法案を可決し、その翌年には、北海道白老町に「民族共生象徴空間」として、巨大な「国立アイヌ民族博物館・国立民族共生公園 – ウポポイ」がオープンした。
一方、そうした努力があまりにも少なく、またあまりにも遅いと批判をする人々もいる。
日本政府は「特定のアイヌ団体に補助金を出して、人々がアイヌ文化を学べるよう取り組んでいますが、そうしたマイノリティー優遇措置によって必ずしも個人が助けられるとは限りません」と、歴史社会学者の小熊英二氏はAFP通信に語った。
どのような支援がなされるべきかについては議論の余地もあり、ウレシパ奨学金制度は日本人に対する差別だと主張する人もいる。
「しかし、アイヌ民族の伝統は強制的な同化政策によって絶ち切られたのです」と本田教授は言う。
「もし伝統が絶ち切られていなければ、彼らにとっての世界は違っていたかもしれないのです。だからこそアイヌの若者には、彼らが享受していたかもしれない世界を再構築するための手助けが必要なのです」
ウレシパ奨学金を受けるためには、自身がアイヌの血筋であることを申告しなければならないが、それを怖がる学生もいると本田教授は述べる。
教授は、クラブが彼らの力になっていると信じており、また特にカナダやニュージーランドの先住民族と交流したことで、アイヌの学生たちも自身の血筋について話すことを「現在では怖がらなくなった」という。
織田さんは今でも時々、アイヌだと自己紹介をすると馬鹿にされることもあるというが、そうした状況を現在では「アイヌについて語る機会」だと考えていると語った。
「私は、アイヌ民族が日本の先住民族運動をリードすることを望んでいます」と彼女は述べる。
「もっと声を上げて、この問題を喚起していきたいです」と織田さんは語った。
AFP
https://www.arabnews.jp/article/arts-culture/article_85908/

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梅の花便りが楽しみな時季だ。〈…

2023-02-20 | アイヌ民族関連
山陽新聞(2023年02月19日 08時00分 更新)
 梅の花便りが楽しみな時季だ。〈春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ〉と山上憶良が詠んだ万葉の頃から人々は、この花の名に春の喜びを共有してきた▼日本語は変遷しながら連綿と伝わり、現在世界に7千ほどある言語のうち話者の多さで第9位という。他国に主権を奪われて使うことを禁じられたことがない。紛争から逃れるために国を出る必要もない。ほとんどの日本人にとっての母語である日本語の背景には、こうした“幸運”があるとされる▼だが他方でアイヌ語、八重山や与那国地方の島言葉、東日本大震災の被災地の方言などを文化庁が「消滅危機言語」とみなしていることはあまり知られていない▼国連教育科学文化機関(ユネスコ)は近い将来、約2500の言葉が消える恐れがあるとみている。侵略による虐殺で話す人が絶えたり、グローバル化により英語に置き換わったりと理由はさまざまだ▼21日はユネスコが定めた国際母語の日。1952年、当時パキスタンの一部だったバングラデシュで、現地語を公用語と認めない政府への抗議デモが起こったことに由来する▼身の回りから失われつつある方言を含め、言葉とはどんな小さなものでも、その土地の文化を潤す井戸のようなものだろう。知らないうちに枯れていく怖さに無頓着ではいたくない。
https://www.sanyonews.jp/article/1364744

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【松阪市】3年ぶりに帰って来た!2月26日(日)は松浦武四郎記念館で「武四郎まつり」が開催されます☆

2023-02-20 | アイヌ民族関連
号外ネット松坂市2023/02/19
幕末の探検家であり、北海道の名付け親でもある松浦武四郎を讃える「武四郎まつり」が開催されます!

2023年2月26日(日)に開催されるのは「第28回武四郎まつり」です。松浦武四郎の生没月にあたる毎年2月の最後の日曜日に、松浦武四郎記念館とその周辺を会場として行われているこのお祭りは、新型コロナウイルス流行の影響で、今年は3年ぶりに開催されます。
この日は松浦武四郎記念館が無料で入館できるほか、松浦武四郎記念館の駐車場では様々なイベントステージが行われます。また今年は出店エリアを拡大している小野江公民館(飲食エリア)では、毎年大人気の武四郎鍋のほか、松浦武四郎弁当や武四郎コロッケなどの食べてみたいグルメの品々を販売。週1回金曜日だけオープンするという三雲のベーグル屋さん「COMCOM(カムカム)」の販売も予定されていて、楽しみがいっぱいです!
なお、この日はイベントステージを設営しているため、記念館の駐車場を使うことができません。当日は伊勢中川駅東口またはアピタ松阪三雲店から無料シャトルバスが運行されますので、ぜひご利用ください。
また前日の2月25日(土)には、プレイベントとして三重県立みえこどもの城2階舞台スペースにて、「アイヌ文化体験交流会」が開催されます。武四郎まつりに出演する、「札幌大学ウレシパクラブ」と一緒に、アイヌの人々の伝統文化を見たり聞いたりできる、興味深いイベントですので、ぜひ参加してみて!※事前申し込みが必要です。
「第28回武四郎まつり」のパンフレットはこちらからご覧ください。
第28回武四郎まつりパンフレット表面
第28回武四郎まつりパンフレット中面
この機会に、松阪市出身の探検家、松浦武四郎の魅力に触れてみませんか??
松浦武四郎記念館はこちら↓
https://matsusaka.goguynet.jp/2023/02/20/takeshiroumatsuri20230226/

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日本人初のアカデミー作曲賞を受賞することになる音楽家が素足にゴムサンダル、むさくるしい長髪で…坂本龍一が「アブ」と呼ばれていた飛躍前夜

2023-02-20 | アイヌ民族関連
文春オンライン2023年02月19日 12時00分

Photo by zakkubalan ©2020 Kab Inc
大学3年生で初めての結婚、美輪明宏の伴奏をするバイトで生活費を稼いだ日々…若き音楽家・坂本龍一を驚かせたのは“はっぴいえんどのベーシスト”だった から続く
 45年にわたり日本の音楽シーンをリードし続けた坂本龍一。71歳を迎え、記念発売される『坂本龍一 音楽の歴史』より彼の足跡を一部抜粋。1970年代前半、山下達郎、大貫妙子らと出会い、音楽家として飛躍を始めた日々を振り返る(全2回の2回目/ 前編を読む )。
◆◆◆
■坂本龍一が手がけたNHK-FM最後のラジオ・ドラマ
 NHK‐FMドラマで現在確認されている坂本龍一最後の作品は1976年9月3日放送の「ハムレット」。風間杜夫が主演するこのシェイクスピア劇は現代風ロック・オペラのようにアレンジされたラジオドラマで、坂本龍一は風間杜夫ら登場人物たちが歌うファンク・ロック曲、ロマンティックなピアノ歌曲、ハード・ロック、ソウル・ミュージック風のインストゥルメンタル曲に加え、アフロ・ビートをフィーチュアした楽曲、フュージョン前夜のような作品も提供。演奏はバイバイ・セッション・バンド。ここで1970年代後半の坂本龍一の音楽的な基礎と幅広さが確立されていたことがわかる。
 これら1975~76年のラジオ・ドラマの仕事は坂本龍一のキャリアにとっては重要なものであったが、その後の音楽家としてのブレイクの前夜で記録も残っていないということで、長く忘却されてきた。近年、その録音が坂本龍一の私物の中から発見されたことでやっと陽の目を見ることになった。
 フォーク以外のミュージシャンとの交流が拡がってきたのもこの頃だった。実家近くにオープンし、客として常連になっていた千歳烏山の『ロフト』の創設者である平野悠はレコード喫茶のような場所であった『ロフト』をライブハウスにしたいという希望を持ち、1973年に『西荻窪ロフト』をオープンさせた。坂本龍一はここに客としてだけではなく、ミュージシャンとしても訪れた。
 1973年7月に行なわれた20日間続いた連続コンサート『春二番コンサート』に出演。桑名正博、南佳孝らが共演だった。
 そして翌年、平野悠は『西荻窪ロフト』よりもさらにライブハウスとしての環境を整えた『荻窪ロフト』を開く。オープニング・セレモニーは開店日の1974年11月11日から10日間。ここでは友部正人ら馴染みのフォーク・ミュージシャンのほか山下洋輔トリオのようなジャズ、あるいは細野晴臣らのティン・パン・アレーのようなロック系のミュージシャンも出演。
 11月22日から24日の3日間行なわれたティン・パン・アレーが中心となったセッションに出演したのは次のような顔ぶれだ。
■細野晴臣、松任谷正隆…煌めき始めた音楽家たち
 ティン・パン・アレーとして細野晴臣、林立夫、松任谷正隆。ゲストは伊藤銀次、矢野誠、小原礼、はちみつぱい、上原裕、そしてシュガー・ベイブ。
 坂本龍一の1970年代後半の活動に欠かせなくなる面々がこの『荻窪ロフト』のオープニング・セレモニーには揃っていた。
 坂本龍一はこの店で多くのミュージシャンと知り合い、共演の場も多くなった。ここ以外でのライヴやレコーディングに呼ばれることも多くなっていく。
「シュガー・ベイブ、山下達郎と最初に会ったのは『荻窪ロフト』なんです。あそこができたばっかりのときで、オープニングに荒井由実や夕焼け楽団などいろんな人が出て知り合ったのですが、当時シュガー・ベイブは山下洋輔さんのジャムライスっていう事務所に所属していた。ジャムにライスって赤塚不二夫先生的なセンスの名前。亡くなった友人の生田朗が山下洋輔トリオの大ファンで、彼を通してシュガー・ベイブを知ったんじゃなかったかな。ぼくと生田がどうやって知り合ったかというのはもうよく憶えていないんですけど」(※※)
 そう、この『荻窪ロフト』では、後に友人のみならずマネージャーとして坂本龍一のキャリアに大きくかかわる生田朗とも知り合っていた。
 当時の坂本龍一の外見はむさくるしい長髪に、無精髭。煮染めたようなジーンズに冬でも素足にゴムサンダル。
『西荻窪ロフト』のオープンの頃に連載が始まった水島新司の野球漫画『あぶさん』の主人公も(初期の頃は)同じくむさくるしいキャラクターで、いつのまにか坂本龍一のあだ名はアブになっていた。
 この1975年、シンガーとして、あるいはジャズ、ポップスのドラマーとして活躍していたつのだ☆ひろとも出会う。つのだ☆ひろは坂本龍一を気に入り、さまざまなライヴ、レコーディングの場に呼んだほか、レコード会社などにも紹介してくれるようになっていく。
 その初期のコラボレーションが浅川マキのアルバム『灯ともし頃』への参加だった。
『灯ともし頃』は当時、浅川マキがよくライヴを行なっていた西荻窪のライブハウス『アケタの店』でライヴ形式のレコーディングを行なったアルバム。つのだ☆ひろ、吉田建、向井滋春、近藤等則ら坂本龍一とこの後も共演するアーティストに混じり、オルガンを弾くことになった。
■1975年の終わりごろの録音カセットに残された“音源”
 この浅川マキのプロデューサーが寺本幸司。演奏の確かさを認めた寺本幸司は、浅川マキと同時に手掛けていたりりィのバック・バンドであるバイバイ・セッション・バンドにも坂本龍一を招聘していた。
「りりィの場合も、友部さんとのライヴを彼女のプロデューサーが聴いていて、それでバックをやらないかって声をかけてきた」(※※)
 バイバイ・セッション・バンドは、寺本幸司が1973年にりりィのバックをさせるためにスタジオ・ミュージシャンらで組ませたバンドだ。一度切りのセッションのつもりで、メンバーがどんどん入れ替わっていくというコンセプトで、実際にメンバーは一定期間在籍するといつの間にか他のミュージシャンに入れ替わっているという歴史を辿っていく。
 最初期のメンバーは木田高介(アレンジとキーボード)、土屋昌巳(ギター)、吉田建(ベース)、斎藤ノブ(パーカッション)、西哲也(ドラム)で、やがてアレンジャー兼キーボーディストとして国吉良一が参加。しかし国吉良一も自身の活動のために脱退となったときに坂本龍一に白羽の矢が立ったのだ。
 坂本龍一がバイバイ・セッション・バンドに加入したのは先述のラジオドラマの伴奏から1975年の終わり頃のようだが、この時期はまだ土屋昌巳が在籍していたようだ。やはりこの後に長い付き合いになる土屋昌巳と坂本龍一は意気投合し、結果的には出ることがなかった土屋昌巳のソロ・デビュー・アルバムのデモ作りのためのレコーディングに、吉田建、斎藤ノブらとともに参加している。このときの録音のカセットは坂本龍一の私物として現在まで保存されている。
「マー坊(土屋昌巳)とは年も近いしすぐ仲良くなった。当時聴いている音楽も近かったんです。ニューウェイヴ前夜の音楽ですが、彼もその後ジャパンと一緒にやったりと似た方向に行きました。もともとそういう素地があったんですね」(※※)
 1976年に発売された俳優の下條アトムのデビュー・アルバム『この坂の途中で』にも、りりィや土屋昌巳らバイバイ・セッション・バンドのメンバーとともに参加している。
 バイバイ・セッション・バンドはりりィの1976年のアルバム『Auroila』のレコーディングが始まるときには、メンバーは坂本龍一、吉田建のほか、伊藤銀次(ギター)、上原裕(ドラム)という編成に変化していた。
■アルバムやライヴのアレンジも手掛けるようになっていく
 坂本龍一はこの頃にはバイバイ・セッション・バンドで演奏だけではなく、アルバムやライヴのアレンジも手がけるようになっている。
「アルバムのアレンジをまかされる前にツアー・バンドに入ったんだけど、バンドに入るというのはそのときが初めて。2回目がYMOで人生2回だけ(笑)。エキストラ的な入り方で、がっちり加入しましたっていう感じではなかったけれど、入ってやりだすとぼくの性分というか、ここのコードはこうしようよとか、ここのリズムはこう変えようとか、いろいろ言いだしちゃう。なので自然にバンドの中でアレンジャー的な存在になっていきました」(※※)
 アルバム『Auroila』の中で坂本龍一はアレンジャーとしての開花を明らかにする作品をいくつか残しているが、本人としてはなかでも収録曲のひとつ「川原の飛行場」はこの後何十年も忘れ得ないアレンジとなった。
「この曲は弦も含めた全体のアレンジはミニマリスティックなイントロから始まってリズムがずれていく、スティーヴ・ライヒ的なものも取り入れつつ、でも曲としてはポップスという曲全体の世界がうまくできた。初めて自分なり、坂本龍一印のアレンジができた記念すべき作品かなあと昔からずっと思っています」(※※)
 また、ライヴの場でも音楽監督を務めている。1976年のコンサートで、坂本龍一はコンサートのオープニングにシンセサイザーが奏でる鐘の音が欲しいと思い、日本ではまだまだ使う人が限られていたシンセサイザーのオペレーターの第一人者に相談しに行った。
■YMOで大きな協力を仰ぐことになるあの男と出会った
 後にYMOで大きな協力を仰ぐことになる松武秀樹との初めての出会いでもあった。
「りりィは当時百万枚を売っていた人気者だったから、なおさらポップスの最上級のプレイヤーたちと知り合えた。ロック・フェスのような場に出たときも、対バンが上田正樹とサウス・トゥ・サウスでとてもカッコよかったり。りりィのバンドがわりとティン・パン・アレイ系に近かったせいもあっていつしか林立夫さんとかとも知り合っていた。その一方、りりィは内田裕也さんたちのピンク・ドラゴン系にも近かった。中間に位置していたので交流がさらに拡がったんですね。この人脈から後の『六本木ピットイン』時代につながっていきます」(※※)
 それはもう少し後の話となる。
 この年、六文銭の及川恒平がアイヌの民話をテーマにしたレコード『海や山の神様たち‐ここでも今でもない話‐』をビクター音楽産業の学芸部から出すことになったとき、サポートとして声がかかった。東京藝術大学で私淑していた民族音楽の権威、小泉文夫の授業に出るなどの経験も買われたのだろう。
■シュガー・ベイブとの交流から生まれた大滝詠一との出会い
 ただし、この時点ではアイヌ音楽の資料は市中にほとんど存在せず、坂本龍一はアイヌ音楽の再現ではなく、このときの自分の手札であるクラシックやソウル・ミュージックなどさまざまな音楽を駆使してアルバムの作編曲を行なった。ここでコーラスに起用したのがシュガー・ベイブの山下達郎と大貫妙子だ。前述のとおりシュガー・ベイブとは『荻窪ロフト』で知り合いになっており、彼らのライヴに客演する仲になっていた。
 このシュガー・ベイブとの交流は、やがて大滝詠一との出会いにつながっていくことにもなった。また、この『海や山の神様たち‐ここでも今でもない話‐』での仕事が評価され、以降、坂本龍一はビクター音楽産業の学芸部発のレコード作りに関わることになっていった。
 こうした、フォーク、ポップスの世界で坂本龍一の存在感が飛躍的に高まっていった1975年だが、本人としてはこうした世界での仕事はただのアルバイトという意識だった。以前の工事現場でのバイトとはいわないまでも、シャンソン喫茶でのピアノ伴奏のバイトと大差がないという意識。
「この頃は便利屋さんですね、本職だという意識がないから便利屋に徹していた。スタジオ・ミュージシャンとしての自我が出てくるのはもう少し先になってから」(※※)
 ロック、フォーク、ポップスの世界で仕事とバイトを行ないつつ、その裏で坂本龍一は自分なりの天職ともいえる活動にひそかに精を出してもいた。
※2016年の『Year Book 1971-1979』(commmons)ブックレットのためのインタビュー取材(※※)から抜粋。
(吉村 栄一/Webオリジナル(外部転載))
https://news.nifty.com/article/entame/etc/12113-2178801/

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核軍縮に女性、先住民必要 ジェンダーと禁止条約巡り

2023-02-20 | 先住民族関連
福井新聞2023年2月19日 午後5時49分

 ジェンダーと核兵器禁止条約をテーマにしたセミナーで講演する中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター長の金崎由美さん=19日午前、広島市
 5月の先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)開幕まで3カ月となった19日、ジェンダーと核兵器禁止条約をテーマにしたセミナーが広島市で開かれた。中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター長の金崎由美さん(52)が講演し、核抑止論は男性中心の権力構造が支えているとして、解体するには「女性や先住民族など排除されてきた人々を巻き込んだ軍縮の議論が必要だ」と訴えた。
 核禁止条約の前文は、核が女性や子どもに偏った影響を及ぼすことや、核実験などが先住民に多大な被害を与えてきたことを明記している
https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1729126

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アラスカ写して30年 写真家が伝えたい「地球の未来と危機」

2023-02-20 | 先住民族関連
毎日新聞 2023/2/19 10:00(最終更新 2/19 10:40) 1934文字
 米国アラスカ州で美しい風景やオーロラ、ヒグマやオオカミ、シャチやクジラなどの生き物を撮影して約30年、1年の半分を現地で過ごす愛媛県松山市の写真家、松本紀生(のりお)さん(50)が3月に新たな写真絵本を出版し、記念のフォトライブを同市内で実施する。豊かな自然の素晴らしさ・大切さを子供にも大人にも見てもらい、地球温暖化で損なわれつつある現状も伝えて、共に考えようと呼び掛ける。
 同市出身の松本さんがアラスカに出会ったのは立命館大3年で21歳だった1993年。将来を模索していた中、京都市内の書店で偶然手にしたのが写真家・星野道夫さん(1996年に43歳で死去)のエッセーだった。アラスカの美しさ、寄り添うように撮り続ける生き方に魅了された。同じ道を志して大学を中退し、翌年秋から星野さんも学んだアラスカ大に編入学。2000年に卒業後も毎年2回に分けて現地に滞在し、撮影を重ねている。
 北極圏や無人島など人が暮らしていない場所まで飛行機やボートをチャーターして行く。春夏秋はテント、冬は氷河上に自作するかまくらで数週間から2カ月程度の単身キャンプ生活。春夏秋が凝縮する6~9月は動植物、1~3月は北米最高峰のデナリにかかるオーロラを撮影してきた。
温暖化の危機を痛感

山越しに輝くオーロラ=米国アラスカ州で松本紀生さん撮影
 松本さんの遠吠えに反応して近づいてくるオオカミや、3メートルほどの近さで歩くヒグマ。オーロラは日ごとに色も形も明るさも異なり、一期一会で飽きることがないという。写真や文章は多くの雑誌や新聞に掲載され、毎日小学生新聞と毎日ウィークリーでの連載や、毎日新聞夕刊の写真特集でもたびたび発表。これまで写真集など5冊の著書があり、テレビやラジオ番組への出演でも知られる存在だ。
https://mainichi.jp/articles/20230217/k00/00m/040/312000c

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「好き勝手する反社ども許さねえ!」ブラジル軍 アマゾン奥地に防空識別エリア設定 不法侵入機には発砲も

2023-02-20 | 先住民族関連
ニュースカフェ2023年2月19日(日) 19時15分

ブラジル空軍は2023年1月30日、大統領令第11405号に基づき、北部地域の上空に防空識別圏(ZIDA)を設けました。これには、ヤノマミ族を支援するという狙いがありますが、かなりの重装備で驚きます。
マフィア対策用に早期警戒管制機まで投入!
 ブラジル空軍は2023年1月30日、大統領令第11405号に基づき、北部地域の上空で防空識別圏(ZIDA)を有効化しました。
 この動きは、南米で国家間の緊張が高まったわけではなく、同国とベネズエラ国境付近に住む先住民、ヤノマミ族を支援する作戦「ヤノマミシールド」の一環として行われたものです。 同地には金の採掘を求め「ガリンペイロ」と呼ばれる違法採掘鉱夫が数多く流入しており、土地や森林を破壊し、河川汚染を引き起こすだけではなく、原住民をターゲットとした襲撃事件までも多発するような状況で、前々から問題になっていました。また、襲撃による直接的な被害だけではなく、新型コロナウイルスを始めとした様々な伝染病も持ち込むなどしており、大きな健康被害も起きているそうです。 このガリンペイロは違法採掘夫とはいえ、ブラジル各地で強盗や暴行、傷害事件などを起こす、いわゆる“ならずもの”が多くを占める輩であり、凶悪なだけでなく、マフィアとのつながりもある、かなり厄介な存在になっています。そうした犯罪は、麻薬の密輸などと同様に、飛行機やヘリコプターを使って行われることが多いことから、広域の監視体制を敷き即応性を高めるために防空識別圏を設けたといいます。 監視空域は白 (予約)エリア、黄色 (制限)エリア、赤 (禁止)エリアの3つに分けられ、白と黄色に関しては、事前に手続きした民間機は通ることが許されるものの、赤エリアについては軍用機と作戦参加機しか飛行できません。怪しい航空機はすべて強制着陸させるといい、仮に従わない場合は警告発砲ありとのことで、最終的には違反者を“逮捕”するための発砲も許可されています。
無法者に“自発的”な退去うながす
 ブラジル空軍の作戦規模はかなり大きなもので、軍事衛星通信システムを使い全域を監視することに加え、早期警戒管制機E-99、R-99を投入し当該空域を飛ぶ空中目標などは、ほぼすべて探知・追跡。さらにターボプロップ単発機の軽攻撃機「スーパーツカノ」を用い、低空域や地上の警戒も行うという徹底ぶりです。
 作戦では同時にヤノマミ族に対する人道支援も行われており、2月14日の段階で、陸海空軍と保健省の共同作戦で、15機の航空機と約500人の人員を動員し、医薬品を含む105tもの物資が輸送されました。 なお、2月6日からブラジル空軍は、作戦が第2段階に入ったとして防空識別圏の一部を開放し、これを5月6日まで続けると発表しています。なぜ、わざわざ防空網に穴を開けているのか。実は、不法採掘者たちが“協力的かつ自発的”に不法採掘地域から立ち退くことを期待しているからだそう。つまり「命が惜しかったら今のうちに動けよ」ということのようです。 この成果なのか、ブラジル法務省のフラヴィオ・ジノ法相によると、6日の段階で、違法採掘鉱夫の実に8割が近日中の退出を表明したとか。こうした温情にも見える措置を取ったのは、現地の不法採掘者たちが強硬策で自暴自棄になり、暴徒化してヤノマミ族の集落を襲った前例を鑑みてだといいます。
https://www.newscafe.ne.jp/article/2023/02/19/2822550.html

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キュランダ1 日観光ツアー スカイレール+キュランダ観光鉄道の定番ツアー

2023-02-20 | 先住民族関連
地球の歩き方web 2023/02/19

ケアンズ近郊の代表的な観光地キュランダの散策に、片道スカイレール+片道キュランダ・シーニックレールウェイを利用。さらに人気テーマパークのレインフォレステーション・ネイチャーパーク(→ P.88)をセットした日本語ガイド付きツアー。スカイレール駅の送迎やキュランダ到着後の移動手段などを考えると、スケジュールに無駄がなく、じっくりキュランダ観光ができるのでおすすめだ。
●どきどきキュランダ1 日観光デラックスコース 
レインフォレステーション・ネイチャーパークでは、まずアーミーダック乗車。その後コアラ抱っこ写真、コアラ&ワイルドライフパーク、パマギリ・アボリジナルエクスペリエンス(先住民ダンスショー、先住民文化体験のいずれか)のどれかひとつを選択する。キュランダホテルでのオージーバーガーもしくはバラマンディフィッシュ& チップスのランチ付き。なおキュランダホテルでは地元産クラフトビールの飲み比べも体験できる(有料)。
●ジェイさんのキュランダ観光+選べるプラン 
レインフォレステーション・ネイチャーパークでは、コアラ&ワイルドライフパーク見学とアーミーダック乗車。ランチは付かないが、おすすめレストランをいくつか紹介してくれる。なおスカイレール&キュランダ・シーニックレールウェイ+ホテル送迎のみのフリープランもある。
https://www.arukikata.co.jp/web/directory/item/108722/

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キュランダ・シーニックレールウェイ 熱帯雨林の森を駆け抜ける歴史的鉄道

2023-02-20 | 先住民族関連
地球の歩き方web 2023/02/19

19 世紀後半の木造車両内はレトロな風情で、牽引するディーゼル機関車の車体には、熱帯雨林にすむカーペットスネーク(ニシキヘビの仲間)をモチーフにした先住民アボリジナルの絵が描かれている。もともとは1886 年にアサートンテーブルランドへの物資輸送手段として敷設開始された鉄道で、完成まで5 年の歳月をかけ29 人もの人命を失うほどの難工事だった。現在この列車が走るのはその一部であるケアンズ~キュランダ約34km。車窓には、熱帯雨林の山の斜面に開けた景色のよい場所が次々と現れる。レトロな雰囲気のフレッシュウオーター駅Freshwater Station を出て、サトウキビ畑の中をしばらく走ると線路が大きくカーブを切るホースシューベンドHorse Shoe Bend。ここを抜けるとゆっくりと勾配を上げながら世界遺産の熱帯雨林の森の中へと入っていく。 山を上り始めていくつかのトンネルを抜けたあとに現れるのがストーニークリーク峡谷Stoney Creek Valley。峡谷に架かる大きく弧を描くストーニークリーク橋を渡るときは、橋のすぐ脇に45m もの落差をもつストーニークリーク滝が見える。ルート内で最も人気のあるポイントだ。またキュランダ到着前にはバロンフォールズ駅Ballon Falls Station に停車し、展望台風に造られたプラットホームやすぐ脇にある見晴らし台から迫力あるバロンフォールズの瀑布を見ることができる。
https://www.arukikata.co.jp/web/directory/item/108720/

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<書評>『アマゾンに鉄道を作る 大成建設秘録 電気がないから幸せだった。』風樹茂 著

2023-02-20 | 先住民族関連
東京新聞2023年2月19日 07時00分

◆世界の片隅から日本憂う
[評]伊藤千尋(国際ジャーナリスト)
 とかく批判されがちな日本の政府開発援助(ODA)だが、実態はどうだろう。地球の反対側、アマゾンの奥地で一九八〇年代、「地獄の鉄道」と呼ばれた線路の復旧事業が行われた。現地側とやり合う通訳は、企業文化を嫌う型破りな派遣社員だ。生々しい援助の現場を忖度(そんたく)抜きで痛快に綴(つづ)る。
 南米ボリビアの辺境にある小さな村を拠点に、六十九キロ区間で線路や橋を建設した。日本式に仕事をする建設会社と現地の労働者はしばしば衝突する。「日本人は出て行け」と石も投げられた。度重なる脱線、汚職や犯罪、猛烈インフレ、援助金の踏み倒し。さんざんだが「予定調和はつまらない」と考える著者はむしろ楽しむように受け入れる。
 なにせ現地の民は「悲しい歌を明るいメロディで歌う」人々だ。悪党も受け入れ「こんな自分でも生きていいと思わせてくれる」寛容な社会は、「世界の片隅にあるがゆえの強さ」を持っている。人は肌を寄せ合って生きている。
 翻って日本はどうか。生産性の追求やコンビニなどの利便性は「生きる実感を乏しくさせる罠(わな)」ではないか。開発本位で自給自足をあざ笑うが、「自給自足ができるのは素晴らしいことではないか」。
 おせっかいな援助で被害を受けるのは現地だ。先住民は「私たちは電気などいらない。開発などまったく興味がない。ただ私たちは生き残りたい」と叫ぶ。鉄道は完成し援助の目的は達成した。でも、村人は損害を被ったと恨む。
 日本の行動様式は往々にして「負の効果」をもたらす。住民に配慮する視点を欠いてはならない。青年海外協力隊を国内協力隊にして定住外国人を支援し移民局を創設するよう、著者は提言する。
 戦後の日本は「破壊ではなく建設を、争いではなく友和を」国是とした。「破壊が得意な」米国とは違う。ところが、欲望に忠実な米国の自由主義市場経済を採用したため、今や途上国型の格差社会となり、活力を失ったと見る。
 本書の隠れたテーマは「世界の片隅から日本を憂える」である。著者は副題の方を強調したかったのではないか。
(五月書房新社・2200円)
1956年生まれ。作家、開発コンサルタント。著書『ホームレス入門』など。
◆もう1冊
杉山大二朗著『仁義ある戦い アフガン用水路建設 まかないボランティア日記』(忘羊社)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/231841

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