文春オンライン2023年02月19日 12時00分


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大学3年生で初めての結婚、美輪明宏の伴奏をするバイトで生活費を稼いだ日々…若き音楽家・坂本龍一を驚かせたのは“はっぴいえんどのベーシスト”だった から続く
45年にわたり日本の音楽シーンをリードし続けた坂本龍一。71歳を迎え、記念発売される『坂本龍一 音楽の歴史』より彼の足跡を一部抜粋。1970年代前半、山下達郎、大貫妙子らと出会い、音楽家として飛躍を始めた日々を振り返る(全2回の2回目/ 前編を読む )。
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■坂本龍一が手がけたNHK-FM最後のラジオ・ドラマ
NHK‐FMドラマで現在確認されている坂本龍一最後の作品は1976年9月3日放送の「ハムレット」。風間杜夫が主演するこのシェイクスピア劇は現代風ロック・オペラのようにアレンジされたラジオドラマで、坂本龍一は風間杜夫ら登場人物たちが歌うファンク・ロック曲、ロマンティックなピアノ歌曲、ハード・ロック、ソウル・ミュージック風のインストゥルメンタル曲に加え、アフロ・ビートをフィーチュアした楽曲、フュージョン前夜のような作品も提供。演奏はバイバイ・セッション・バンド。ここで1970年代後半の坂本龍一の音楽的な基礎と幅広さが確立されていたことがわかる。
これら1975~76年のラジオ・ドラマの仕事は坂本龍一のキャリアにとっては重要なものであったが、その後の音楽家としてのブレイクの前夜で記録も残っていないということで、長く忘却されてきた。近年、その録音が坂本龍一の私物の中から発見されたことでやっと陽の目を見ることになった。
フォーク以外のミュージシャンとの交流が拡がってきたのもこの頃だった。実家近くにオープンし、客として常連になっていた千歳烏山の『ロフト』の創設者である平野悠はレコード喫茶のような場所であった『ロフト』をライブハウスにしたいという希望を持ち、1973年に『西荻窪ロフト』をオープンさせた。坂本龍一はここに客としてだけではなく、ミュージシャンとしても訪れた。
1973年7月に行なわれた20日間続いた連続コンサート『春二番コンサート』に出演。桑名正博、南佳孝らが共演だった。
そして翌年、平野悠は『西荻窪ロフト』よりもさらにライブハウスとしての環境を整えた『荻窪ロフト』を開く。オープニング・セレモニーは開店日の1974年11月11日から10日間。ここでは友部正人ら馴染みのフォーク・ミュージシャンのほか山下洋輔トリオのようなジャズ、あるいは細野晴臣らのティン・パン・アレーのようなロック系のミュージシャンも出演。
11月22日から24日の3日間行なわれたティン・パン・アレーが中心となったセッションに出演したのは次のような顔ぶれだ。
■細野晴臣、松任谷正隆…煌めき始めた音楽家たち
ティン・パン・アレーとして細野晴臣、林立夫、松任谷正隆。ゲストは伊藤銀次、矢野誠、小原礼、はちみつぱい、上原裕、そしてシュガー・ベイブ。
坂本龍一の1970年代後半の活動に欠かせなくなる面々がこの『荻窪ロフト』のオープニング・セレモニーには揃っていた。
坂本龍一はこの店で多くのミュージシャンと知り合い、共演の場も多くなった。ここ以外でのライヴやレコーディングに呼ばれることも多くなっていく。
「シュガー・ベイブ、山下達郎と最初に会ったのは『荻窪ロフト』なんです。あそこができたばっかりのときで、オープニングに荒井由実や夕焼け楽団などいろんな人が出て知り合ったのですが、当時シュガー・ベイブは山下洋輔さんのジャムライスっていう事務所に所属していた。ジャムにライスって赤塚不二夫先生的なセンスの名前。亡くなった友人の生田朗が山下洋輔トリオの大ファンで、彼を通してシュガー・ベイブを知ったんじゃなかったかな。ぼくと生田がどうやって知り合ったかというのはもうよく憶えていないんですけど」(※※)
そう、この『荻窪ロフト』では、後に友人のみならずマネージャーとして坂本龍一のキャリアに大きくかかわる生田朗とも知り合っていた。
当時の坂本龍一の外見はむさくるしい長髪に、無精髭。煮染めたようなジーンズに冬でも素足にゴムサンダル。
『西荻窪ロフト』のオープンの頃に連載が始まった水島新司の野球漫画『あぶさん』の主人公も(初期の頃は)同じくむさくるしいキャラクターで、いつのまにか坂本龍一のあだ名はアブになっていた。
この1975年、シンガーとして、あるいはジャズ、ポップスのドラマーとして活躍していたつのだ☆ひろとも出会う。つのだ☆ひろは坂本龍一を気に入り、さまざまなライヴ、レコーディングの場に呼んだほか、レコード会社などにも紹介してくれるようになっていく。
その初期のコラボレーションが浅川マキのアルバム『灯ともし頃』への参加だった。
『灯ともし頃』は当時、浅川マキがよくライヴを行なっていた西荻窪のライブハウス『アケタの店』でライヴ形式のレコーディングを行なったアルバム。つのだ☆ひろ、吉田建、向井滋春、近藤等則ら坂本龍一とこの後も共演するアーティストに混じり、オルガンを弾くことになった。
■1975年の終わりごろの録音カセットに残された“音源”
この浅川マキのプロデューサーが寺本幸司。演奏の確かさを認めた寺本幸司は、浅川マキと同時に手掛けていたりりィのバック・バンドであるバイバイ・セッション・バンドにも坂本龍一を招聘していた。
「りりィの場合も、友部さんとのライヴを彼女のプロデューサーが聴いていて、それでバックをやらないかって声をかけてきた」(※※)
バイバイ・セッション・バンドは、寺本幸司が1973年にりりィのバックをさせるためにスタジオ・ミュージシャンらで組ませたバンドだ。一度切りのセッションのつもりで、メンバーがどんどん入れ替わっていくというコンセプトで、実際にメンバーは一定期間在籍するといつの間にか他のミュージシャンに入れ替わっているという歴史を辿っていく。
最初期のメンバーは木田高介(アレンジとキーボード)、土屋昌巳(ギター)、吉田建(ベース)、斎藤ノブ(パーカッション)、西哲也(ドラム)で、やがてアレンジャー兼キーボーディストとして国吉良一が参加。しかし国吉良一も自身の活動のために脱退となったときに坂本龍一に白羽の矢が立ったのだ。
坂本龍一がバイバイ・セッション・バンドに加入したのは先述のラジオドラマの伴奏から1975年の終わり頃のようだが、この時期はまだ土屋昌巳が在籍していたようだ。やはりこの後に長い付き合いになる土屋昌巳と坂本龍一は意気投合し、結果的には出ることがなかった土屋昌巳のソロ・デビュー・アルバムのデモ作りのためのレコーディングに、吉田建、斎藤ノブらとともに参加している。このときの録音のカセットは坂本龍一の私物として現在まで保存されている。
「マー坊(土屋昌巳)とは年も近いしすぐ仲良くなった。当時聴いている音楽も近かったんです。ニューウェイヴ前夜の音楽ですが、彼もその後ジャパンと一緒にやったりと似た方向に行きました。もともとそういう素地があったんですね」(※※)
1976年に発売された俳優の下條アトムのデビュー・アルバム『この坂の途中で』にも、りりィや土屋昌巳らバイバイ・セッション・バンドのメンバーとともに参加している。
バイバイ・セッション・バンドはりりィの1976年のアルバム『Auroila』のレコーディングが始まるときには、メンバーは坂本龍一、吉田建のほか、伊藤銀次(ギター)、上原裕(ドラム)という編成に変化していた。
■アルバムやライヴのアレンジも手掛けるようになっていく
坂本龍一はこの頃にはバイバイ・セッション・バンドで演奏だけではなく、アルバムやライヴのアレンジも手がけるようになっている。
「アルバムのアレンジをまかされる前にツアー・バンドに入ったんだけど、バンドに入るというのはそのときが初めて。2回目がYMOで人生2回だけ(笑)。エキストラ的な入り方で、がっちり加入しましたっていう感じではなかったけれど、入ってやりだすとぼくの性分というか、ここのコードはこうしようよとか、ここのリズムはこう変えようとか、いろいろ言いだしちゃう。なので自然にバンドの中でアレンジャー的な存在になっていきました」(※※)
アルバム『Auroila』の中で坂本龍一はアレンジャーとしての開花を明らかにする作品をいくつか残しているが、本人としてはなかでも収録曲のひとつ「川原の飛行場」はこの後何十年も忘れ得ないアレンジとなった。
「この曲は弦も含めた全体のアレンジはミニマリスティックなイントロから始まってリズムがずれていく、スティーヴ・ライヒ的なものも取り入れつつ、でも曲としてはポップスという曲全体の世界がうまくできた。初めて自分なり、坂本龍一印のアレンジができた記念すべき作品かなあと昔からずっと思っています」(※※)
また、ライヴの場でも音楽監督を務めている。1976年のコンサートで、坂本龍一はコンサートのオープニングにシンセサイザーが奏でる鐘の音が欲しいと思い、日本ではまだまだ使う人が限られていたシンセサイザーのオペレーターの第一人者に相談しに行った。
■YMOで大きな協力を仰ぐことになるあの男と出会った
後にYMOで大きな協力を仰ぐことになる松武秀樹との初めての出会いでもあった。
「りりィは当時百万枚を売っていた人気者だったから、なおさらポップスの最上級のプレイヤーたちと知り合えた。ロック・フェスのような場に出たときも、対バンが上田正樹とサウス・トゥ・サウスでとてもカッコよかったり。りりィのバンドがわりとティン・パン・アレイ系に近かったせいもあっていつしか林立夫さんとかとも知り合っていた。その一方、りりィは内田裕也さんたちのピンク・ドラゴン系にも近かった。中間に位置していたので交流がさらに拡がったんですね。この人脈から後の『六本木ピットイン』時代につながっていきます」(※※)
それはもう少し後の話となる。
この年、六文銭の及川恒平がアイヌの民話をテーマにしたレコード『海や山の神様たち‐ここでも今でもない話‐』をビクター音楽産業の学芸部から出すことになったとき、サポートとして声がかかった。東京藝術大学で私淑していた民族音楽の権威、小泉文夫の授業に出るなどの経験も買われたのだろう。
■シュガー・ベイブとの交流から生まれた大滝詠一との出会い
ただし、この時点ではアイヌ音楽の資料は市中にほとんど存在せず、坂本龍一はアイヌ音楽の再現ではなく、このときの自分の手札であるクラシックやソウル・ミュージックなどさまざまな音楽を駆使してアルバムの作編曲を行なった。ここでコーラスに起用したのがシュガー・ベイブの山下達郎と大貫妙子だ。前述のとおりシュガー・ベイブとは『荻窪ロフト』で知り合いになっており、彼らのライヴに客演する仲になっていた。
このシュガー・ベイブとの交流は、やがて大滝詠一との出会いにつながっていくことにもなった。また、この『海や山の神様たち‐ここでも今でもない話‐』での仕事が評価され、以降、坂本龍一はビクター音楽産業の学芸部発のレコード作りに関わることになっていった。
こうした、フォーク、ポップスの世界で坂本龍一の存在感が飛躍的に高まっていった1975年だが、本人としてはこうした世界での仕事はただのアルバイトという意識だった。以前の工事現場でのバイトとはいわないまでも、シャンソン喫茶でのピアノ伴奏のバイトと大差がないという意識。
「この頃は便利屋さんですね、本職だという意識がないから便利屋に徹していた。スタジオ・ミュージシャンとしての自我が出てくるのはもう少し先になってから」(※※)
ロック、フォーク、ポップスの世界で仕事とバイトを行ないつつ、その裏で坂本龍一は自分なりの天職ともいえる活動にひそかに精を出してもいた。
※2016年の『Year Book 1971-1979』(commmons)ブックレットのためのインタビュー取材(※※)から抜粋。
(吉村 栄一/Webオリジナル(外部転載))
https://news.nifty.com/article/entame/etc/12113-2178801/