北海道新聞2024年9月22日 19:27(9月22日 22:30更新)
室蘭工業大の大学祭「第64回工大祭」(実行委主催)が21、22日の両日、室蘭市水元町の同大構内で開かれた。飲食の販売やアイヌ民族の文化を体験するコーナーなど多彩な催しで盛り上がった。
屋外の飲食エリアにはクレープや焼き鳥、インドネシア料理を売る八つのテントが登場。午前10時の開始から、多くの市民や学生が買い求めた。中でも・・・・・・
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北海道新聞2024年9月22日 19:27(9月22日 22:30更新)
室蘭工業大の大学祭「第64回工大祭」(実行委主催)が21、22日の両日、室蘭市水元町の同大構内で開かれた。飲食の販売やアイヌ民族の文化を体験するコーナーなど多彩な催しで盛り上がった。
屋外の飲食エリアにはクレープや焼き鳥、インドネシア料理を売る八つのテントが登場。午前10時の開始から、多くの市民や学生が買い求めた。中でも・・・・・・
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北海道新聞2024年9月22日 19:24(9月22日 22:29更新)
「知里幸恵さんの言葉には心がこもっている」と作品の魅力を話す金田一名誉教授
【登別】NPO法人「知里森舎」(登別)は22日、登別市民会館(富士町)で知里幸恵フォーラムを開いた。登別出身のアイヌ文化伝承者、知里幸恵(1903~22年)と縁が深い言語学者の金田一秀穂杏林大名誉教授が講演したほか、アイヌ舞踊や歌が披露され、市内外から訪れた約200人を楽しませた。
フォーラムは毎年開催しており、今年は「幸恵の言葉」がテーマ。金田一名誉教授は、幸恵にアイヌ民族の神謡を文字に残すべきだと助言した言語学者金田一京助(1882~1971年)の孫にあたる。
金田一名誉教授は言語学者の視点から幸恵を「アイヌ語を母語としながら、日本語も操れる、現代で言うところのバイリンガル」だと説明。幸恵には「二つの言葉を使い分ける賢さがあった」と話した。
また、幸恵の作品の特徴として自然描写の美しさを挙げた。アイヌ神謡集の有名な一節「銀の滴降る降るまわりに」などの表現は、それまでの日本語にみられないものだとし、「新しい日本語の可能性を示してくれた」と強調した。
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※ユカラのラ、ハララキのラ(2文字目)は小さい字
毎日新聞2024/9/23 東京朝刊 有料記事 526文字
国立アイヌ民族博物館(ウポポイ)2階からの風景。ぜひ来て「サンペシトゥリ」を感じられる場所を探してみてください
サンペ 心臓(しんぞう)
サンペは心臓(しんぞう)という意味(いみ)です。「心臓(しんぞう)がドキドキする」ことを「サンペ トクトクセ」と表現(ひょうげん)します。
体(からだ)の一部(いちぶ)としての「心臓(しんぞう)」だけでなく、「気分(きぶん)」や「気持(きも)ち」という意味(いみ)でも使(つか)われます。例(たと)えば「サンペ・シトゥリ(伸(の)びる)」は「気持(きも)ちがいい、気分(きぶん)が晴(は)れる」ということを表(あらわ)します。
また、・・・・・・
<文(ぶん):小林(こばやし)美紀(みき)(国立(こくりつ)アイヌ民族(みんぞく)博物館(はくぶつかん)研究主査(けんきゅうしゅさ)) ウポポイ(民族共生象徴空間)協力>
ムービーウォーカー 2024/9/22 8:30
江戸時代前期の北海道を舞台にした『シサム』が公開中だ。まだ北海道が「蝦夷地」と呼ばれていた時代を描く本作は、交易のため蝦夷地を訪れた若き松前藩士がアイヌの人々との絆を紡ぐ壮大なヒューマンドラマ。そんな本作の見どころの一つが、実際にアイヌが暮らした町を含む北海道の景観。美しく、時に険しい自然描写が、映画に幻想的な味わいやスケール感をもたらしている。本作に限らず、北海道を舞台にした作品はこれまで多く製作されてきた。この土地ならではの雄大さを満喫できる名作をピックアップして紹介しよう。
アイヌの暮らしや伝統、文化が感じられる『シサム』
蝦夷地を領有する松前藩の若き藩士、高坂孝二郎(寛一郎)は兄の栄之助(三浦貴大)に連れられ、初めて蝦夷地に足を踏み入れた。高坂家ではアイヌとの交易で得た物品を他藩に売ることを生業としていたのだ。しかし到着して早々、不穏な動きを見せた使用人の善助(和田正人)によって栄之助は殺害されてしまう。逃走した善助を追うなかで瀕死の重傷を負い、アイヌの人々に救われる孝二郎。アイヌの村で介抱され、日々を過ごすうちに、彼らの文化や信仰に心動かされていく。一方、アイヌの間では横暴な和人(=アイヌから見た日本人)に対する反発心が高まっており、一触即発の事態が迫っていた。生まれや風習の垣根を越え、孝二郎は両者が共に生きることができる新たな道を模索していく。
本作の撮影地となったのは、孝二郎が身を寄せる集落のモデルにされた釧路管内の白糠(しらぬか)町。古くからアイヌの人々が暮らしてきた土地で、町名もシラリカ(磯のほとり)というアイヌ語がもとになっている。その名の通り海に面した美しい町で、劇中にも海岸が何度も登場する。町の観光スポットは、アイヌ古式舞踊「フンペリムセ」発祥の地にある馬主来(パシクル)自然公園や、町を一望できる岬にある森東山公園、雄大な山々を望む庶路ダムなど。アイヌ弔魂碑が建つ東山公園の麓にあるアイヌ文化活動施設ウレシパチセ(「互いに育む家」を意味する)ではアイヌ伝統文化が体験できる。スタッフ、キャストはこの町で約1か月にわたるロケ撮影を行なった。
アイヌの村で暮らし、その文化に触れて心が揺さぶられていく孝二郎(『シサム』)
[c]映画「シサム」製作委員会
北海道を舞台にアイヌの埋蔵金争奪戦が繰り広げられる『ゴールデンカムイ』
アイヌの埋蔵金をめぐる壮大な争奪戦を描いた、野田サトルによる大ヒットコミックを実写映画化した『ゴールデンカムイ』(24)。日露戦争での戦いぶりから“不死身の杉元”の異名を持つ杉元佐一(山崎賢人)は、アイヌの少女アシリパ(山田杏奈)と莫大なアイヌの埋蔵金探しを開始する。そんな彼らの前に、大日本帝国陸軍の鶴見篤四郎中尉(玉木宏)や元新選組副長の土方歳三(舘ひろし)ら最強の敵が立ちはだかる。
雪深い釧路を舞台とした本作。その撮影は北海道をはじめ山形や長野、新潟など雄大な自然が残る日本各地で行われた。そんななか、ひときわ目を引くロケ地が札幌市厚別区の「北海道開拓の村」。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンと同じ54ヘクタールの土地に、明治から昭和初期に建築された北海道各地の建造物を移築復元・再現した野外博物館で、雪だまりの残る目抜き通りに木造の建物が並んだ光景は西部劇を思わせる。スタッフから贈呈された馬そりや映画の小道具の展示も行われているとのことで、聖地巡礼の際はお見逃しなく。
北の歓楽街、ススキノを探偵と相棒が駆け巡る「探偵はBARにいる」シリーズ
大泉洋演じる私立探偵と松田龍平扮する相棒のコンビが、ススキノを舞台に活躍するハードボイルドミステリー。行きつけのBAR「ケラーオオハタ」に入り浸る探偵と相棒兼運転手の高田。ススキノの街を知り尽くす彼らのもとには、なぜか面倒なワケアリ仕事が次から次に舞い込んでくる。1970~80年代のB級アクション映画を彷彿とさせる毒気や、主演コンビのコンビネーションで話題を呼んだ痛快作。2011年公開の第1作に続き、『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』(13)、『探偵はBARにいる3』(17)とシリーズ3作が製作された。
北の歓楽街ススキノ。札幌市中央区のすすきの交差点を中心とする一帯は、新宿の歌舞伎町、福岡の中洲と並び三大歓楽街として知られている。ニッカウヰスキーのネオン看板やノルベサ屋上観覧車など街のランドマークが画面のあちこちに顔を出す。そんな本作の巡礼で訪れたいのが、探偵と高田がたまり場にしている「ケラーオオハタ」。撮影に使われたのはスタジオに建てたセットだが、マスターを演じていた桝田徳寿はススキノ狸小路にある「SAKE BAR ニューかまえ」のカウンターに立つリアルなバーのマスターなのだ。俳優兼マスターをしている桝田のカクテルを飲めば、探偵気分に浸れちゃう?
撮影された駅や家が保存されている『鉄道員 ぽっぽや』&『幸福の黄色いハンカチ』
直木賞に輝いた浅田次郎の短編を映画化した詩情あふれるヒューマンドラマ『鉄道員 ぽっぽや』(99)。北の果てにある小さな終着駅で、佐藤乙松(高倉健)は鉄道員(ぽっぽや)として生きてきた。ある日、孤独な彼の前に一人の少女(広末涼子)が現れる。
本作に登場する幌舞駅は、JR北海道根室本線の幾寅駅が使われた。撮影当時は無人駅で、駅舎は古びた外観に改装され撮影された。しかし、2016年の台風で被災し幾寅駅を含む一部区間が運休となったことで、そのまま22年に廃駅になった。ただし、駅舎は映画の雰囲気のまま保存され、廃車になったキハ40 764号気動車の一部分も設置されて聖地になっている。
『鉄道員』以外にも「網走番外地」シリーズ、『駅/STATION』(81)など北海道が舞台の映画に数多く出演している高倉健だが、健さん=北海道のイメージを定着させたのが『幸福の黄色いハンカチ』(77)だ。網走刑務所から出所した元炭鉱夫が、偶然出会った若者たちと網走から自宅のある夕張の炭鉱町まで車で旅をする物語。撮影に使われた家は「幸福の黄色いハンカチ想い出ひろば」として、黄色いハンカチののぼりと共に夕張市に保存されている。
実在した珈琲店で撮影された『しあわせのパン』
洞爺湖のほとりでパンカフェを営む夫婦と客たちの交流を通し、日常の中にある幸せを描いたハートウォーミングストーリー。東京から月浦に移住し、小さなパンカフェ「マーニ」を始めたりえ(原田知世)と水縞(大泉洋)。宿泊施設も備えたマーニには近所の常連さんから遠方の旅行客まで様々な人たちがやって来る。
平原の一本道に建つマーニは、裏手に湖、右手に木立ちを望む絵に描いたようなロケーションだが、撮影に使われたのは実在したカフェ。珈琲店「ゴーシュ」がそこ。マーニは2階が宿泊施設だったが、ゴーシュはカフェのみで、隣に宿泊施設「ゴーシュRIN」がある(2020年オープン)。2階建ての建物は1棟貸し切りで、定員は1名のみ。珈琲店はすでに閉店したが、一人で静かな時間を楽しみたい人はゴーシュRINをチェックしてはいかが?
北海道各地で撮影され、離ればなれになった男女の運命的な恋を描く『糸』
札幌出身の歌手、中島みゆきの同名曲をモチーフに、菅田将暉と小松菜奈をW主演に迎えたラブストーリー。運命的に出逢いつつ離ればなれになった恋人たちを描いて大ヒットした。撮影は上富良野や函館ほか各地で行われ、北海道の風景が詰まった作品になっている。高橋漣(菅田)と園田葵(小松)は13歳の時に恋に落ちるが、葵が姿を消したことで2人の初恋は終わりを告げた。8年後、友人の結婚式で東京を訪れた漣はそこで大学生になった葵と再会するが…。
上川管内上富良野町出身の漣。彼の回想シーンの撮影は、おもに富良野町とその周辺で行なわれた。家出した漣と葵が泊まるのは南富良野町の「かなやま湖畔キャンプ場」。上富良野町役場や「深山峠ラベンダーオーナー園」なども使われた。質素な葵の実家は、美唄市南美唄町にある市営団地周辺。最重要スポット「子ども食堂」は、同じく美唄市の南美唄町にある空き住宅の一角が使われた。撮影後も建物には子ども食堂の看板が掲げられており、いまも映画ファンが訪れているという。漣と葵がガラス越しに電話するシーンは函館空港。クライマックスのフェリー乗り場は津軽海峡フェリー函館ターミナルで、どちらも2人の想いがあふれる名シーンを飾った。
ここでピックアップした作品以外にも『北のカナリアたち』(12)や『許されざる者』(13)ほか、北海道を舞台にした作品は数多い。広大な景色や厳しい寒さなど北海道らしさを生かしたドラマチックな作品たちに触れてみてはいかがだろうか?
文/神武団四郎
※「シサム」の「ム」は小文字が、山崎賢人の「崎」は「たつさき」が、アシリパの「リ」は小文字が正式表記
OVO 9/22(日) 12:21
地球自体の不安定さを感じずにはいられない2024年。年々感じてはいるが、特に今年は気温の上昇が気になった。気温の上昇は命を直接奪うだけでなく、自然界の生命をも変動させてしまう。そうなると食料不足や高騰にも拍車がかかりだし、それらが生活面でも響く。今回、台風が立て続けに起きていることでお米農家も大きな打撃を受けています。小麦などを輸入に頼っている日本にとっては、お米で代用できる面も多かったが、それすらも今後危うくなる。
私のようにここまで危機感を持って生きることが正解というわけではないと思うが、正直、多少なりとも蓄える用意と、無駄を少なくすることを今からでも始めてほしい。デパ地下、スーパーなどで売れ残りは多くあり、それらはどんどん廃棄されていく。一方で、子ども食堂は食料不足になり、貧困層も増えていく。シェルターなどの施設にも支援が少なくなっていく。静かな崩壊は足元に広がっているのを今、どれほど感じていますか? 口にしているものを飲み込むように食べるのではなく、しっかりと噛(か)みしめていただいてほしい。
9月13日に公開された『シサム』という映画の中で、私はアイヌの女性として生きています。アイヌ文化を題材とした映画はいくつもありますが、今作を通して気付いてほしいのは、アイヌという文化と、和人=日本人が、そこにどう入ってきて、自然界の流れをどのように変えてしまったのか。歴史は複雑ではありますが、勝ち負けではなく、何が起きたのか、多少なりとも知っていくと、食一つから向き合う人権と祖国の歴史を学べると思うのです。
私もほんの少ししかまだアイヌを理解していない。重要なのは、知った気にならないこと。知ることはとても困難だが、知ろうとするその一歩が、祖国への重要な敬意ではないだろうか。そしてアイヌ文化と和人の中で当時起きていた事は、今の時代でも起きている気がする。アイヌが日本だとしたら、和人はアメリカではないだろうか。提示されたことに従うしかない、拒絶ができない関係性になっていく構造は、私にはアイヌと和人が重なって見えたのです。
それはまさに、日本の食料自給率の数字にも表れている。輸入に頼らずとも、本来は日本国内でまかなえるものは多くある。土地はあるが、それを耕す人たちが少なくなってきているのも、輸入文化に慣れてしまった末路かもしれない。それ以上に職を奪われた農家の人々に罪はない。国というものはリーダーが変われば、衣替えをする。それが必ずしも的を射ているとは限らない。
今、日本だけではなく、地球上に住む私たちに必要なのは団結力であり、損得でも、利益でもない。共存することは、本来人間にはできるはずではないだろうか? アメリカのリーダーが誰になるか。その行く末を気にする前に、一人一人ができることをするべきではないだろうか。搾取したら、次は搾取される。気候変動のせいではなく、人類そのもののあり方を正す時が来たのかもしれない。
【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No. 38からの転載】
サヘル・ローズ/俳優・タレント・人権活動家。1985年イラン生まれ。幼少時代は孤児院で生活し、8歳で養母とともに来日。2020年にアメリカで国際人権活動家賞を受賞。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f43ea07793e8d9ae22c43422381742a7b6a688f7
ニューズウィーク 9/22(日)
<南アフリカ先住民の遺跡に描かれた壁画に、人類が誕生する以前に絶滅したはずの獣弓目と見られる動物の姿があるのを、大学の研究チームが発見した>
2億年以上前の地球上に生息し、最初の人類が現れるずっと前に絶滅した「不思議な動物」が、南アフリカの先住民が遺した謎の壁画に描かれている可能性が浮上した。南アフリカ、ウィットウォーターズランド大学の研究によれば、壁画に描かれた多様な動物の中にいる「長い胴体と下向きの牙を持つ」正体不明の動物は、獣弓目の一種である可能性があるという。
学術誌「PLOS ONE」に発表された研究論文の著者は、南アフリカ、フリーステイト州にあるラ・ベル・フランス遺跡の岩壁の一部「ホーンド・サーペント(ツノのあるヘビ)パネル」を調査した。これは、現地の狩猟採集民族、サン族(San people)が、少なくとも200年以上前に描いた壁画があるセクションだ。
これらの壁画は、短く張り出した砂岩が屋根のようになった岩陰の遺跡にあり、サン族に関連する動物などが描かれている。そうした動物の一つに、長い胴体と下向きの牙を持つ謎めいた生き物がある。
この動物は、壁画が描かれた1821~1835年に一帯に生息していた既知のどの種とも一致していないように見える。南アフリカ、ヨハネスブルクにあるウィットウォーターズランド大学のジュリアン・ブノワは、この動物はディキノドン類を描いたものだという仮説を提唱している。
ディキノドン類は、カメのようなくちばしと、セイウチのような牙を持つ草食動物だった。最初の恐竜より早く現れ、約2億6500万万年前から約2億年前にかけて存在した。中生代(約2億5200万~6600万年前)後期に、哺乳類へと進化した不思議な生き物のグループ、獣弓目に属している。
遺跡の周辺では多くの獣弓類の化石が発見されている
サン族は、動物や化石など、自分たちが暮らす環境のさまざまな側面を芸術に取り入れていることで知られる。
ブノワは本誌の取材に対し、ホーンド・サーペント・パネルが存在する南アフリカのカルー盆地には、「信じられないほど大量かつ多様」な獣弓類の化石が存在すると話している。南アフリカの面積の3分の2を覆うその地層は、「カルー超層群」と呼ばれている。
カルー超層群では、ディキノドン類の化石も発掘されており、地表に露出していることも少なくない。ラ・ベル・フランス遺跡で発見されたディキノドン類の化石は、おおむね2億5000万年ほど前のものだ。
ブノワは研究論文の中で、ディキノドン類の化石について、「多くの場合、浸食によって頭蓋骨が自然に露出しているため、見つけやすく採取しやすい。また、牙が目立つため、素人目にも、その解剖学的特徴を解釈するのは難しくない」と述べている。
「ディキノドン類の下向きの牙は、ホーンド・サーペント・パネルの動物の牙と似ている。サン族が化石を発見して長距離移動させていたこと、また、驚くほど正確に化石を解釈できたことを直接裏付ける考古学的証拠もある。もしサン族がディキノドン類の頭蓋骨の化石を、かつて存在した動物のものだと識別できたのであれば、ディキノドン類の牙のある顔が、サン族の壁画に描かれた可能性はある」
ブノワは、ラ・ベル・フランス遺跡を訪れたとき、壁画に描かれた牙を持つ生き物が、ディキノドン類の化石とよく似ていることに気がついた。この解釈は、サン族の神話にも裏付けられている。サン族の神話には、かつて一帯に生息していたが、すでに絶滅した大型動物が登場する。
「発見」の科学的な意義と文化的な意義
論文にも書かれている通り、ほかの解釈の余地はあるものの、ディキノドン類の仮説が最も有力で、複数の証拠によって裏付けられている、とブノワは述べている。
ブノワは本誌の取材に対し、「一帯に数多く存在し、サン族が遭遇し、この動物とそっくりだった可能性がある唯一の動物は、絶滅した動物、つまり、ディキノドン類だ」と説明する。
「サン族は、完全に架空のものは描いていない。そのため、純粋な空想は除外してもいいだろう。彼らの芸術は現実の要素、主に動物をモチーフにしていた。セイウチは除外できる。なぜなら、セイウチがサハラ砂漠以南のアフリカに生息したことはないためだ。サーベルタイガーも除外できる。その化石は希少で、一帯では発見されていないためだ。そのほかの牙を持つ動物は、単純に一致する部分がない」
もし壁画の生き物が実際に、人類がアフリカに現れるずっと前に絶滅したディキノドン類だとしたら、この壁画は、ディキノドンが初めて正式に科学的に描写された1845年より、少なくとも10年前に描かれたことになる。
ブノワは、「この発見には、2つの意味がある。1つ目は科学の歴史という側面で、サン族は西洋の科学者より早くディキノドンを発見していたことになる。これは、科学史と『発見』の概念に新たな視点をもたらす」と語る。
「2つ目は文化的な側面だ。サン族が彼らの信念体系に化石を組み込んでいたのであれば、これまで説明が付かなかった壁画の謎に、なんらかの光があてられるかもしれない」
(翻訳:ガリレオ)
アリストス・ジョージャウ
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/先住民が遺した壁画に-当時の人類が見たはずがない生物-が描かれていた-謎-南ア大学チーム/ar-AA1qYy09
VOI 22 September 2024, 12:42
ジャカルタ - 国家テロ対策庁(BNPT)のエディ・ハルトノ長官は、武装犯罪グループ(KKB)との交渉におけるTNIとPolriの協力が、スージー航空のパイロット、フィリップ・マーク・メハルテンス大尉の釈放に成功したと評価した。
「これは、人間の価値を促進するための長い交渉を行う当局の忍耐の成果です」とエディは日曜日にジャカルタで受け取った声明で述べました。
彼はまた、TNI-Polriがフィリップのパイロットを解放するために政府、先住民族、地元の宗教指導者と協力してとった協力的な措置の成功を評価した。
以前、ポルフカム調整大臣のハディ・ジャジャントは、カルテンツTNI-Polri平和作戦タスクフォースによって実施された交渉プロセスは非常に長く、時折護衛されたと述べた。
「この非常に長い交渉プロセスは、ンドゥガ地域の動向を監視するために日々、日々続くTNI-Polriのタスクフォースによって実行されます。そして、現場で望まれていることがうまくいくことに感謝しています」と、土曜日(21/9)にジャカルタのラヌド・ハリム・ペルダナ・クスマでの記者会見でハディは言いました。
ハディは、ニュージーランドからパイロットを解放するための交渉プロセスには、コミュニティのリーダーから教会に至るまで、多くの関係者が関与していると述べた。
パイロットのフィリップ・マーク・メハルテンスは、2023年2月7日からエギアヌス・コゴヤ率いるKKBによって人質に取られました。フィリップは、彼が操縦していたスージー航空の飛行機がパプア山脈のンドゥガにあるパロ飛行場で燃やされた後、KKBに誘拐されました。
メハルテンスは土曜日(21/9)に釈放され、ンドゥガリージェンシーのマイバロック地区、ユグル村でカルテンツ平和作戦タスクフォースチームによって拾われた。
その後、タスクフォースは健康診断プロセスのためにメーラテンスをティミカに飛ばしました。健康であると宣言された後、メーラテンスは空軍に属する飛行機を使ってティミカからジャカルタに飛ばされました。
ジャカルタに到着すると、メハルテンスは、ポルフカム・ハディ・ジャジャント調整大臣が代表するインドネシア政府から、彼の国の政府を代表するケビン・バーネット駐インドネシアニュージーランド大使に引き渡されました。
沖縄タイムス 2024年9月22日 6:50
今からX年前の9月22日、沖縄ではこんな出来事がありました。過去のニュースを振り返ります。
昭和初期に旧京都帝国大(現京都大)の研究者が今帰仁村の百按司墓(むむじゃなばか)から研究目的で持ち出した遺骨を巡り、第一尚氏の子孫らが京大に返還を求めた訴訟の控訴審判決で、大阪高裁は原告らに返還請求権はないとした一審京都地裁判決を支持し、控訴を棄却した一方、「持ち出された先住民族の遺骨はふるさとに帰すべきだ」と付言(2023年)
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中國新聞2024/9/22(最終更新: 2024/9/22)
「被曝で苦しむみんなのため、将来を生きる子どもや孫の世代のため力をつくす」とオンライン取材に答えるビリマンさん
1962年まで繰り返された大気圏内核実験の「風下住民」や、核兵器材料のウラン採掘に従事したがん患者らを対象とする米国の「放射線被曝(ひばく)補償法(RECA)」が6月、期限切れとなった。期限延長と救済対象の拡大を盛り込んだ改正法案が下院で採決に至らなかったためだ。被害を訴える米南西部の先住民は24日から首都ワシントンで抗議活動をする。「私たちが死ぬのを待つのか」。当事者の訴えを聞いた。
残り1789文字(全文:1984文字)
十勝毎日新聞 2024/09/22 10:34
アイヌ民族文化財団(札幌)は10月1日から、胆振管内白老町のアイヌ文化振興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」で、午後2時以降の入場料を半額とする「14時入場券」を販売する。割引後の料金は大人6...
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新華社2024/09/22
奴隷貿易の苦難と連帯への道 グローバルサウスの覚醒 © 新華社
ケープコーストの奴隷貿易城塞。(6月19日撮影、アクラ=新華社記者/李亜輝)
【新華社アクラ9月22日】米国の著名黒人歌手のスティービー・ワンダーさんは74歳の誕生日を迎えた5月13日、ガーナの首都アクラの大統領府で、アクフォアド大統領から身分証明書を受け取り、同国の市民権を得た。
記録に残る最初のアフリカ人奴隷が北米の英領バージニア(現在の米バージニア州)に着いたのは1619年。かつて奴隷貿易の拠点だったガーナは400年後の2019年、世界に散らばるアフリカ人の子孫が故郷の地を踏み、祖先とのつながりを探す「帰還の年」キャンペーンを開始した。
ガーナがある大西洋岸は、無数のアフリカ人奴隷が郷土を離れる前の中継地だった。奴隷の悲しみが染み込むこの地は、後にアフリカ独立運動と汎アフリカ主義の発祥の地になった。
ケープコーストにある奴隷貿易城塞の地下牢に手向けられた花。(6月19日撮影、アクラ=新華社記者/李亜輝)
賛美歌の歌声と奴隷の泣き声
ガーナ・セントラル州ケープコースト。潮風が吹き寄せる海辺に、三角形の石造りの城塞がある。「雄壮な建物の背後にある物語には心を痛めずにいられない」。ガイドとして18年働くロバート・メンサさんは語った。欧州人が築いた同様の城塞は西アフリカ沿岸に60カ所以上あり、うち40カ所余りがガーナに集中している。かつては奴隷を一時的に収容していた。
大航海時代の15世紀半ばに西アフリカ・ギニア湾に達した欧州人は、各地で得られる商品にちなみ、ガーナを「黄金海岸」、コートジボワールを 「象牙海岸」、現在のトーゴ、ベナン、ナイジェリアの一部を「奴隷海岸」と呼んだ。
アメリカ大陸と西インド諸島を植民地にした欧州人はタバコや綿花、サトウキビなどを栽培し、金銀などの鉱物資源を強奪したが、入植者の殺りくと虐待により先住民族の人口が激減すると、労働力の需要を満たすためアフリカに目を向けた。政府の後押しもあり、貿易業者は大規模な奴隷貿易を始めた。
ケープコーストの奴隷城塞は、同様の施設の中で最も規模が大きい。メンサさんは記者を地下牢に案内すると「奴隷たちはここで食べ、眠り、排泄した。排泄物や嘔吐物、血などあらゆる汚物の中で生き、多くが死んだ。彼らの遺体は瀕死の奴隷たちと一緒に海に投げ込まれた」と説明した。
地下牢の上には小さな教会があり、入り口近くに地下牢を監視する天窓があった。「彼らが賛美歌を歌った時、奴隷たちの泣き叫ぶ声も聞いたはずだ」。メンサさんは興奮した口調で「彼らは人身売買をしながら祈りをささげていたのだ」と語った。
ベナンの町ウィダに立つ「帰らずの門」。(5月27日撮影、ウィダ=新華社記者/李亜輝)
ケープコースト城塞から東に約450キロ。ベナンの町ウィダの海岸に、「帰らずの門」と呼ばれる奴隷貿易を象徴する巨大なモニュメントがある。門は、かつて奴隷市場だったチャチャ広場から伸びる4キロの「奴隷街道」の終点になっている。
16世紀初頭にブラジルに上陸したポルトガル人は、大規模なサトウキビ栽培を行った。農園での残酷な労働制度と病気により原住民の人口が急減すると、農場主はアフリカから奴隷を連れてきた。1630年までに約17万のアフリカ人奴隷がブラジルに運ばれ、サトウキビは奴隷制と密接に結び付く作物となった。ドイツの歴史家ウォルフガング・レオンハルトは、ブラジルのサトウキビ農園の労働者は1638年までにほぼアフリカ人になったと指摘している。
ベナンの町ウィダのチャチャ広場。(5月27日撮影、ウィダ=新華社記者/李亜輝)
カリブ海諸国の地域共同体「カリブ共同体」(カリコム)のシャーマン・ピーター国連大使は、15世紀半ばから19世紀末までの400年余りに1200万~2千万人のアフリカ人が代々暮らしたふるさとから連れ出され、奴隷になったと説明した。
4世紀にわたる奴隷貿易は、西側諸国に巨万の富をもたらし、資本の原始的蓄積の一部になったが、それはまた、当時の西側諸国が主導したグローバル化プロセスの残忍性と流血性を人々に認識させることになった。
奴隷制も反奴隷制もすべては利益と帝国のため
カリブ海の島国トリニダード・トバゴの首相を長きにわたり務め、学者としても高い評価を受けたエリック・ウィリアムズは1938年、オックスフォード大の博士論文で「欧州の人道主義精神が奴隷制廃止運動で重要な役割を発揮した」とする欧州植民史家の従来の説に対し「奴隷制廃止は道徳的反省ではなく、経済的利益と戦略的必要性を考量した結果」との見解を示した。
「奴隷制も反奴隷制も、すべては利益と帝国のため」。ウィリアムズは代表著作「資本主義と奴隷制」の中でこのように指摘。奴隷が生み出した富は産業革命を促進したが、資本主義がある段階に達すると奴隷制は自由貿易と資本主義の妨げになったと論じた。
ガーナの首都アクラで新華社の取材に応じる歴史学者のヤウ・アノキエ・フリンポン氏。(6月17日撮影、アクラ=新華社記者/李亜輝)
ガーナの歴史学者ヤウ・アノキエ・フリンポン氏は「国が工業化を成し遂げれば肉体労働の需要は大きく減少する。機械は休みなく稼働できるが、奴隷労働には効率と時間の点で限界がある」と奴隷の需要が減少した理由を説明。奴隷制の終焉(しゅうえん)は西洋人の一時的な良心によってではなく、生産モデルの変化や道徳的議論、法的課題などさまざまな要因が重なった結果だと指摘した。
アフリカの人々も抵抗闘争を諦めなかった。1791年に始まったハイチ革命は、時代の変化の号砲となった。フランス入植者に対するハイチの奴隷の反乱は1804年に成功し、奴隷制を廃止した世界初の国が誕生した。
英国議会は1807年に奴隷貿易禁止法を可決し、他の欧州諸国も同様の法律を公布したが、奴隷貿易はその後も非合法下で続けられ、19世紀末にようやく世界からほぼ姿を消した。
しかし、アフリカの災難は終息には程遠かった。1884~85年のベルリン会議の後、西欧列強はアフリカ全土への侵略と狂気じみた分割を開始。アフリカの苦しみを深め、長期にわたる貧困と停滞に直面させた。
アフリカは団結しなければならない
ガーナの首都アクラの中心部にあるクワメ・エンクルマ廟。独立運動の指導者、初代大統領の遺骨を安置した霊廟に立つモニュメントに、エンクルマの有名な言葉が刻まれている。「私はアフリカ人だ。アフリカで生まれたからではない。私の心の中にアフリカが生まれたからだ」。
ガーナは1957年3月6日に独立を宣言し、サハラ以南のアフリカで初めて西側の植民支配を脱した国となった。「ガーナの父」エンクルマは徹底した汎アフリカ主義者で、アフリカ大陸の真の独立と繁栄を勝ち取るための団結を呼びかけた。
ガーナの首都アクラのクワメ・エンクルマ廟(6月19日撮影、アクラ=新華社記者/李亜輝)
汎アフリカ主義は各地に散らばるアフリカ人奴隷の子孫たちからも支持された。1900年にロンドンで開かれた第1回汎アフリカ会議には、米国や西インド諸島、アフリカの代表が集まり、世界の黒人の境遇について議論し、アフリカと西インド諸島の植民地に自治権を与えるよう呼びかけた。
ガーナ独立の1年後の1958年4月にはアクラで第1回アフリカ独立諸国会議が開かれ、アフリカ統一機構の構想が徐々に形作られた。1963年にアフリカ統一機構(OAU)、2002年にはOAUを継承したアフリカ連合(AU)が発足。自立と自強に向けたアフリカの歴史の新たな1ページを刻んだ。
エチオピア・アディスアベバのアフリカ連合本部。(2月17日撮影、アディスアベバ=新華社記者/李亜輝)
2023年11月、アフリカ連合とカリブ共同体の代表がアクラで会議を開き、世界的な賠償基金の設立に合意。大西洋横断奴隷貿易の期間中に奴隷にされたアフリカ人に対する正式な謝罪と賠償を欧州諸国に促した。
ガーナのアクフォアド大統領は会議の開会式で、奴隷貿易の傷と結果は金銭で償えるものではないとしつつも「(賠償問題)は世界が向き合うべき問題で、これ以上見過ごされてはならないのは確かだ」と述べた。
アフリカの人々が歴史の痛みを忘れたことはない。故に彼らは自信と自立を強め、声高に公正を訴え、しかるべき権益を勝ち取り、世界に新しいアフリカの姿を示している。かつての「暗黒大陸」は、歴史の大河の中で再生を遂げ、輝かしい未来へと歩みを進めている。(記者/周楚昀、許正、朱瑞卿、李亜輝、孫毅)
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