北海道新聞 2025年2月12日 10:27(2月12日 14:39更新)
■1月10日、美唄中で開かれたアイヌ民族文化財団主催の「学校教育におけるアイヌ文化に関する講習会」から
2019年に施行されたアイヌ施策推進法は「アイヌの伝統や文化を尊重し、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活できる社会の実現」を目的としています。
しかし、アイヌ民族の伝統と文化は100年以上、和人によって破壊し尽くされてきました。いまだに差別もなくなりません。今更、民族としての誇りと言われても、どこから湧いてこさせることができるのかというのが、私の正直な実感です。
私がアイヌという言葉に〝出合った〟のは、小学校に入学してすぐでした。大勢の人がいる環境に驚いて熱を出して学校を休み、翌日、登校すると、同級生に嫌な言い方で「アイヌ」と言われました。私は母に連れられて5歳から踊りを習っていましたが、それがアイヌの踊りとは知らなかったし、自分が和人と呼ばれる日本人と違うとは思っていませんでした。
ただ毎日毎日、執拗(しつよう)に繰り返されるいじめに、私はアイヌという何か汚くて嫌なものなんだろうと思うようになっていきました。
いじめにはパターンがありました。リーダー格の男子が暴言を吐き、子分が小突き、見ている女子が「汚いから触るんじゃないよ」と笑う。抵抗すると長引くから静かにしているけれど、あまりにしつこくて年に何回か爆発して対抗したり、大声を出したりしていました。すると、普段は見て見ぬふりの先生が私を怒るのです。
街で買い物をして、店に歓迎されたこともほぼない。小学3年の時、運動会のために靴を買いに行き、試し履きしていいかと店主に聞くと、「アイヌが履いた汚い靴、誰が買うか」と吐き捨てられました。2キロ以上の道を歩いて帰り、定規で自分の足を測って同じ店に戻って買いました。
家が貧しく、ノートを買ってもらえなかったので、新聞の折り込みチラシの裏にその日あった嫌なことを書きなぐりました。そうして自分の気持ちを吐き出さないと、気が狂うと思ったのです。
中学に入学してすぐに、人権に関する作文募集の案内を先生にもらい、人権の意味を辞書で引きました。そこで初めて、私が受けてきたことは人権侵害だったと気づきました。原稿用紙8枚に一気に書き上げた「差別」という作文は、人権擁護委員会のコンクールで最優秀賞に選ばれました。
その後、さまざまなメディアの記者が学校や家に取材に来ました。「差別に負けない」という見出しの記事が出ると、「負けないならもっと差別してもいいべ」と、いじめはひどくなりました。
この国は昔から政策的にアイヌを差別してきました。国がアイヌに開墾させた土地は本州から渡ってきた人より狭く、農地に適さない荒野で、維持できなければ取り上げられました。学校では日本人化を進め、言葉も文化も慣習も奪われた。
私たちは1997年まで「旧土人」でした。想像してみてください。自分が30歳まで国から旧土人と言われて生きることを。
私自身、その日を生き抜くのに必死でした。中卒で働き、パートやアルバイトで食いつないで、60歳を目前にした今もそんな生活を続けています。私は悔しいのです。アイヌとして生まれただけで、差別され、人生を踏みにじられて。一体、こんな思いをしなければならないほどの何を私がしたというのでしょう。
和人の中にも貧しい人はいると言う人もいますが、前提となる背景が違うことを理解してほしい。恨み言を言っても始まらないと、ウタリ(同胞)にたしなめられることもあります。でも本当にたしなめられるべきは、無関心という最も冷たい差別をしている人たちではないでしょうか。
アイヌ語には「天から役目なしに降ろされたものはひとつもない」ということわざがあります。差別というあの作文を書いた時から、草の根でもアイヌの現状をお話しすることが、私の役割だと思っています。